三百三十八 志七郎、黄泉路を降る事
振り返れば零れ落ちそうに成る物を堪え、右手を高く上げソレを振り、
「じゃぁ……ね」
危うく『またね』と言い掛けたのを噛み殺し、気を使って足を止めようかと此方を見上げた沙蘭に小さく首を振って進む様に促す。
今回の……この世界での事は、自分が如何に弱い人間だったのか、それをまざまざと突き付けられる物だった。
別れ等幾つも経験してきた、感情を押さえ表情を見せぬ訓練だって積んで居たにも関わらず、心の汗は溢れ出し今にも流れ落ちそうに成る。
それは多分、今の俺が子供だから……と言うだけでは無い、俺は……隠神剣十郎は、俺自身が思っている程に大人では無かったと言う証左なのだろう。
刃金すらも弾き返す鬼亀の甲羅で作られた小手に鎧われた腕では、其の雫を拭うことは出来ず、とうとう堪えきれずに零れ落ち……その雫が地に落ちるよりも一瞬早く、俺達は山門を曲がった。
歪む視界に広がった風景は本来有るべき閑静な街並みでは無い……いや、街並みその物は変わらずに見えている、ただ其処に有るべき色が違うのだ。
印籠や鬼切手形と共に腰の帯にぶら下げてる手ぬぐいを引っこ抜き、邪魔なソレを拭い去ると、其処は間違い無く只人がそう簡単には踏み込めぬ場所――『猫の裏道』だった。
世界からほんの少しだけズレただけの場所に過ぎない此処までは、猫の先導が有れば来る事が絶対に出来ないという訳では無い。
だがそれもほん僅かの間の事、更に数歩踏み込んだだけで、陽の光でも月の明かりでも無い、光源がハッキリしない極彩色の灯火が万華鏡の様に煌めき、その度に半透明の膜を通して見ていた様な風景が切り替わる。
比較的裕福な者が住む大きな家が立ち並ぶ住宅街が、幾つものビルが立ち並ぶ市街地へ、再び切り替わると次には藁葺の屋根が連なる農村へ、西洋風の城塞が見えたかと思えば、今度は何処かの天守閣……と、今まで居た世界の何処かと思える風景が広がり消えた。
「儂等が動いている訳じゃぁ無ぇぜ? 世界の外へと出たが故に世界の方が動いてるんだ」
俺が今まで通った『猫の裏道』では見られなかった光景に驚きを隠せずに居ると、沙蘭は目深に被った三度笠を指先で持ち上げ、にやりと笑いながらそう言った。
その話に拠れば、世界の動きから切り離された俺達は地球の自転から取り残される形で、地球の廻りを超音速で移動――動いているのは地球の方だが――している状態なのだそうだ。
「今はまだ一寸離れただけで同じ世界の何処かが見えてるだけだが、も一寸行きゃ隣接近似世界が見えて来るんだ……他所の世界ならな」
そして吐き出された溜息混じりの言葉。
世界というのは通常、ほんの些細な違いの結果少しだけズレた『類似可能性の並行世界』が無数にソレこそ数珠の様に連なり存在して居るのだが、この世界を含めた幾つかはソレが無い特別な『独立世界』なのだと言う。
無論、類似する世界が無いと言う訳では無いが『独立世界』は、その世界と他の世界との間に通常よりもずっと広い『隙間』が有るのだそうだ。
「その隙間こそが、所謂『あの世』って奴さね。ほら……もう二歩進みゃぁ見えてくるぜ、お前さんは前にも見た事が有るかも知れねぇなぁ」
言われるままに歩を進めると、目が痛く成るような光の乱舞が消え、色彩に乏しい灰色の砂利と、吸い込まれそうな暗色の濁流、そしてその向こうに広がる鮮やかな黄色の花畑……それは此方か向こうかの違いは有れど、何時か見た『あの世』の光景だった。
「おっと、其処で一旦止まりな。儂だけならこのまま進んで適当な渡し守に船を出して貰うんだが、生きたお前さんを連れて……ってんなら、そう言う訳にも行かねぇ」
言われるまでもなく、急激な風景の変化に思わず俺は足を止めていたのだが……とは言え、言われなければ再び歩み出していたのも間違い無いだろう。
「真っ当な死神なら、ただ追い返されるだけで済むかも知れねぇが、中にゃぁ手前の成績を上げる為、お前さんの魂を狩る様な輩が居ないとも限らねぇ」
完全に足を止め、聞く姿勢に入った事を確認し沙蘭は再び口を開く、今いる位置はまだギリギリ『この世』で有り、河を渡った先が本当の『あの世』、目の前に有るあの大河はソレを隔てる所謂『三途の河』と言う奴だ。
「儂もお前さんも下っ端連中に遅れを取るとは思わねぇが、逃げ場の無い船の上でやり合うのははっきり言って悪手以外の何物でも無ぇ」
河を行き交う舟は渡し守の能力で編まれた物で有り、彼らを打ち倒してしまえばその舟は消える。
其処までやらずとも、暴力で脅し舟を乗っ取る様な事をしたとしても、河の半ばで舟を消されてしまえば、河に落ちるのは間違いない。
河に流れる黒の水は『時』その物で有り、ソレを少しでも口にすれば膨大な時の流れによって魂に刻まれた記憶すらもが押し流され消えてしまうのだと言う。
故に生きたまま、河を渡ろうと思えば舟を使うと言う選択肢は無い。
「かと言って『橋』は警備が厳重過ぎて、すり抜けるのも無理な話だ」
あの世界を囲む様に流れる『河』には幾つか『橋』も掛かっては居るのだが、当然ながら其処は獄卒達が丸で軍隊の様な組織力で検問を敷いて護っているらしい。
その厳重さは猫の子一匹すり抜ける事は出来ぬレベルの物だと言う。
当然ながら完全装備に大きな荷物を背負った俺が其処をこそこそと抜ける等、考えるまでも無く不可能だ。
かと言って腕力に任せて強引突破なぞすれば、下位職員だけで無くあの世中の上級職員達まで総動員で狩り殺されるのは、あの世の事情に詳しく無い俺でも容易に想像出来る。
「ついでに他の死者に見つかっても厄介な事に成るぜ? 昔は兎も角、最近の死者は手前の都合と欲ばっかり主張する輩が少なくねぇからな、只管並ばされて居る連中の横をすり抜ける様な真似すりゃ大騒ぎにならぁな」
言いながら肉球の手で器用に握った棒で指し示した先には、微かにでは有るが行列を作っている人影が見えた。
『橋』を渡る事が出来るのは極めて一部の『善人』だけで、ソレ以外の者達は皆、舟に乗る為永い長い順番待ちの行列を強いられて居るのだ。
前に見た通りならば、あの行列は河を超えて更に先へと繋がっている程の大行列で有る。
そんな中で正式に『橋』を渡る資格が有る者が居たとしても『自分に資格が無いのに何故彼奴が!』と大騒ぎに成るらしい。
「屑程声が大きいってのは、何時の時代も変わりゃしねぇ……そんな事で騒ぐ輩が『善』な訳がねぇってのにな……手前の徳が無い癖に他人が得するのは許せねぇ……ってか?」
口寂しく成ったのか、旅合羽の中から取り出した煙管にマッチで火を着けて、一口吸い込み不愉快そうに煙を吐く。
「どの尺度で『善』なのか知らないけど、その場の法に文句を言う奴がそう判断される訳が無いのは、馬鹿じゃ無けりゃ解る事ですよね」
漂う煙を手で払いながら俺が応えれば、
「違ぇねぇ」
と小さく笑い声を漏らし、
「とは言え、儂等猫でも正式な方法で河を渡るにゃぁ色々と面倒な手続きを踏まねぇと行けねぇからな……ソレをすり抜けるルートの一つや二つは押さえてあるから心配すんな」
今までの会話が何だったのか、最初から其処へと案内すれば済んだだろう、そう思わせる台詞を吐いたのだった。




