三百三十六 志七郎、儀式を終え別れを惜しむ事
薄く切り揃えられた鮑を一切れ、手掴みで口へと放り込む。
薄切りにしたソレを叩いて伸した物を乾燥させた『打ち鮑』が供されるのだが、俺の目の前に有ったのは新鮮な鮑を酒粕とわさびで漬け込んだ『わさび漬け』だ。
打ち鮑自体は猫喫茶の先代で有る、祖母の実家が営む乾物屋でも取り扱っている事は知ってる。
態々こんな手の込んだ『式』を用意しているのに、何故本来の『意味』を外した品を出しているのか?
その疑問に答えが出ないまま、鼻に抜ける辛さと絶妙な歯ごたえを楽しみながら、重ね盃から一の盃を取り左手に座った親父にソレを向ける。
朱塗りの小さな薬缶の様な銚子を手に取った彼は戦場を経験した事など無い筈だが、その表情は数多の戦場を超えた武士と比べても全く見劣りせぬ覚悟の色が伺えた。
銚子を傾け盃に白く濁った物を満たしていく、その純白の礼装に身を包んだまま訓練された厳かな動きは、戦後初の自衛隊海外派遣など難しい事案を己の責任として背負って来た将官の姿だ。
微かに香る酒精の香りに、所謂にごり酒の類かと思い多少躊躇の気持ちは有るが、本気で子供の身体に酒を入れる様な馬鹿な事を、此処に居並ぶ大人達がする筈も無い、そう考えて盃の中身を口に含む。
口の中に感じる独特の甘さ……うん、コレは間違い無く子供の為のお酒――甘酒だ。
安心して盃から一度口を離し、二度、三度と分けて中身を干す。
一度で飲み干すのでは無く三度に分けて呑むのは儀礼に則った物だ、神前結婚式で行う三々九度はこの出陣式こそが起源なのだ。
二つ目の肴――栗と鶏の煮物から栗を一つつまみ上げ口へと放り込み、二の盃を手に取り再び酌を受けそれを三度口を付け呑み干し、最後の皿へと手を伸ばす。
中に鮭が入った昆布巻き、関東圏では余り見かけない物だが……悪く無い。
そして三の盃を手にしそれを差し出すと、盃を満たす親父の手が微かに震えている事に気が付いてしまった。
考えてみれば無理も無い、一度死別した息子が……姿形は違えども戻ってきたと言うのに、それを二度と帰る事の無い場所へと送り出そうと言うのだ。
例えそれが覚悟を決めたとしても、完全に割り切る事が出来る筈も無い。
事実お袋は気丈な笑みを浮かべては居るものの、その瞳からは止め処無く涙が零れ落ちている。
しかし親父は表面上は威厳と貫禄に満ちた兵の顔を貫き通していた。
とは言え、荒事を含め数多の交渉事を乗り越えてきた祖父さんに比べれば、まだ感情の殺し方が甘い様に見えてしまうのは、比べる相手が悪すぎるのだろう。
コレを飲み干せば俺は、この世界から離れる事に成る……。
それでも兄貴に背を押され、親父やお袋も覚悟を決めて送り出そうとして居るのを無下にするのも違うだろう。
ゆっくりと、三度目……九度目の一口を飲み干すのに要した時間は……それまでで最も長く掛かったが、それでも……終わりを告げたのだった。
「この世界でやり残した事はねぇな? 一度『外』に出てしまえば、もう二度とは戻れやしねぇ。特にお前さんにゃぁ時間が足りねぇんだ、忘れ物しましたーって訳にゃぁ行かねぇぜ?」
出陣式を終え縁側から庭先へと降りると、三度笠に旅合羽を纏い風呂敷包みを縛り付けた棒を肩に担ぎ、二本足で立ち上がった猫がそんな言葉を投げかける。
ポン吉達親子は兎も角、俺の家族は此方側の世界等知らない筈だ。
にも関わらず慌てて彼らを振り返ったが、誰一人として驚いた様子は無い。
「え……? あれ? なんで……?」
思わずそんな言葉を漏らせば、軽く肩を竦めて顔を見合わせ、
「生まれ変わりの実体験者がどの口で……」
「世の中『有り得ない』こそ有り得ない……長い事、軍事に関わっていればそんな事は幾らでも有る」
「寸原先生の後釜に成る前提で勉強させてもらってるんだ。この二年、色々と知る機会は有ったさ……色々と……な」
男性陣は何を今更……と呆れた表情でそう言い放ち、
「私もねぇ……若い頃は色々と見えてたんだけどねぇ。一ちゃん産んだ辺りからあんまり見なくなって、十ちゃん産んだ頃には完全に消えたのよねぇ。まぁ青森の親戚にはイタコさんが居るらしいし、そういう血なのね私」
と、お袋に至ってはそんな身も蓋もない親戚事情を口にした。
兎角彼らに取って猫又の一匹や二匹、今更の事と言う話らしい。
安心して良いのか悪いのか今一つ解らない事実を聞き、何やら腑に落ちない物を感じつつも、この世界を去る俺にこれ以上出来る事も無く……ただ一つ溜息を付いて『旅猫』沙蘭に向き直る。
「良いんだね?」
笠を少しだけ持ち上げ、真っ直ぐに俺の瞳を見つめ、そう言う沙蘭に俺は無言で頷き肯定の意を示す。
「んじゃまぁ、最後の準備が必要だわな……親父……」
ポン吉がそう言い、数珠を手に片合掌で瞳を閉る。
「応よ、みな迄言うねぇ」
それ応じた本仁和尚も改めて姿勢を正し、二人の声が綺麗に揃って辺りに響き渡り、事前に打ち合わせて有ったのだろう、読経が始まると同時に芝右衛門が鎧櫃の封を切る。
鎧から漏れ出すだけの妖氣でも只人には障りが出る事は、先日この目で見て知っているが、今回はそんな様子も無い。
彼らの読経は俺の行末の幸運を祈る様な物では無く、鎧から漏れる妖気からこの場に居る只人を護る為の物なのだろう。
芝右衛門の手からお袋の手に渡り、ソレを俺は一つづつ纏って行く。
恐らくはこの世界に置いて、最上級の異端とも言える凶悪なこの妖氣は二人の実力ある僧侶が全霊を篭めて初めて押さえ込む出来る程の物の様で、術を使う事に慣れた和尚はまだしも、ポン吉は中々に苦しそうに見える。
少しだけ鎧う速度を速め、荷物の詰まったリュックを背負い、最後に兜の緒を締め、何故か兄貴が持っていたノートPCが入っていると思わしき手提げ鞄を受け取り……出立の準備は整った。
別れと……御礼の言葉はあの夢の中で済ませている、これ以上何を口にするべきか……。
そんな俺の内心を察したのか、それとも彼らも思いは同じなのか、一言も発する事無く親父が先程出陣式で使ったのとは別の白い安っぽい盃を差し出した。
見れば術の行使に忙しいポン吉親子以外の皆が同じ物を手にしている様だ。
それを受け取り、祖父さんが差し出した徳利から無色透明の何かが注がれ、徳利を受け取り他の皆に返盃して回る。
……出陣式と同じ古くからこの日本に伝わる別れの儀式。
だがコレは再開を願う様な物では無い、今生の別れを告げる最後の盃。
皆の手に水盃、誰も一言も発する事無く、ただそれを一度目線に掲げ、一息に飲み干し……盃を足元へと叩き付けて割砕く。
もう二度と戻る事は無い、二度と盃を交す事は無い、俺達の往く道は二度と……二度と交わる事は無い。
最後にもう一度皆の顔を見回せば、祖父さんはただ強い意思を篭めた視線で俺を見つめ一つ頷き、お袋は心配そうなそれでも子供を送り出す母の強さを示すかのように歯を食いしばり、兄貴は今まで見た事の無い様な優しそうな表情で俺を見下ろしていた。
ポン吉も苦しそうな表情で読経を続けつつ片目を開けて目礼し、芝右衛門は普段通り和やかな表情のまま、それでも何処か寂しそうな目で小さく手を振っている。
別れの儀式を司る和尚も、そしてそれを支え続けた小母さんも、永遠の別れは慣れた物と言う事か、表面上は大きな変化を見せていない。
そして……それまでの威厳有る将官の表情をかなぐり捨てて、完全に涙腺崩壊した情けない面を晒して居り……俺は思わず引き攣った笑みを浮かべ、全力で視線を反らしたのだった。




