三百三十五 志七郎、三献の膳を前にツッコミを貰う事
俺が一足遅れて茶の間に向かうと、普段置かれている大き目の卓袱台が片付けられポン吉家族三人と芝右衛門そして俺の分と、五人分の御膳が置れていた。
ポン吉と本仁和尚が袈裟を纏っているのは朝のお勤めも有るので当然の事と思えるが、同席する芝右衛門は仕立ての良いモーニングコート姿で、更に普段は動きやすさ第一で着飾る事を殆どしない小母さんもお高そうな黒留袖を纏い座っている。
皆が態々正装でこの場に居るのは、当然ながら俺を送り出す為だ。
その証拠に御膳に並ぶは『鮑のわさび漬け』『栗と鶏の煮物』『鮭の昆布巻き』それから三枚重ねられた盃……。
『打ち鮑』『搗栗』『昆布』この組み合わせは、古来武家の者が戦へと赴く際の出陣式で口にした物に準えているのは明白で、敵に打ち勝ち喜ぶと言う意味が篭められた物である。
此方の世界で産まれた伝統が何者かに拠って向こうに持ち込まれたのか、それとも只の偶然か……少なくとも今の日本では一般的とは言い難いソレは、双方の世界に共通する儀式だった。
此処で俺が武門に産まれた者として、送り出される者として、どう振る舞うべきかは理解して居る。
だがそれをすれば俺の意思で此処を……この世界を旅立つ意思表示と成るのではなかろうか?
そんな思いが胸の内で渦巻き、俺は自身の為に開けられた上座に着く事を躊躇し、ただ立ち尽くす。
けれども誰一人として疑問の声を上げる事も無ければ、気遣いの言葉を発する事も無い。
結局の所、俺自身が決断しなければ成らない事なのだ。
何をどう言おうと口を出せばそれはもう俺の意思とは言い難い物と成る、狢小路一家も芝右衛門も人を教え導く立場で長く過ごしてきた者として、そんな事は重々承知の事。
故に皆静かに目を瞑り、俺の行動を待つ。
俺の意思は何処に有るのか……迷いは収まらず、決断を下せずにどれ程時間が経っただろう……。
「何時まで反抗期のつもりだ、この愚弟!」
その隙だらけの後頭部を何者かに張り倒され、顔面から畳に突っ伏すのだった。
振り返り見上げれば、其処にはポン吉同様に目の下に大きく隈の有る疲れきった顔に怒筋を浮かべ、
「まったく……どうせやるべき事とやりたい事……その優先順位付けで迷ってパニックを起こしてるんだろう。一片死んでも治らないとは……お前は余程の大馬鹿者だな」
直接血の繋がった家族の中では、唯一会う事の叶わなかった前世における我が兄『隠神剣一郎』が其処には居た。
よくよく見ればその後ろ、廊下を挟んで反対側の一室には両親と祖父の姿も有る。
「やるべき事が有るならば先ずはソレが最優先、やりたい事はソレを成した後の余暇でやる。お前はソレを履き違えたのをずっと後悔してたんじゃなかったのか?」
腕を組んで俺を見下ろし、堪えきれぬ怒りを押し殺す様に静かに語りかける兄貴。
「はんっ! 自分の意思も無く、ただ言われた事だけやって、挫折も苦労もしてない優等生様にゃぁ言われたく無いわ!」
だが……誰に言われても、此奴だけには言われたくは無い台詞だ。
何を考える事も無くただ反抗する為だけの言葉が口を吐く。
無論、本当に苦労が無かった等と本気で思っている訳では無い。
けれども少なくとも俺が生きていた間、彼は俺以上に順風満帆としか言え無い、絵に描いた様なテンプレート的な優等生人生を歩んで来たのだ。
しかしそれは端から見ている分に於いて、趣味らしい趣味も無く、夢らしい夢も見ず、ただただ親や教師の言う通りに、しかも何事をするにも余裕綽々で成し遂げる、鼻持ちならない人間にしか見えなかった。
「だから今、苦労してるんだ。目の前に有る課題をただ熟すだけ……とは違う世界でな……」
苦労と言う言葉が嘘では無い事はその顔を見れば良く分かる、何時も澄まし顔で何処か他人を嘲笑ってる様な雰囲気の有ったのが、人間らしい感情を湛えた物に変わっていたのだから。
「それでも、物事の優先順位は変わらない。先ずやるべき事がはっきりしているならば、ソレを全力で片付け思い悩むのはそれからすれば良い。即断即決が求められる現場に居たお前なら、そんな事は俺に言われなくても一番良く知ってるだろ?」
一度言葉を切った兄貴は、表情を緩めながら諭す様にそう言い更に口を開く。
その言に拠れば兄貴を含めた家族は、隣室で俺の旅立ちの無事を祈る為だけの筈で、下手に里心を付け旅立ちを躊躇う様な事に成っては逆に可哀想と、その姿を見せる予定は無かったのだそうだ。
実際に顔を合わせ、更に夢の中で言葉を交わした他の家族はそれを当然の事と受け入れて居たが、曽祖父の急な葬式で呼び戻されただけで俺の事を知らない兄貴はソレを簡単に受け入れられる筈も無い。
それがこうして態々顔を合わせて説教をぶちかましたのは、迷い戸惑う俺の後ろ姿に強い既視感を感じ、俺が俺なのだと感覚的に理解してしまったからだと言う。
「だがお前は……いや俺も、その優先付けを間違えた……」
そして自分の胸の中に有る苦悩と後悔と……俺と自分双方への怒りに突き動かされて、思わず手が出たのだそうだ。
「お前が悩んで居た時も、趣味に逃避してた時も、ただ馬鹿な奴としか思わなかった。家族として兄として、叱るなり諭すなりするべきだったのかも知れない。それは親父がやるべき事で有って俺の仕事じゃない、そう切り捨てた……」
苦虫を噛み潰す様な顔でそう言い放つ兄貴。
その言葉を信じるならば俺の感じていた印象通り、彼は俺を見下し嘲笑っていたのは間違い無いらしい。
それが間違いだったと気づいたのは、俺が死ぬ少し前の事、剣太郎――自分の息子すら碌に構ってやらず、父親で有る自分より、祖父を懐き慕っている事に気が付いたからだと言う。
「やるべき事と自分が判断した物は目の前に積み上がった課題だけで、本当に必要な事を考えて来なかった、その結果……俺のフォローは結局家族がした。お前のフォローも家族がするべきだ。そして俺達は家族……だが、お前には俺達以外にも家族が居る」
記憶の中に有る通りの嘲笑う様な表情を――その対象が俺では無く己自身だと言う違いは有るが――浮かべ、一度何かを自分の中で咀嚼する様に言葉を切り、
「敢えて言う……お前が今『やらなければ成らない事』は、家族の下へと帰る事だ。俺は……俺も親父もお袋も、お前が居ない事を……死んだ事は既に受け入れた……過去だ」
己の無情を己自身で責め立てる様に、苦しそうに喉の奥から言葉を絞り出す。
「そしてそれは……死んだ曾祖父さんも同じ事を言うだろう。もしお前がこのまま此処に残ったとして……どの面下げて曾祖父さんの墓前に報告するつもりだ?」
死者を利用する様な物言いは、彼自身卑怯だと感じているのだろう、俺の知る自信に満ちた兄貴の姿とは違う、歳相応以上に疲れ切った中年の姿が其処には有った。
否定の余地も無いその言葉を、頭で理解は出来ても感情では納得する事が出来ず……
「ちなみに兄貴の『やりたい事』ってなんだったんだ?」
せめて一太刀、意趣返しの積りでそんな言葉を言い放つ。
「女房を嫁にもらって幸せに暮らす事に決まってるだろう? 勉強も就職もその為の手段に過ぎない。まぁ今は嫁だけじゃなく家族の為に色々と学んで居るんだがな……」
すると記憶の中と同じ尊大な笑みを浮かべ、思いも寄らない惚気言葉が返ってきたのだった。




