三百二十六 『無題』
「御免、龍背藩主長岡輝彦、上様のお召と聞き罷り越した」
つい一昨日、仲秋の月見会があったばかりだと言うのに、態々居屋敷に呼び出す等相応の理由が有るのだろう。
「おお! 兄者! 遅かったのう、先に始めさせて貰っとるぞ!」
そう思い、指定された刻限よりも幾分か早く駆けつけたのだが……
「上様のお召し出しに遅れたのだ、先ずは駆けつけ三杯。真逆断る等とは申しませぬな龍背藩主殿?」
其処では既に、腹違いの弟達が出来上がっていた。
側室の子とは言え長男で有る俺を召し出したのだ、もしや将軍位の引き継ぎに付いての相談だろうか、そうであれば何を置いても辞退しなければ……そんな考えを持ってこの場にやって来た自分を殴りたくて仕様が無い。
見れば男兄弟八人の内今この火元国に居る全員が揃って居たのだ、自分が長男で特別だ等と思い上がりも甚だしい事を考えて居たからである。
とは言え、長岡家に預けられてから五十年、婿養子となり大名家を継いでから既に二十年以上が経つ、そうそう腹の中を面に出すような迂闊な真似はしない。
「上様……いや、この面子成らば親父殿と呼ぶべきか? うん、親父殿は如何した? 真逆兄弟で飲むと言うだけでの呼び出しではあるまい?」
次弟――小普請旗本茶倉家の当主、やはり婿養子――の光彦が差し出す盃を受け取りながら、そう問いかければ、
「親父殿はちょいと厠じゃ。こうして兄弟が集まるのも数年ぶりの事、長兄殿もそう顰めっ面で堅苦しくしとらんと……ほれ、御台様の旨煮じゃ……好物で御座ったろう?」
と、大鍋から小鉢に旨煮を取り分けつつ、六弟――風間藩家老隈田剛光、勿論婿養子――が、そう応えを返す。
「すまんな……しかし、こうして兄弟が揃うのは定光の葬式以来……か」
ぐいと盃を干し、二杯目が注がれるのを受けつつ、そんな言葉を口にしてみる。
当代征異大将軍、禿河光輝と御台様の間に生まれた唯一の男児だった七弟――禿河定光がその生命を散らしたのは五年程前の事。
身重の女房に滋養のある物を食わせてやりたいと、自ら戦場へと足を運び、其処で不運にも兎鬼の群に鉢合わせ、首を刎ねられてしまったのだ。
定光の預かり先だった弓削山藩有馬家が、その一件を理由に改易処分を受けたのは可哀想な話では有る。
だが仮にも次期将軍が内定して居る者が、幾ら下位とは言え戦場へ単独で赴き、しかも命を落とす様な教育を施したのだから、言い訳等出来よう筈も無い。
武に拠って立つ武士の首魁で有る以上、彼の一郎や鬼二郎の様に単独で戦場へ出るならば、如何なる者が相手でも帰って来る武芸を身に着けて居なければ成らず、其処までの腕が無い成らば護衛を務める者から離れるべきでは無いのだ。
と、そんな事を思い出しながら二杯目を干し盃を差し出すと、
「……俺も定光兄貴の事は笑えんな。まぁ女房子供を残して犬死する心算はありゃしねぇが……油断は禁物だわな」
そう言いながら、末弟――親父が近場の湯治場で手を付けた湯女の産んだ子で建前上、武士では無く、家名も無い――輝明が三杯目の酌を取る。
「そう言えば、御主も所帯を持ったのだったか……ついこの間まで洟垂れだと思っとったのに、儂も歳を取る訳だ……」
本来で有れば父無し子として市井の中でも肩身狭く生きるだろう彼を、拾い上げ一人前の男として育てたのは何を隠そう御台様で有る。
お忍びで出掛けた親父殿が見世の湯女をお摘みした事を敏感に察知し、御台様は自分に付けられた御庭番衆の女忍を使い、その後を調べさせたのだそうだ。
結果、その娘は産後の肥立ちが悪く命を落とし、孤児と成った彼を回収するに至ったらしい。
既に藩主の立場を得て参勤交代で国元に居た為自身では目にしていないが、女忍が乳飲み子を連れ帰った折には、大奥に居た全ての女が一致団結して親父殿を責めたてた、と言うのだからその光景はさぞ見ものだっただろう。
「祝言を上げたなぁ、もう二年の話だぜ? 去年は子供も産まれて、今も女房の腹にゃぁ二人目が居るんだ。そう簡単に死ねるかってんだ」
儂の目から見れば未だ幼さが残っている様にも見える二十歳そこそこの若造だが、その目は間違い無く子を背負う親父の目をしていた。
「子が出来たならば、安定した収入が必要だろう。前から何度か言っている通り、長岡家に仕えぬか?」
出自の云々は兎も角として、鬼切り長者番付に名の乗るこの弟を家臣にすれば色々と使いでが有るのは間違いない、兄弟の情が無くとも欲しい男では有る……が、
「兄者! 抜け駆けとは卑怯な! 輝明! どうせ士官するならば龍背の様な小藩よりも、家の方が良い条件を出してやれるぞ」
「何を言うか、せっかく士官すると言うならば、陪臣よりも直臣だろう。家の寄り子に成るなら一家立ち上げる支援は惜しまぬぞ!」
「はん! 小普請組にどんな支援が出来ると言うのか……その点、我が家ならば、お前の子等にも最高の教育を施す事が出来るぞ!」
それは弟達にとっても同じ事、儂の言葉に皆一様に気炎を上げて士官条件を並べ始めた。
とは言え、酒の肴とするには少々生臭く、また誰が選ばれても遺恨を残しかねない状況にしてしまったのは、誤りだったかもしれん。
何と言って話を打ち切るか、思案し始めたその時だ、
「おう、おう……儂が厠へ行ってる間に随分とまぁ盛り上がっておるの……。だが儂とて何の用事も無く臍繰を突っ込んでこの場を設えた訳では無い、悪いがその話は一旦其処までにして置いてくれ」
膨よかな太鼓腹を揺らしながら姿を現した親父殿が、そう言ってその場を収める。
幾ら内々の宴で有り親父殿と息子達だとは言え、家臣と主君の立場を完全に忘れる訳には行かない。
親父殿が黙れと言ったならば、それに従うのは当然の事で有る。
唯一主従関係に無い輝明も、武士の身分では無い以上逆らえば妻子にも類が及ぶだろう。
皆姿勢を正し、平伏して親父殿が上座に座るのを待つ。
「よい、皆、面を上げよ。今日集まって貰ったのは定光の息子の事じゃ」
親父殿の性格を鑑みれば、身内の集まりだと言うのにこうして恭しく振る舞われるのは、好む所では無いだろう。
そうさせてしまった自分の不明を恥じつつも、耳はしっかりと傾ける。
曰く、定光の忘れ形見が年明け七つとなり、次期将軍候補足り得る血筋の彼は、慣例に従うならば何処かの藩に預ける事に成るのだが、母の実家は既に改易され旗本未満の御家人と成ってしまっているが故に、後ろ盾が無い状態で預けるのは少々不安が有る。
親父殿が存命中は親父殿が後ろ盾と成れるが、歳も歳だ。
何時までも呆ける事も無く第一線で政を続けられる訳では無い。
「故に其方等兄弟の内の誰か……と言うか、皆共同で後見を務めて欲しいのじゃ」
真摯な眼差しで俺達を見渡しそう言う親父殿に、全員が全員思わず視線を彷徨わせる。
無理も無いだろう何せその言葉は、今この場に居る者達全員が、次期将軍候補から外された、と言う事も同時に意味しているのだから。
とは言え、一寸考えればソレは別段驚くべき事では無い。
輝明を除き皆還暦近いのだ、激務に次ぐ激務に晒される将軍位に長く座る事は難しいだろう。
代替わりの前後はどうしても政が荒れる、民草の生活を考えれば出来るだけ若い者を据えた方が良いのだ。
光明が外れるのは、俺達が呼び集められたのと同様、母方の実家と言う後ろ盾が無いからで有る。
「後ろ盾と成る事自体は構いませぬが、件の子は何処へと預けるので?」
弟達の視線が自分の背中に突き刺さるのを感じ、仕様が無くそう問いかける。
全く長男と言う物は何かと貧乏籤を引かされる物だ、心の中で溜息を吐きながら親父殿の返答を待つのだった。




