三百二十 三狸、絶望と希望を知る事
ほんの小さな島の、小さな小さな山の、広いとは決して言えない火口の中、有り得ない程に広大な森の奥深く、恐らく其処は比喩では無く既に幽世と呼ばれる様な尋常成らざる世界の、ほぼほぼ中心部と思われる場所にソレは居た。
空すら見えぬ鬱蒼と生い茂る木々の合間、丸で一枚の鏡を置いたかの様に輝きを放つ池が有り、そこには注連縄が巻かれた一つの大岩が水に浸かっている。
その大岩の上、色褪せた……それでも元は闇より深い漆黒だったであろう事の解る、黒い羽織袴を身に纏った侍が、岩に突き立った一振りの大太刀にもたれ掛かる様にして座っていた。
「先触れの猫魔から話は聞いている。人の身で有りながら界渡りなんぞを企てて居る阿呆共……とな」
此方を一瞥する事も無く――向こうの世界で有れば兎も角、此方では有り得ない黒い毛皮に覆われた猫頭の獣人が――そんな言葉を口にした。
「界渡りを成す事が許されるのは猫か烏か、若しくは……神のみ。只人で有れば生きたままで世界を飛び出す事は出来ぬ」
丸で我儘を言い駄々をこねる子供に、世の理を言い含める大人の様な口振りで、既に解っている事を確かめるかの様に言い放つ。
俯向いたまま此方を伺う様な素振り見せては居ないが、微かに揺れ動く『髭』が此方に気を向けている事を如実に物語っていた。
「その程度の事ぁ解ってらぁな。だが俺達みたいなおっさんは兎も角、此奴はまだ当年取っても六歳だ、神の内って奴だろ?」
此方の世界の暦では無く向こうの世界準拠の年齢でカウントされる為、ポン吉の言葉は誤りなのだが、この場でソレを指摘する必要は無い。
手形の表示は相変わらず止まったままなので正確な残り時間は解らないが、少なければ少ない程に彼が此方の願いに頷く可能性は低く成るだろう。
嘘は後からバレれば不利に成る事は間違い無いが、意図的に嘘を吐いたのでは無くただ勘違いしただけだったり、事実の一部だけしか言わないのは、交渉の為の技術の内の筈だ。
「ほぅ? 何も知らぬ餓鬼共が戯言を抜かしているのかと思えば……尻の青さも抜けておらぬ様な童を連れて地獄を渡れ……と? ソレは遠回しに我に『死ね』と言って居るので御座ろうか?」
疑問の形を取っては居るが、それは遠回しに子供を連れての界渡りが自殺行為にも等しい所業なのだと、そう言っていた。
だがそれとて解って居た事、其処までの難所を超えねば成らないからこそ、小松等猫魔では無く、旅慣れた猫又の力を借りる必要が有るのだ。
「この子は……この世界の子では有りません。例えどんなに困難な道程でも本当の家族の所へ返してやりたいと言うのは、人情って奴じゃないでしょうか? 俺の様な何の力も無い只の人間が口を出すのは筋違いかも知れませんが……」
藁にもすがる思いとは言うが、相手は藁の様な頼りない存在では無い、何方かと言えば困った時の神頼みの方だろうか。
とは言え、目の前に居るソレは俺が向こうの世界で会った『神仙』の類が放つ『存在感』とでも言うべき物が欠如しており、飽く迄も妖怪の範疇に有る存在だと思える。
それでも向こうですら『大妖怪』に分類されるであろう強い妖力を秘めているのは先ず間違いないだろう。
恐らく俺が相対した中では『亀皇帝』烈覇より格上で、剣牙狼より多少劣る位の……少なくとも俺が太刀打ち出来そうな相手では無い。
「……又聞きの話で、全てを判断するのは阿呆の所業で御座るな。微に入り細に入り、全てを詳らかに話すで御座る。良い暇潰しになろうて……」
芝右衛門の言葉に何か思う所が有ったのか、一拍黙り込んだ後、俯向いたままだった顔を上げ、真っ直ぐに俺を見据え、そんな言葉を放ったのだった。
この世界で三十五年を生きそして死んだ事、偶然通常の手続きを外れ異世界へ転生する事に成った事、火元国の江戸と呼ばれる街に生まれその街を護る為再びこの世界へと飛ばされた事、あの世界へと戻りやるべき事が有る事。
彼の言葉通り順を追って丁寧に言葉を紡いで行く。
文章にすれば大凡百万文字程の小説に成りそうな長い話では有ったが、彼は時折相槌を打つ事は有ったが、俺の言葉を遮る事無くただ静かに、その尖った耳を此方に向けている。
此処が普通の場所では無いからか、永い長い話だったにも関わらず、喉が乾く様な事も無ければ、疲れたり眠く成ったりする事も無かった。
木々に遮られ空を見通す事は出来ないが、それでもその隙間から差し込む木漏れ日が大きく動く事も無く、丸で時間が止まっている彼の様に思える。
「……成る程、思った以上に数奇な運命を背負った童で御座るな……面白い。可能ならば我自身が送って行ってやりたいとは思える程度には心動かされたぞ」
先程までの寡黙な様子とは打って変わって、そんな言葉から饒舌に語りだした彼の言に拠れば、未だ『武士道』に親しい物が息づく大江戸に興味が有るらしい。
けれども俺が郷土資料館で読んだ説話集に有った話の通り、江戸時代初期、海の底から現れた炎の竜を力づくで押さえ込んだ結果、生まれた島なのだ。
そしてその竜は未だ死んでは居らず、彼の力の源で有る尾の内の一本が変じた大太刀を打込んだまま、封じ続けねば再び暴れだすのは間違い無く……いや、今でも時折思い出した様に彼の軛から逃れようと身を捩り暴れるのだそうだ。
故に彼はこの島から動く事が出来ないのだと言う。
もしも何らかの理由で長く此処を離れる様な事が有れば、先ず間違いなく此処は吹き飛び、火の手が上がり、その余波はこの島だけで無く日本列島全体にも大きな影響を及ぼす事に成るだろう。
「しかし残念ながら、今この島には旅慣れた所か並の猫又も居らん。我自身が真っ当な猫又では無く、魂喰らいの化け猫だ、正しく修行を積んだ猫又が守らねば成らぬ理に反する存在だからな」
正式な猫又達からすれば彼は討つべき相手に成るらしい、実際今まで戦った相手の中にはそう言う猫又も多々含まれていたそうだ。
未だこうして存在している以上、その全てを返り討ちにしてきたと言う事で、この島に根付いた頃には、一郎翁の様な『触っては行けない存在』扱いに成っていたと言う。
それ故この島には只猫や猫魔は居れども、猫又は一匹も住んで居ないとの事だった。
其処までの話を聞き此処まで来たのが無駄足だったと、そう思い俺達は顔を見合わせて溜息を付いた。
しかし、その反応は彼の思う壺だったようで、
「だがわざわざ出向いてきた……それも旧友の息子とその仲間を手ぶらで帰しては『三叉の大猫』の名が廃る。この島に住む者では無いが、界を渡る者には心当たりが有る。彼奴ならば我の紹介状でも話位は聞いてくれるだろうて……」
ニヤリと文字通り肉食獣の笑みを浮かべ、そんな言葉を口にした。
「この島から本土へと戻った港から六竜島行きの船に乗るのだ。其処に住む沙蘭と言う猫又に会うと良い。当代は何処を旅しているかも解らぬが、先代が其処で余生を送っている筈だ」
続けて口にしたそれは先程聞いた話と矛盾する内容で、
「一寸待って下さい。猫又とは敵対関係だと先程聞いた筈ですが……?」
俺は思わずそう問い返す。
「当代はどうか知らんが、先代は態々この島まで俺を訪ねて来た様な変わり者で御座ったからの。曰くこの国で後行ってない場所はこの島だけ、だったらしくてな」
と、心底愉快だと言う様な口振りで、そんな言葉が返って来たのだった。




