三百十六 志七郎、妖気撒き散らし刻限を明確に知る事
「坊っちゃん方……頼んますから、早うコレ持って帰ってくれやしませんかね? いや、あっしはまだ良いんですが、ウチの若い衆がびびっちまいやして……」
術の過負荷に絶えきれず、オーバーヒートしぶっ倒れた小松の事は、自分達が見ているから心配無用と猫魔達に送り出され『蔵』へと来た俺達を、裸電球の薄暗い明かりの中、そんな言葉で出迎えたのは、此処に仕舞われた付喪神達の中で最も古い『琵琶』だった。
琵琶牧々と呼ばれるこの付喪神、歳を経た楽器だけあって音を介する様々な妖術を扱う事が出来る相当に強い妖怪なのだが、人間に対してはただ弾き語りを聴かせるだけの極めて無害な存在なのだそうだ。
ただ此処数十年程は、歳のせいか弦の張りが今ひとつで満足行く演奏が出来そうに無い、と引き篭もって寝てばかり居るらしい。
そんな彼が指し示したのは、鎧立てすら無く脱いだまま無造作に置かれていた筈の俺の鎧では無く、何処から持ってきたのか比較的新しい『御札』が何枚も貼り付けられた鎧櫃だった。
彼に手形の事を聞けば俺の持ち物は纏めてこの中に仕舞われているとの事で、早速それを開けようと手をのばすと、
「一寸と待っておくんなせぇ。箱に突っ込んで厳重に封印してても、こんな殺人的な妖気がプンプンしてる物、せめて開ける前に木っ端連中は避難させてくんなまし……」
慌てて琵琶牧々はソレを止め、それを静かに見ていた他の蔵の住人達は、丸で沈没を前にした船から逃げるネズミの如く、大慌ての大騒ぎで戸口へと殺到する。
後に残ったのはガランと広がった蔵の床と、自力で動けぬ幾つかの付喪神未満達……それらの物はこの箱が開けられる事で溢れ出るらしい妖力を直接浴びれば、只では済まないだろうと、その身を震わせて居た。
「いや……、そんなに慌てなくてもちゃんと待ちますから、避難が必要な者は運び出して上げなさいな……」
自分の持ち物を丸で放射性廃棄物か何かの様に恐れる彼等の姿にドン引きしながら、何とかそう声を掛ける。
「いや……あんな濃密な妖気の塊、此方の世界じゃぁ先ずあり得ねぇからな? ほれ例えばこの『河童の腕』、微香山の奥に封印された大河童の腕だけどよ……。地元史に残る化物の一部ですら比べちまうと貧相に見えちまう……」
そんな俺の反応にポン吉は苦笑いを浮かべ、残った物の中から厳重に封印された小箱を取り出し、それを手渡しながらそう言った。
この近くに流れる禿川と言う川が有るのだが、その川は大雨が降る度に氾濫し、川辺りには草一本生えていない……と言うのがその名の由来で有る。
だが地元の御伽話何かを扱った本には、その川の氾濫の理由として、微香山の大河童の存在が明示されていると言う。
しかしその大河童も通りすがりの侍に喧嘩を売り、結果返り討ちに会ってその腕を見事に切り飛ばされ、弱った所をポン吉の先祖の手で川の源泉、その一つに封じられたのだそうだ。
普段ならばその箱から妖気が漏れ出ている事は、只人の目にも明らかな程らしいが、俺の鎧を収めた櫃から漏れ出た妖気が充満した今の蔵では、掃除の行き届いて居ない畜舎でかました透かしっ屁程度にしか感じられない。
「っと、いけねぇ。剣の字、その櫃あけるなぁもうちっと待ってくれ! 多少は修行を積んだ俺でもキツイんだからな。幾ら猫魔と暮らしてるったって芝は只人だ、んなエゲツない妖気に中ったら命もアブねぇやな」
そう言われ、此処に来てから一言も発して居ない芝右衛門を振り返れば、真っ青な顔でへたり込む彼の姿が有った。
俺との友情と少々の好奇心に突き動かされ、此処へとやって来た芝右衛門だったが、既にこの間の夜見た付喪神達に驚く事は無かったが、彼等でさえも怯え顔色を変える様な妖気は耐えられ無かったらしい。
「ツー訳で、悪いが俺達も避難させて貰うぜ。必要な物だけ出したらさっさと閉め直して扉を叩いてくれや」
自力では立ち上がれないらしい芝右衛門を抱え、ポン吉はすたこらさっさと言わんばかりの勢いで扉の向こうへと消え、それから然程待つ事無く伽藍堂と化した蔵の中に錠の落ちる音が響き渡るのだった。
全ての者も物も姿を消し、たった一人裸電球の明かりに照らされる中、俺は鎧櫃の蓋と櫃の狭間を渡る様に貼られた御札を破らぬ様丁寧に剥がして行き、それから留め具を外してそっと蓋を持ち開ける。
と、途端に溢れ出す不可視の煙。
それはあの世界では当たり前に満ちあふれている物に過ぎず、今の今まで俺はポン吉達の言葉を実感する事が出来ず、彼等に担がれた様な気分だった。
が、しかしこうしてソレが殆ど無い外とを経験し、それから蔵の中へと入り、更に蓋を開けた事で溢れ出した濃密な妖気と直接触れ合った事で、その濃さをやっと理解する事が出来た。
コレは確かに素人さんが浴びたら危険だろう。
例えるならば先程まで漂っていた妖気が夏場の男子体育会系部室の臭いだとすれば、櫃の中から溢れ出したソレは連日の稽古の後洗っていない剣道の防具――それも小手の臭いと言う所だろうか?
稽古の後、石鹸を使っても中々落ちない小手のあの臭い……ソレを嗅いだ所で命を落とす様な事は無いが……。
兎角、お目当ての物をさっさと探そう。
蓋の中一番上に入っていた御札を退けると、蓋を開けた時以上の妖気が更に溢れ出すが、それに構わず全てを包んでいるのであろう唐草の風呂敷をめくり上げる。
その下に折りたたまれた草摺(胴鎧の腰下の部分)を開くと、中には兜が逆さまに入って居り、更にその中に印籠、手形に巾着、数文の銭を通した紐……と普段腰帯に下げている物が纏めて入っていた。
今必要なのは鬼切り手形だけだが、下手に何度もこの櫃は開けない方が良さそうだし、此方でも使い道が有りそうな印籠や巾着も持って行くとしよう。
とは言え今の俺は比較的ピッチリとしたジーパンに、当たり障りの無い柄のTシャツ、夜に成って多少肌寒さを感じる様に成ったので、ジーンズのジャンパーを羽織っていると言う姿で有る。
印籠は上着のポケットに収まらなくもないが、巾着と手形は一寸大きすぎた。
邪魔に成らない様に持ち歩くなら、やはり普段通り腰帯に紐を挟んでぶら下げるのが、妥当な所だろう。
そうする過程で俺はやっと此処に来た本来の目的、手形に映し出されると言うタイムリミットに目を向けた。
『九二日一二時間四八分……秒』
秒単位まで表示されているのに、その部分はやたら早く数字が回っており、此方の一秒が過ぎる間に五~二十程度は数字が減っている。
しかもそれは一定では無く、不規則に早くなったり遅くなったり……と、丸でパソコンにソフトをインストールする時、表示される残り時間の様な不確かさを感じさせた。
うん……コレは目安にしか成らないな。
と、そう見ている内にも既に二二分まで数字が減っている。
間違いないのは向こうの方が此方よりも随分と時間の流れが速いと言う事だ。
九二日、約三ヶ月と言うのも飽く迄向こうでの話、此方では一月どころか十日も保たないかも知れない。
先ずはおミヤに指定された長靴の国とやらに行く為にも、猫神社の化け猫侍とやらに早急に会うべきだろう。
いっそ徹島に向かう際には、この櫃ごと持っていっても良いかもしれない。
まぁその辺はポン吉と和尚に相談してからの事だろうが。
その為にも、先ずは……鎧櫃を戻しておこう、そう考え改めて手を動かすのだった。




