三百十四『無題』
普段通りの稽古を終えると、着物を脱ぎ井戸から組み上げた水を頭からぶっ掛け汗を流す。
流石に葉月も近くなるとこの時間でも暑く、滴り落ちる冷や水が心地良い。
「ふぅ……お、すまんの」
差し出された乾いた手ぬぐいを受け取ると、水気と残る汗を拭き、新しい襦袢に袖を通す。
襦袢を仕立てる生地も決して安い物では無い……が、小なりとは言え大名と言う立場で有る以上、この江戸に居る間は褌と襦袢をどうしてもこまめに新しく仕立てる必要が有る。
家族を国元に残し江戸へと連れてきた家臣達、それも特に若手の中には未だ家督を譲られて居らぬ者も居り、そういう者に自前で用意させると言うのは中々酷な話なのだ。
とは言え皆、俸禄は定められた通りに出している以上、彼奴の物は用意し此奴の分は用意しない、では依怙贔屓と言われる事も有るだろう。
だからと言って、見窄らしい下着を纏う事を許せば、万が一その者が命を落とした時、我が藩は家臣に満足な褌を締めさせる事も出来ぬ、と嘲笑される事にも成り兼ねない。
故に何着分かずつは支給したい所なのだが、母も女房も国元に居る以上生地が有っても仕立てが出来ぬ……いや、最低限の針仕事程度は嗜みの内だが、針仕事で時間を使わせる訳にも行かないのだ。
その権威と財力を見せつける必要が有る大大名ならば兎も角、我が藩の様な零細は若手には兎に角仕事を割り振って育てて行かなければ、次代に引き継いだ時には何ともならぬと言う事体にも成り兼ない。
唯でさえ武に拠って立つ武士と言う者は、放っておけば書や算を軽んじ武辺に偏るのだ、その中でも鬼や妖かしの血を多く入れ『武勇に優れし猪山の』と謳われるに至った我が藩は特にその傾向が顕著で無理にでも学ばせねば武勇だけの脳足りん集団の出来上がりだ。
武知双方で使える人材といえる伏虎が稀有なだけで、大羅、今、名村、矢田の四人が若手の中では比較的マシな方と言うのだから正直笑えない。
だからと言って、やたら滅多ら押し付けても真っ当に育つ筈も無い、『黒い労働ダメ絶対』っと太祖家安公も晩年に申して残しておるしの。
そんな訳で若手連中の下着は此方で用意してやる必要が有るのだが、人手を雇って作らせるとなればまた銭が掛かり、かと言って女房や娘に繕わせればそれはそれで無駄に価値が付く。
お清が縫った物を喜ぶ若いのは居らんだろうが、娘が繕った褌ならばソレだけで十分御褒美の類に成ってしまうのだ。
故に折衷案と言う訳では無いが、一度ワシが身に着けた物を確りと洗い、お下がりとして与えると言う方法を取る事に成る。
まぁ中には幾ら主君と言えども『人の着けた褌なぞ御免被る』と言う潔癖症を患う者が居ない訳でも無いが、そう言う輩は自弁してもらうだけだ。
とは言え、町人達は必要とあらば誰が身に付けたかも解らぬ褌を損料屋から借りて身に着けるのだし、それに比べれば病気持ちで無い事が確定して居るワシのお下がり程度は寛容して貰いたい物だがな。
「さて、さっぱりした事だしさっさと朝飯を食いに行くか」
そんな益体もない事を考えつつも着物を纏い終えた所で腹の虫が騒ぎ出すのを感じ、未だ身支度整わぬ家臣達を見回して、聞こえる様にそう言い放つ。
飯は可能な限り皆揃ってから食べ始めるのが猪河家の家訓だからだ……が、こう腹が減っている時にはソレを定めた御先祖様を恨めしく思う時も偶には有るのだった。
鯵の干物、ひじきの五目煮、梅漬けと山葵漬、納豆汁と、今日の朝飯も決して豪華な物でも無ければ、酷く手が込んでいると言う訳でも無いが、此処最近腕を上げている睦が仕込んだ物だ、そこらの四文屋で買える様な味では無かろう。
「お……?! この干物美味いの。何処の品じゃ?」
出入りの商人とて、日々の食事の一々全てを任せている訳では無い。
偶々近所を通り掛かった棒手振りから買い付ける事も有れば、家族や家臣が釣ったり狩ったりした物が膳に乗る事も多い、野菜類の大半は下屋敷で収穫された物だ。
だが美味い干物と成れば話は変わってくる。
どれ程、元となる魚の品質が良くても、その加工を手掛ける者達がそれなりの知識と経験を持たず適当に干した物で有れば、そこらで売っている物と然程変わらぬ物にしか成らぬだろう。
幾ら食神の加護を受けているとは言え料理を含めた家事ばかりで無く、手習い事――特に読み書き算盤に関してはお清から確りと仕込まれている筈の睦で有る、銭を積み上げて特上品を買い付ける……何て事はしていない筈だ。
と成れば考えられるのは、今はまだ知られておらぬ――だがこれから確実に名が売れていくだろう干物名人か、それを抱えた魚屋と渡りを着けたか……
「コレは猪山藩の下屋敷で中間さん達が作った品だニャ。元は信兄がごっそり釣ってきた鯵を加工した物だから、お値段据え置きニャ!」
そんなワシの考えを裏切る……と言うか斜め上を行く回答に、思わず味噌汁を吹き掛けるが何とか噛み殺す。
聞けば昨年ワシが居らぬ内にお清が拾った元富田藩の中元達が作った品で、特筆する様な出来の物が無かっただけで、今までも何度か出されては居るらしい。
一応報告事体は上がっていたが、此処までの物が作れるとは思ってい無かった。
「この位の物が恒常的に出来るのであれば、再来年ワシが戻って来る時の献上品に混ぜても良いかも知れぬな」
参勤の際に上様へと差し出す献上品は、国元の品を送るのが通例では有るが、地元に特産品の無い小藩では道中で名品を買い付けたり、もっと直接的に銭を献上する所も少なくは無いのだ。
猪山藩も国元に名産特産と言う程の物は無いが、珍しい鬼や妖怪の話を聞けば依頼が無くとも押しかけていく者が代々居るので献上品に困った事と言う記録は無い。
とは言え当代の供給源を他所へと婿に出した以上、他の手立てを考えて置く必要は有るだろう。
一人納得しながら、飯を食い次は梅干しへと箸を伸ばす。
「はぁ……」
すると丁度同じく梅干しを摘み上げたお清が、それを見つめ憂いを帯びた表情で溜息を洩らした。
「ニャ? 母様、何か不味い物でも有ったかニャ?」
それを自分の料理に失敗が有ったのかと、顔色を変える睦。
「え……!? ち、違うわ、そうじゃないのよ。今朝も美味しいわ。ただ、私達がこうして美味しい御飯を食べてる時にも義ちゃんと志ちゃんは、ちゃんとした物を食べれているのかと……思って、ね」
そう思ったのは義二郎が旅立つ時、睦が梅干しを持たせた事を思い出したからだそうだ。
「まぁ、そう心配する事も有るまいて。おミヤの話では志七郎は縁有る者と合流出来たらしいし、義二郎の奴は……何処へ行っても餓える事は無かろうよ」
アレは本気で腹が減ったなら海に飛び込んで鮫でも鯱で仕留めて食うだろう、志七郎を心配するとすれば前世の家族と会って里心が付かぬか……と言う位だろう。
「無沙汰は無事の便り成りと言うし、そう気を揉むな」
母親で有る以上、心配するなと言うのが土台無理な話では有るが、ソレが理由で藩主の妻としての務めを果たせぬと言うのでは、流石に問題が有る。
それに今此処に残っている子供達に心配掛ける様では本末転倒も良い所だろう。
「ええ……そうですわね。私は猪山藩主の妻、この程度で務めを疎かにする様では子供達にも家臣にも、示しが付かないわね」
ワシの思いが伝わったのか、思いを振り払う様に一度瞑目し、普段の気丈な表情を取り戻したのだった。
……
…………
………………
「おー!! 今日も大漁でござるな。鮪など犬も食わぬ下魚と侮っておったが、適切な処理をすればあれ程美味いとは! 獲物としては鮪は手頃でござるな。この間仕留めた勇魚も美味かったが、ありゃ大きすぎてこの船だけでは食い切れなんだからのぅ」
次に仕留めるならば、湊に入る直前にするべきだ、と腕を組んで一人納得の顔を見せる我が旦那。
勇魚を見かけた時に喜び勇んで銛を手に海に飛び込み『獲ったどー!』と吠えたこの男を、伴侶として頼もしいと思うべきか、それとも家長としての頭を心配をするべきか真剣に悩むのだった。




