三百十三 志七郎、不明を知り老兵涙する事
止めどなく振り続ける雨、その向こうから微かに聞こえる読経の声。
途切れる事無く長く長く続く弔問客の列。
故人を偲ぶ声は聞こえるが、それを嘆く様な声を上げる者は居らず、むしろ哀しみよりも安堵の声が……とは言え彼の死を喜んでいると言う訳では無い。
急死だったにも関わらず、苦しむ事無く安らかに……大往生を遂げたと聞き、誰もが胸を撫で下ろしていたのだ。
訃報が届いたのは昨日早朝の事、普段ならば日が登るよりも速く庭へと出て素振りをしているのが、同じく日が登るよりも速く畑へと出てくる園芸を趣味とする他の住人に見られているのだが、その日は姿を現さなかったのだと言う。
それを聞き付けた職員が様子を見に彼の部屋へと行くと、普段通り稽古着を身に纏い、愛用の木刀を脇に置き、正座したままで、満足そうな笑みを浮かべて目を閉じた彼が居たのだそうだ。
綺麗に背筋が伸びたまま座るその姿を目にした職員は、その時既に命の灯火は消え失せていた事に直ぐ気が付く事が出来ない程、綺麗で満足そうな笑みを浮かべ事切れて居たらしい。
常駐医の診断に拠れば死因は急性心筋梗塞で、発症してから殆ど時間を置く事無く即死に近い形で逝けた、理想的とも言える『ポックリ死』だったそうだ。
家族も弔問客等も彼の年齢が年齢で有る事を鑑み、その死が老人ホームの過失に起因する物とは考えず、寿命だったのだと比較的容易に受け入れる事が出来ていた。
縁側に座り、通夜がしめやかに進行する本堂を遠目に見やりながら、俺はその本当の死因に思いを馳せる。
彼――曾祖父さんの寿命は俺が命を落としたのと然程変わらぬ時期にとうに尽きており、何度と無くお迎えが――それもただの死者では無くあの世の職員への勧誘だったらしい――来ていたのだと言っていた。
対して曾祖父さんは、最終的には受け入れるつもりは有るが、曾孫の汚名を雪ぐまでは死ぬに死にきれぬ、とそれを拒否したのだと言う。
そして条件交渉の結果、死神と勝負し負けたならば大人しく命の灯を消す事を受け入れ死後その死神の部下と成り、勝った成らばその死神の格に合わせて寿命を付け足すと言う契約を結び命を永らえたのだそうだ。
俺が彼の夢へと姿を現した当初は、その魂を刈り取りに来た死神と誤認したが、剣を交えればソレが俺と気付かぬ程に呆けてはいなかった。
だが剣を交えた結果、ただ黙って帰す訳にも行かぬ、とそう思ってしまったのだそうだ。
「新たな生を受け、それも剣を振るう事が必然な世界に生まれたと言うのに、基礎修練を疎かにしては折角の恵まれた身体能力と新たな能力が無駄遣いと言う物だ。奥義は基本の中に有りそれを忘れるな」
様々な鬼や妖怪の血を受け継いだこの猪河志七郎の肉体は、幼いながらも既に優れた才能の片鱗を見せて居る。
それに加えて氣と言う超常の能力で下駄を履かせた事で、基礎が疎かに成りつつ有る事を感じ取り、戒めとして彼の人生の集大成とも言える一太刀を浴びせたのだ。
とは言え、一部の政治家やマスコミから外交問題を生み出した国賊と扱われ、酷い汚名を被された曾孫が哀れだ、と無理矢理生き恥晒していたと言うのに、その曾孫を斬っては本末転倒で有る。
見る事も能わぬ超高速の一太刀を受ける事が出来たのは、鬼気迫る猿叫に怯んだ俺が思わず刀を立て防御の姿勢を取った瞬間に打ち込んでくれたからだ。
それでも気が付いた瞬間には防御諸共に弾き飛ばされ、身体が宙を舞っていたが……。
何をされたかも解らず、ただ尻餅を付いて追撃に身を竦ませた俺に、曾祖父さんは自分が何をしたのか、どうすればその境地へと辿り着けるのか、わざわざ解説してくれた――前世で至る事の出来なかった其処へ今生では辿り着ける様に……。
曰く、人間は複数の能動的な動きを並列して処理する事は出来ず、意識的に動くのであればどうしても順序立てて動かざるを得ない。
正しい形で動こうとするならば、指先、爪先にまで気を配らねば成らず、素人が無意識に任せて動けば当然無駄な癖が出る。
稽古とは、その癖を少しでも消しつつ、正しい動作が無意識に出来る様にする為の物なのだと言う。
そして長い長い修練の果て、完璧な形で意識せずとも動く……そんな境地へ至り、更に全てを無意識に委ねる事が出来た時、初めて『雲耀』と例えられる一太刀へと至るのだそうだ。
「他流の技を学んで居る様子も無し、成れば後は只管に基礎を突き詰める事こそが雲耀に至る道筋よ。無駄を省き一拍の内に全てを終わらせる、ただソレだけだ」
俺の横には腕を組み満足そうな笑みを浮かべ、そう口にする亡霊が佇んでいたのだった。
「俺が言うのも何だけどさ……自分の通夜なのに、此方に居て良いのかよ、知り合いが来てるんじゃないの?」
既に肉体と言う枷から離れた曾祖父さんは、只人には見えぬ状態では有るが、氣の力で強化された俺の目にはその後ろが透けては居るが間違い無く見えている。
いくら世間一般からすれば十分過ぎる程に長生きしたと言える年齢で、尚且つ苦しまずに逝けた、大往生と言うには十分な状況だったにせよ、俺の汚名と言う『悔い』が有る状態での死だ。
それを知る者成らばその悔いを思い、悲哀の涙を流す者も居よう。
俺の事を知らず、ただ曾祖父さんの訃報を突然知らされた兄貴夫婦は、その典型だ。
にも関わらず、他の家族は大往生だった……と、悼む気持ちが無い訳では無いが、安心したかの様な表情で送っているのを見れば、混乱するのも仕様が無いだろう。
「別に儂が居た所で、見える訳でも無し。寧ろ本仁の奴を驚かせて読経をとちらせても可哀想だしな」
俺の言葉に何の事も無い、と顎を撫でながらそう答えを返す。
本仁和尚が――そしておそらくはポン吉の事も――超常の世界と直ぐ隣に生きる『見える人』で有る事知っているのだと、言外にそう言っていた。
「それに……だ。儂にゃぁまだお前に説教しないと逝けない事が有るからな」
と、笑みを消し表情を引き締め改て俺を見下ろし口を開く。
「如何に勝てぬ相手と判断したとは言え、捨て身の仕掛けとは……この大馬鹿者め。儂等家族に逆縁の不孝をした事を忘れたか……。生きていれば命を賭さねば成らぬ時も有ろうが、引くべき時に引くのもまた勇気であろうよ」
どうやら立会の中で仕掛けた相打ち覚悟で放った捨て身の一撃が、怒りの導火線に火を点けたらしい。
「無辜の民を護る為の、牙無き者の牙と成るべき者が、背に護る者も無くその身を投げ出すなど言語道断! お前は一度痛い目を見ているのに何の反省もしておらんのか!」
肉体を持たず、物理的に吐息を吐く事すら敵わぬ身で有りながら、いや……だからこそ魂の底から溢れる怒りが篭められた怒声に、思わず歳相応の子供の様に身が竦む。
だが激したのは怒りだけの事では無かった、きっと本人も自覚していないのだろうが、憤怒の表情はそのままに、目尻に溢れ出した輝きが零れ落ち、地に落ちる事無く雨に紛れて消えていく。
それは間違い無く、俺の身を案じているが故の……生前には一度たりとも見た事の無い、儼乎たる古兵が流す涙で有り、俺が犯した過ちの結果と言える物だ。
「お前は独りで生きているのでは無い。お前が傷付く事で傷付く者が居る。お前が倒れては護れぬ者が居る。他者を護るには先ず己を護らねば成らん。そんな事は基礎の基礎だろう、もう二度と……同じ轍を踏むなよ……この馬鹿者が……」
消え入りそうな声で絞り出す様にそう言いながら、透き通る手でそっと俺の頭に触れた曾祖父さんは、雨が降り止んだのを合図にしたかの様に、その姿を薄れさせ消えていく。
そして完全にその姿も声も消えていった後、彼が空へと昇る途中で蹴散らしたかの様に雲が吹き散らされ、姿を現した真円を描く月とそれに掛かる月虹の輝きは、彼の死を悼む物では無く、俺の行末を案じている物の様に思えたのだった。




