三百十二 剣十郎、理不尽に襲われ命を賭す事
瞳を閉じたまま今から決闘へと赴く様な、極まった武闘家が纏う張り詰めた気を纏うその姿は百をとうに過ぎた老いぼれのソレでは無く、寄らば切ると言わんばかりの餓えた狼も斯くやとする物だった。
「此処暫くは音沙汰も無く、我が命数も今暫くは安堵された物と思っていたが……余程あの世とやらは人手が足りぬと見える」
俺の姿を見る事も無く、その身に孕んだ殺気を小揺るぎもさせる事無く曾祖父さんがそう言い放つ。
「……随分と可愛らしいお迎えだが、それに絆される様な儂では無いぞ。儂にはまだ今生に未練が有るでな……。我が魂を刈り取りたければ、実力で奪うが良い。相手が誰で有ろうともこの隠神剣五郎……手加減はせぬぞ」
薄っすらと片目を開き此方の姿を確認すると、驚きの色が表情に浮かぶが、それもほんの一瞬の事で、即座に気を取り直し、再び静かに……だが凶悪で濃密な殺気を叩き付けて来る。
並の……それこそ氣を纏わぬ鬼斬者で有れば、その場で失禁し腰を抜かしても可怪しくは無い程の剣気は、剣牙狼の咆哮にも匹敵する程の物に思えた。
生前の俺ならば、その敵意剥き出しの殺意に、即座に反撃の手を打っていただろう、そうしなければ己の生命が危うい、とそう思えるからだ。
だが鬼斬と言う生命の奪い合いを日常とし、此方とは比べ物に成らない様な、文字通りの超人達と稽古を共にした事で、ソレが問答無用で俺を仕留めると言う意思が篭められていない事を理解出来る程度には成長していた。
取るに足らぬ雑魚ならば気を中てるだけで睨み倒し、それに耐え反応を返す程度の者ならば……カウンターを取り一刀の元に仕留める、そう言う意図の元で仕掛けられた物だろう。
「ほう……今までの木っ端死神とは一味違うようだの。さて……お前を伸せば、次はどれ程寿命が伸びるやら……」
それを見抜き殺気を受け流した俺に、曾祖父さんは餓えた肉食獣の様な獰猛な笑みを浮かべ、腰に佩いた刀へと手を伸ばしゆっくりと立ち上がる。
抜く手も見えぬ居合の一撃、氣を纏う事を知らず、殺気を読む事を知らぬ頃の俺ならば、間違い無くその一太刀で首と胴が泣き別れと成っていただろう。
けれども今の俺成らば、幾ら達人の技量を持ってしても氣を纏うことも出来ぬ只人のソレをむざむざと喰らう様な事は無い。
数ミリの余裕を持ってソレを躱し、柄頭目掛けて拳を跳ね上げる……が、刀を弾き飛ばす事は敵わず、寧ろその衝撃に逆らう事無く利用する事で蜻蛉を切る。
「かっかっか! 今のを躱すか、しかも即座に反撃とは……この間の威勢だけの小娘とは物が違うのぅ……」
余裕を持って着地した彼は嬉しそうに笑い声を上げるが、俺にはその笑みが酷く醜い物と映り、そしてこれ以上無いほどに腹立たしく見えた。
俺が曾祖父さんに学んだがのは、牙無き者を……戦う力の無い無辜の者達を護る為の……平和の守護者としての『無私』の剣だ。
幾ら中身はその見た目通りでは無いとは言え子供相手に、何の躊躇いも無く首を……命を奪う為に振るわれた、ソレは俺が学んだ曾祖父さんの剣では無い。
老いて耄碌したのか、それともその言葉通り『死を恐れ、何時迄も生きてたい』と言う原初の欲とでも言うべき物に取り憑かれたのか、兎角『我欲』に拠って振るわれたのだ。
奥歯が擦れる嫌な音がハッキリと響き渡る、きっと今の俺は夜叉の如き形相を晒しているだろう、それはきっと曾祖父さんの『誇り』を……前世の……そして今生の『俺』双方を形作る物をも汚す物だった筈だから。
いつの間にやら腰には一振りの太刀が有り、その身は子供のソレでは無くしかし前世の俺でも無い……きっと今生の俺が成長すればそうなるであろう姿……へと変じていた。
「それが主の誠の姿か……子供を装い油断を引き出そうとするとはの……だが、如何なる術を持ってしてでも相手を倒す事こそが兵法よ。卑怯など屍人が呟く寝言よな」
言い終わるよりも速く、八相から繰り出される袈裟斬り、続け様に逆袈裟。
それらを後方へと下がって躱せば、振り上げる途中で止め腹への突き、と見せかけ喉へと跳ね上がる。
無論俺とて何もせずに殺される訳にもいかない、此処での死で実際に命を落とすかどうかは解らないが、少なくとも欲望に塗れた彼を認める訳には行かない、故に俺は抜きざまに太刀を横薙ぎに振り抜いた。
生きる為、命を永らえる為に俺へと刃を向けた曾祖父さん、対して俺は最悪相打ちでも構わないと繰り出した一撃だ。
当然……と言い切るのは少々気が引けるが、捨て身の一太刀が保身の一太刀よりも遅い筈もなく、かと言ってその一撃をあっさりと食らってくれる程相手も甘く無く、即座に突きを止めると、大きく後方へと飛び退る。
「おっかねぇおっかねぇ……儂の命にどれ程の価値が有るかは知らんが、捨て身とはな……こりゃぁ本気で今までの温い三下連中とは格が違うやな……そんだけの覚悟が有るなら最初から小細工なんぞしなけりゃ良かったじゃねぇか……」
興が乗ってきたと言う事だろうか、徐々に彼の言葉は俺の知る落ち着いた老人のソレから、血気盛んな者のソレへと変じていく。
しかしそれと反比例するかの様に、燃え盛る殺気は静かに研ぎ澄まされ、その瞳は欲に濁った物から純粋な闘志に満ちた物へと変わっていった。
二合撃、三合撃と刃を交える事に成るかと思えば、今度は一転、隙を窺う事に終始しお互いに手を出す事の出来ぬ静かな闘いへと相成った。
曾祖父さんが、あからさまな格下相手と勝負を急ぐのを止めたからだ。
互いに二手、三手と先を読み、自分に有利な形を模索し、全身を細かく動かし牽制を繰り返す。
そうして思い知らされる曾祖父さんの化け物じみた技量。
此方が詰んで居ないのは、一重に氣と言う超常の能力を纏う事で、身体能力的な優位を得ているからであり、ソレが無ければとっくの昔に素っ首叩き落されているであろう。
純粋な剣腕だけならば義二郎兄上以上……いや、一朗翁を相手にしても遅れを取る事は無いかも知れない。
強い事は知っていたが、真逆此処までとは思っていなかった。
俺が知っている曾祖父さんは既に米寿を回った頃の、目の前に居るのはそこから更に白寿を回り茶寿を目前とした老人だ……その間に大きく技量を伸ばしたとは考え辛い。
前世の俺が、その技量を推し量り理解する事が出来ていなかっただけだ。
今生の俺が、付いて来れるのは、濃密な修練と幾つもの実戦経験が有ればこそで有る。
しかしそれももう長くは続かないだろう、お互い大きく身体を動かしては居ないと言うのに、全身から汗が止めどなく流れ、目は窪み、頬はこけ、あからさまに疲労の色が見えている、恐らくその変化は俺自身にも当て嵌まるだろう。
プロの棋士――囲碁も将棋も何方共――は大勝負とも成れば、一局で2~3kg体重が落ちる事も有ると言う、頭脳戦というのはそれほどにエネルギーを消費するのだ。
ましてや互いに真剣を手にし命を賭しているのだ、その重圧は計り知れ無い。
肉体と言う枷が無いこの状況でも……いや肉体が無いからこそ直接『魂』が摩耗し疲労する。
「このままでは……埒が明かん……な。見せてやろう、雲耀に至る一太刀を……」
限界が近い、と感じたのは相手も同じだった。
故に読み合いを捨て、解っていても防げぬ一撃を繰り出すそう口にしたのだ。
そして……きっと氣を纏わぬ前世の俺では、聞こえぬ程の小さな、小さな声で……
「死ぬなよ」
と、そう呟いたのを、俺の耳は……魂は確かに捉えて居たのだった。




