三百十一 剣十郎、愛に感謝し哀を詫びる事
親父を含め家族の皆に隔意を持ったまま死んだ事に後悔している事、未練が無い訳では無いが恨みを呑んだまま成仏出来ず彷徨っている訳では無い事、別の世界で新たな生を受け結構楽しく暮らしている事……。
厳しくするのは他者に丸投げし際限なく甘やかしてしまい失敗した事、甘すぎる相方に任せては置けないと務めて厳しく接した事、どうせ馬鹿息子の事だから隠れて甘やかしているのだろうとそれ以上に厳しくしてしまった事……。
お互いに話したい事、話すべき事は幾らでも有った。
俺が知らなかった事、後から知った事、思い至った事……。
俺に対する親父の、お袋の、祖父さんの思い……。
本来ならば長い時間と、無数の言葉を重ねて行く事で少しずつ、少しずつ撚り合わせていくべき『家族』という絆。
終わりが見えているからこそ……否、既に終わったソレだからこそ……改めて固く、硬く、堅く結びつく必要は無い。
ただ無駄に複雑に捻れてしまったソレを、解いていくだけで良いのだ。
俺がまだ生きていたならばお互いこんなにも素直な気持ちで、解り合う事を前提に言葉を交わす事など出来なかっただろう。
きっと理性で理解は出来ても、感情で納得は出来なかったと思う。
だが志七郎として家族から解り易い愛情を向けられ、剣十郎が気づかなかったソレを超常の者に教えられ、そしてこうして剥き身の魂で触れ合っているのだ、余程頑なな気持ちでもソレが解けていくのは当然の事……だと思える。
「そうか……新しい家族か……」
「……迷わず綺麗な所へ行けたのね」
悲哀に囚われず新たな生活を営んでいるのを理解してくれた事は、それが何よりの朗報だと止めどなく流れる涙を拭う事すらせず、その表情に笑みを浮かべる事で示していた。
「コレは儂が見ている都合の良い夢かも知れぬ。現実って奴は何時でも面倒で、そして救いが無い。だが……お前の言葉が本当なら、ちっとは救われる気がするの」
口では疑る様な事を言っている祖父さんも、無表情を貫いては居るがその目尻には薄っすらと涙が浮かんでいる。
「……出来れば、親父の所にも顔を見せてやって呉れ、冥土の土産にゃぁ丁度良いだろう。きっとお前がこうしてこの時期に顔を見せたのも、そう言う事なのだろうからな」
それを誤魔化すつもり……と、言う訳では無いだろうが、少し照れくさそうに頬を掻きながら、聞き捨て成らない言葉を口にした。
俺がこの世界に戻ってから、未だ顔を見ていない家族の内の兄貴夫婦と、曾祖父さん。
その内、御義姉さんは剣太郎同様、殆ど会った事すら無く深い交流は無かった事から、この場に居ない事も然程疑問には思わない。
兄貴は政治の道へと進路転換し、同じ県の……剣道場出身の国会議員の所で勉強させて貰っているらしく、この時間帯に成っても眠る事無く勉強をしているのだろう事は想像が付く。
だが家族の中でお袋以上に長い時間を一緒に過ごし、良くも悪くも俺を形造った張本人とも言うべき、最も縁深い人物で有る曾祖父さんは、その老齢も有って早寝早起きの見本の様な生活リズムだったはずで、此処に姿を現さない方が不思議と言える。
「流石に何時逝っても奇怪しく無い歳だからな。まだ頭ははっきりしてるが、呆けて風呂や便所にも一人で入れなく成った時に、孫や曾孫の嫁に世話は成りたくない……と自分から老人ホームに入ったんだ」
涙を拭いながらため息混じりにそう言う親父の言に拠れば、御年百五歳に成って尚、足腰も未だ確りとした物で、朝夕の素振りを日課として欠かして居らず、認知症の兆候すらないのだと言う。
それでも友人知人が一人また一人と、認知症を患ったり、寝たきりに成り家族の重荷と成る姿を見聞きする度、その姿が明日の我が身と感じて居たらしく、まだ自分の意思で判断出来る内に……と、ホーム入りを決めたのだそうだ。
とは言え、其処は敷地内に温泉も有れば畑やゴルフ場などの趣味の施設も完備し、医者や介護士が常駐する『最高の終の棲家を提供する』を謳い文句とした高級ホームだそうで、
「まぁ、近いうちに儂も同じ所へ入るつもりだがな。親父の話を聞く限り、気持ちの良い場所らしいしな」
そんな言葉の通り、祖父さんも空き部屋が出来次第入れる様に予約をしている状態なのだと言う話だった。
どれ位の時間そうして話していたのか、体感としては然程時間が経っている様には感じないが、実際にはかなりの時間が過ぎていたのかもしれない。
そう感じ始めた頃、不意に髪の毛を強く引っ張られる様な痛みが走った。
丸で後が支えているのだから、と苛立ち急かす様な痛みに思わず振り返るが、其処には誰が居る訳でもない。
「……そろそろ行くのかい?」
「無理はしちゃ駄目よ、新しい家族の皆には、私達に掛けた様な心配……させちゃぁ駄目だからね……」
何時までも此処で話し込んでいたい……そう言う気持ちはきっと俺以上にそう言った両親の方が余程強いだろう。
それでもそう背中をそっと押してくれる二人の心遣いは、幾ら感謝してもしたりない物だった。
「如何に離れた……それこそ三千世界を隔てた彼方に居ようとも、儂等が家族だった事は変わらん。何時か儂や親父が逝った先で自慢できる者と成る様、背筋を伸ばして歩んで行け」
後ろ髪を惹かれる気持ちを、厳格で頑固な煩型その物の……しかし決して激した物では無い、言い含める様な優しさと厳しさが同居した声が、断ち切ってくれる。
視界が此処へと送られた時と同じ様な、白い闇に呑み込まれていく中、俺は
「産んでくれて……育ててくれて……有難う」
少しずつ少しずつ、消え行く三人の姿を決して忘れぬ様目に焼き付けながら、感謝と
「逆縁の……いや、それだけじゃない……幾つもの親不孝をして御免なさい」
謝罪の言葉を口にする。
隠神剣十郎と言う大人を装った子供の……格好を取り繕った言葉では無く、胸の奥から溢れるそれは猪河志七郎にこそ似合う物だっただろう。
それ故と言う訳でも無いだろうが、光の中へと包まれるに連れて、魂が示す姿も本来有るべき姿へと変じて行く。
ゆっくりとゆっくりと描き変わっていく光景の中、どうやら三人にも俺の姿が変わってくのが見えているらしく、その表情が驚きと……納得の色へと染まって行った。
「祖父さんの言う通り、世界を隔てたとしても……それよりももっと広い所で、世界は繋がっているんだ。袖すり合うも他生の縁……じゃないけれど、きっと何時か何処かでまた会える……だから」
消え行くその姿、こうして口にしている言葉が届いているかは解らない、それでも
「さよなら、じゃない! 行って! 行ってきます!」
きっと今生の別れに成る事は間違いない、それでも……それ以外の言葉を口にする事は出来なかった。
そして、完全にその姿が消え行くよりも一拍遅れ、
「俺の子として産まれてくれて有難う。愛情を教えて上げられなくて御免」
「私の子として産まれてくれて有難う。愛情を教えて上げられなくて御免」
「儂の孫として産まれてくれて有難う。愛情を教えて上げられなくて御免」
「「「きっとまた何時か、何度生まれ変わった先でも……また会える。そう信じている」」」
聞こえてきた、重なり合うその声は、俺の胸の奥に確かに刻み込まれ……。
再び目を開けた俺は俺の姿のままで、見え覚えの有る道場に座る記憶に有るのと寸分違わぬ、衰えた様子も無い曽祖父を見下ろしていたのだった。




