三百十 志七郎、不知を知り場に着く事
本堂から渡り廊下を抜け寺務所を通り過ぎ、普段は使われていない西側のお堂へと本仁和尚に先導され足を踏み入れる。
此処は本尊で有る阿弥陀如来では無く、他の一般には公開していない仏尊を秘仏として祀っているお堂で、和尚が他教の秘術等を行使する際に使っている場所だと言う。
そもそも仏様を祀るお堂でそんな怪しげな儀式等行う時点で、どうなのだろうと思わなくも無い。
が、その在り方は『南無阿弥陀仏と称えれば、悪人でも救われる』等と言われる阿弥陀様よりも更に開明的な仏様で、人を救うのにいかなる手段を用いようとも躊躇う事は無く、その為成らば戦い、闘い抜いて……そして必ず勝つ、そんな存在なのだそうだ。
秘仏と言う事も有り、その姿は厨子の奥に仕舞われたままで見る事は出来ないが、それ自体の歴史的、文化的、そして金銭的な価値は国宝級とされる本尊が数体纏めて買える程に成り兼ねない物だと言う話を以前ポン吉から聞いた覚えが有った。
だが今、俺が目にしている光景はそんな厳かな仏堂の姿では無い。
板張りの床には、見た事も無い奇妙な文字と幾何学模様が刺繍された毛氈が敷かれ、その回りには恐らくは動物の物だろう……だと思いたい真っ白な骨で組み上げられた燭台がならび、その上には黄色い蝋燭が幾つも立てられている。
これに生贄を捧げる祭壇でも有れば、完全に蛮族の怪しげな儀式の類にしか見えないが、護摩を焚く場所すら無い此処にはそんなスペースは無く、ギリギリセーフと言えるのではないだろうか。
「夢枕に立つにはまだ少々早いな。ちっと時間潰しに話をしてやろう」
幾つもの揺らめく灯火に照らされた、不可思議な空間に俺達を招き入れた和尚は、古めかしい腕時計で時間を確認しそう言って俺達に座布団を勧め、それから改めて口を開く。
「知っての通り俺と士郎の奴ぁ、お前らと同じ様に幼馴染って奴でな……」
蝋燭の火を煙管に移しながら、そんな言葉から和尚の話は始まった。
その話に拠れば、親父――剣士郎は、俺がイメージしている様な厳格な男では無く、不器用ながらも自分に厳しく他人に甘い男で、学生の頃から仏頂面を晒したまま人のトラブルに首を突っ込んでは進んで貧乏籤を引く、そんな蛮カラ漢だったと言う。
防大を卒業し幹部候補として任官した頃には、人に指示を出す立場と成ってそのお人好し体質は改善されたかに見えた……が、兄貴――剣一郎が生まれた時、普段は責任感から成りを潜めていたその甘やかし癖が出過ぎてしまったのだそうだ。
曰く『普段は厳しい祖父さんや親父と一緒に居るんだから、偶にしか帰れない俺が甘やかしても良いだろう』……と。
だが兄貴が五歳の……俺がまだ一歳で物心も付く前の頃、兄貴は度の過ぎた悪戯で他人を傷付けた事が有ったのだそうだ、その時親父は兄貴を叱り付ける者達から兄貴を庇い『男の子なんだから、悪戯の一つもする。元気で大変結構』等と曰ったのだそうだ。
ソレに対して烈火の如く怒りを露わにし『偶にしか会えないのだから、その時に甘やかすのはしょうが無い。けれども叱る可き時に叱れぬ父親なら居ない方がマシ!』と言ったのは、曾祖父さんでも祖父さんでも無くお袋だったと言う。
以来親父は家庭の事に口を挟む事は無くなり、俺が知るあの緊迫感を放つ姿は、俺や兄貴に対する無関心では無く、甘やかしたくて仕方が無い自分を己の意思で抑えつけて居た姿だったのだそうだ。
警察学校への入学を機に家へと寄り付かなくなった俺の事を、親父は自分を律する事が出来なかったと、自分の弱さ故に俺を傷付けた事が、俺と家との確執の原因に成った、とそう思い悩んでいたらしい。
そして俺が命を落とした際には、ソレこそが自らの身を案ずる事の大切さを軽んじた原因と成ったと嘆いていたのだと言う。
「お前さんの不始末と不名誉を雪ぐ事や、剣太郎だっけか? あの小僧に修行を付ける様に成って多少は気が晴れた様に見えてたが……。さっきの話を聞く限りじゃぁ、二年ぽっちじゃぁ彼奴の心は癒やされてやしねぇんだな」
吸い終わった煙管の灰を携帯灰皿に落とし、淋しげな笑みを浮かべると、ちらりと時計を見やり、
「さてそろそろ良い頃合いだの」
と言うと共に、手にした金属バットを振りかぶった。
飛び散る星の欠片が流れ行き白い闇が晴れ、少しずつ風景が像を結んでいく。
そこは昼間見たのと同じ前世の実家、その茶の間だ。
昼飯を食ったのと同じ座卓、お袋と祖父さん、そして親父と……今日会った内の三人が其処に座り、何か深刻そうな表情で静かに話をしていた。
玄関から繋がる廊下側の出入り口に立って居た俺は、その風景に違和感を感じ、なんと声を掛けるべきか迷い視線を彷徨わせる。
「剣十郎!? 貴方剣十郎でしょう!?」
団欒と呼ぶには何故か重い空気を孕んだその光景、を戸惑いながら観察して居た俺に気が付いたお袋はそう叫びながら立ち上がろうとして座卓に蹴躓く。
倒れ込むお袋を、思うよりも早く踏み出していた俺の腕が受け止める、この瞬間に成って俺は初めて自分の身体――厳密には身体は無いが……が志七郎のソレでは無く、前世の……剣十郎だった頃の姿に戻っている事に気が付いた。
「ああ、ああ……剣十郎……立派に成って……夢でも……いえ、夢なのね……でも、でも……」
嗚咽を洩らしながら、涙を拭う事も無くそう言うお袋は、昼間会った時以上に小さくそして弱々しい物に感じられる。
「剣十郎!? 済まん……俺が、俺が不甲斐ないばかりにお前に寂しい思いをさせて……」
それに対して何の反応を返すよりも早く、親父がお袋を抱き止めた俺を諸共に抱きしめ、声を上げ誰彼憚る事無く泣き叫ぶ。
大の大人が、それも還暦を過ぎた老人が示す姿では無い様にも見えるが、同時にソレこそが包み隠さぬ親父の本心、本性で有るように思えた。
いや、此処は彼等の夢の中なのだ、其処に剥き出しの魂で足を踏み入れた俺同様、彼等もまた肉体を介さぬ生のままの感情を露わに、その場に居るのだろう。
夕方道で会った親父、和尚に聞いた親父、俺の中に居た親父、それらは余りにも掛け離れた全く別人にすら思えたのが、今こうして声を上げて泣く姿を見て、プリズムの焦点が合うように重なり一つに成る。
そして……俺が家族に……親父に持っていた隔意が、ボタン一つ掛け違えただけの些細な物で有り、子供の様な意地っ張りの結果――勿論そんな単純な物では無いのだが、少なくとも今の俺にはそう思えた。
言わねば成らない事は幾らでも有る、単純な謝罪や感謝の言葉、それだけでは語り尽くせぬ物が胸の中で渦巻いている。
それをなんと表現すれば、二人に伝わるだろうか、なんと口にすれば誤解無く示せるだろうか。
何を言おうと、最後には別れを告げ悲しませる結果が待っている事には間違いない。
どう言い繕おうとそれを避ける事は出来ないのだ。
にも関わらず、俺は言葉を吐き出す事を躊躇う事しか出来ず、俺は俺が思っていた以上に……子供だったのだと思い知らされた。
「……何を難しく考えておる、その胸の中にある言葉をただ吐き出せば良い。此処は腹の探り合いや交渉の場では無い、家族がほんの一時でも有るべき姿を取り戻す為の場なのだろうよ」
一歩引いた場所から俺達を見つめ、何かを悟った様な表情でそう言い切ったのは、当然剣止郎祖父さんだ。
超常の世界の住人と言う訳では無くとも、あらゆる意味での交渉事のエキスパートは、この場の意味を経験から裏打ちされた直感だけで、見抜いた様子で俺に言葉を促す。
知らぬ内に流れ始めていた涙に気付く事も無く、俺は意を決して口を開くのだった。




