三百九 志七郎、出会いを訝しみ狐狸を思う事
「ちょ! 祖父ちゃん!? 御免な坊主、ウチの祖父ちゃん最近一寸呆け気味でさ……」
突然滂沱の涙を流し咽び泣く親父に、慌てた様子で俺に対して謝罪の言葉を口にする我が甥子――剣太郎。
端から見れば、還暦を過ぎた老人がすれ違った子供を見下ろして、唐突に涙を流し泣き出したのだから、その様子は只事では無い。
しかもそれが己の身内で有れば、生意気盛りの思春期真っ只中な男子としては、勘弁してくれよ、と言う気持ちに成っても仕方が無い事だろう。
とは言え俺の知る親父は、ただその場に居るだけで無言の圧力を放っているかの様に、その場を緊張感で支配する様な人だった。
だが俺が良く知る親父は三十代半ばから四十代の働き盛りの中年世代の頃だ、その後歳を経て老成したのは間違い無いのだろうが、それでも面と向かってボケた等と言われれば、それを看過する訳も無い。
「痛ぇ!」
俺が未だ実家で暮らして居た頃にされたのよりは幾分か力の入らぬ、それでも十分な衝撃を伴った拳骨が振り下ろされ、
「誰が呆け老人だ誰が、親父や祖父さんですらまだ頭はハッキリしてるんだ、六十を多少過ぎた位で簡単に呆けてたまるか!」
と逆手で涙を拭いながらそう吠える。
……俺が命を落とした前の年、還暦を迎え定年退職した事は兄貴から聞いていた、その祝いの宴を催す事も連絡を受けていたが、俺は仕事を理由に帰ろうともしなかった。
俺の中に居る親父は、偶に帰ってきてはニコリともせず緊張感を振り撒くだけの、レアなお邪魔キャラと言う印象で、こうして感情を顕にする姿は記憶に無い。
だがこうして剣太郎とのやり取りを目にすれば、親父とて決して木石では無く、普通に一人の人間として確りと感情を持っているのだ。
親父から褒められる様な事も無ければ叱られたりした覚えも無いが、思い返せばそれは決して俺に対する無関心故の事では無かった。
大概の場合、親父が帰って来た時には、曾祖父さん乃至は祖父さんにこっ酷く折檻された後で、それ以上の追い打ちの必要性が無いと判断したのだろう。
親子の情は要不要でやり取りする物では無いだろうが、当時自衛隊の海外派遣が始まったばかりの、胃が痛く成るような日々を送っていた筈の親父にとって、家に帰ってまで俺や兄貴を叱り付ける様な事は酷く負担だったのかもしれない。
そんな枷が外れた親父と、軋轢無く馬鹿なやり取りが出来る甥子の関係は、俺が思い描いていた理想の親子のそれの様に見え、胸の奥に疼く物を感じた。
「……唐突で済まなかった。見ず知らずの子供に……(てってれてれててちゃんちゃん)ん? 君の携帯かね?」
何の言葉も返す事無く、ただただ自分が頑なな態度を取り続けなければ有り得たかも知れない親父との関係を想っていたのを、突然声を掛けられ怯えた様に見えたのか、謝罪の言葉を口にする。
が、それも突然鳴り響いた場違いな旋律に中断された。
無論その音源は彼の言う通り俺のポケットの中に入った携帯電話で、間の抜けたソレは生前の俺が狢小路動物病院からの電話に設定した着メロである。
『おい、ケン! お前今何処だ? 幾らお前でも、子供が出歩く様な時間は過ぎてるだろ。さっさと帰って来い!』
耳に当てずとも聞こえる様な大声を響かせるポン吉に、
「御免なさい! 直ぐに帰ります!」
俺はこれ幸いと回りに聞こえる様そう返答の声を上げ、彼等に一礼してからその場から逃げる様に走り出すのだった、
「なんだよさっきの電話は、丸っきり子供見たいな声上げやがって、なんか変なもんでも食べたのか?」
駆け足で今楠寺へと戻った俺を、胡乱げな目で俺を見下ろしながらポン吉はそんな言葉で出迎えた。
「いやな……丁度良いタイミングと言うか、何と言うか……」
何処かの名探偵の様な子供のフリをした事に自己嫌悪の様な物を感じつつ、今日一人で出歩いて居た間の事を掻い摘んで説明していく。
「おい……おい、一寸待て、流石に偶然にしちゃぁ、ちっと所じゃ無く出来過ぎだろうが……」
幾ら小さな町とは言え人口五千人少々のこの町で……いや千戸玉市は二十万都市、あちらへ行った事も含めて考えれば、たった一日の間で家族の大半と会う偶然とは、どれ程の確率だろう、ポン吉の言う通り偶然と言うには余りにも出来すぎている。
「和尚さんの……手引きじゃ無いよな? 流石にそこまで手間を掛けて、偶然を装う必要は無いとは思うんだが……」
妙な術を操るらしい本仁和尚ならば、絶対に無理とは言い切れない様な気もするが、そこまでする必要が有る様にも思えない。
「いくら親父でも、そんな狸か狐が人を化かす様な真似はしねぇだろ。第一、お前と家族が直接会わなくても良いように取り計らうって言ってたじゃねぇか……」
狢小路も隠神もついでに猯谷も含め、その名字は皆『タヌキ』や『ムジナ』の類と縁の有る物だ。
『狢』『猯』とあからさまな文字を掲げる二人と違い、隠神が化け狸を暗示する名字だと言う事が、中学生の頃に封切られたとある映画で比較的有名に成り、俺達には三狸等という渾名が付けられたりもした。
そんな俺達が幾ら身内とは言え、狐狸の類に化かされたと言うのは、笑い話にも成りはしない。
だが基本的に人を食った様な事を得意とする本仁和尚の事だ、その手の悪巫山戯をしないとも限らないのだ。
俺達が子供の頃を含め一寸調子に乗った者が居れば、それを懲らしめる為にあの手この手を駆使して、痛い目にあわせるのはあのおっさんの得意技だったのだから。
『そりゃぁきっと阿弥陀様……とは言わずとも、何らかの神仏のお導きだろうよ。此処で懲りとかにゃぁ、もっとずっと酷い目に会うってなぁ』
そうしたり顔で笑いながらそんな言葉を口にするのを、当事者としてだけで無くその後も幾度も目にした物だ。
今思えばその神仏のお導きとやらも、和尚の持つ幅広い人脈と、場合によっては尋常ならざる術の類を組み合わせた結果、生み出された物だったのだろう。
俺達の時は確か高校の時、他所の生徒が俺達の高校の生徒から強請り集りを繰り返して居ると言うのを聞いて、子供臭い正義感を振りかざし、其奴等を潰しに行った事が有った。
きっと、その一件だけならば、痛い目に合わされる事も無かっただろうが、調子に乗った俺達三人は近所の不良共相手に、自警団紛いの事をし始めたのだ。
と言うか、相手が不良で有れば、此方から積極的に狩りに行ったのだから、今思えば救えない馬鹿だった。
そんな俺達がある日喧嘩を売ってしまったのは、和尚から壊れない程度に痛い目に会わせてやって欲しいと頼まれた、白浜組の若い――と言っても俺達よりは幾分か上だが――衆だったのだ。
三人がかりで、それも俺達は竹刀を手にしていたと言うのに、無手のあの人に俺達は一方的にのされた。
そして、倒れ伏した俺達を回収しに来た和尚が笑いながら言ったのだ。
丁度今、俺達の目の前でそうしている様に……。
「勘違いするんじゃぇねぞ、今回は俺ぁ何にもしてねぇぞ。お前さんの魂をぶっこ抜くんだって、この世界じゃぁ簡単な事じゃねぇ。殺さねぇ為にゃぁ確りと下準備が必要でな、それに忙しくてそんな面倒な事してる暇はねぇよ」
一仕事終えた風に煙管を吹かしながら、そう言う和尚は左手に何故か金属バットを持ち、それで自らの肩をさも凝っていると言わんばかりに叩いていたのだった。




