三百七 志七郎、己の不明を恥老雄相対する事
流石に子供一人で閉館まで粘る訳にも行かず、俺は適当な所で図書館を後にし微香部町へと帰る事にした。
来る時には幾らでも座る場所の有った電車だったが、丁度帰宅ラッシュの時間帯らしくほぼ満員と言っても良い混雑具合である。
流石に都内のラッシュ時の様に駅員が押し込ま無ければ、扉も閉まらぬという程では無いが、それでも当然座席に空きは無く、吊革に手も届かぬ俺は入り口側の手すりに掴まる事にした。
千戸玉市から微香部町を経由して都内へと乗り入れる快速電車に乗ったのだが、この混み具合なら各駅停車に乗った方が良かったかも知れない。
と益体もない事を連々と考えてみるが、やはり自分の心から視線を逸らすのは容易では無い、然程も経たぬ内に今日気付かされた事に思考が支配される。
前世の俺は、自分と言う者の価値を自分で認めて居なかったのだろう、だからこそ自分で自分を守ると言う事を軽んじ、他人を護る為と言う大義名分を掲げて、平気で自らを危険に晒していた。
海外での捜査研修でも、普通の日本人警察官成らば積極的に危険地帯へ踏み込む様な真似はせず、銃撃戦に喜々として参戦する様な事も無いだろう。
部下を預かる立場に成ってから、他所から預かった者がそんな無謀な行動を繰り返して、無事で済まない様な事が有れば洒落にならない事は理解したつもりだったが、まだ自分が傷付き命を落とす事で発生する様々な問題に付いて足りなかったのだ。
同時に自分が積極的に死にたいとまでは考えおらずとも、全身全霊を懸けて生き抜きたいとは思っていなかった事も理解する。
そしてそれは……生まれ変わった今でも大きく変わっていは居ない。
猪山藩猪河家の子として恥じる事の無い様、行動する事は心掛けては居るが、その為成らば自分の命を捨てる事も比較的簡単に選択肢に入るあたり、『俺』は今でも何処か奇怪しいのだろう。
だからこそ、俺は戸惑う事も無く簡単に自らを『贄』に捧げる様な真似が出来たのだ。
だが、こうして前世の事とは言え自分の死がもたらした様々な影響をまざまざと見せ付けられれば、それを納得する事は出来ずとも理解せざるを得なかった。
とは言え、『死にたくない』と言う生き物ならば当然持っていて然る可き根本的な衝動が感じられないのだ。
生きる喜びを知らぬ訳では無い、美味いものを食い、友と遊び楽しみを共有し、疲れきった身体を横たえ眠りに落ちる、そんな当たり前の快楽を感じた事が無い訳では無い。
刹那的な犯罪に身を窶した若い馬鹿者に、もっと真っ当に生きてみろ、と説教をした事も有る。
にも関わらず俺自信が俺の存在価値を感じて居なかったのだから、笑止千万と言うしか無いだろう。
けれども……前世の家族も、そして間違いなく今の家族も、俺が家族の一員だというその一点だけで価値を見出している。
きっと……いや、間違い無く……俺は自らの在り方を改めなければ成らないのだ。
その為にも俺はもっと、前世の家族と向き合う必要が有る。
唯自分の不明を謝るだけでは無い、産み、育み、教え、そして護ってくれた事に礼を言わねば成らない。
あの日あの時まで生きて来れたのは、運も多分に有るだろうが、それ以上に身体的な潜在能力の高さと、それを活かす事が出来た剣と言う下地が有ればこそだったのだ。
「ありがとう、そして御免なさい」
言葉にすればたったの二言、だがソレを口に出して見れば何よりも重く大切な言葉だと感じられた。
それを伝える為に俺はこの世界へと戻って来たのかも知れない。
「いや、大人として当たり前の事をしているだけだ」
と、不意に頭上からそんな言葉が振ってきた。
思わず見上げれば、其処には小さな子供が人の圧力に潰されぬ様、身体を張って庇っていた祖父の姿が有った。
隠神剣止郎、世界中が厳しい目を向けていた戦後の日本を護る為、外交官としてその人生の大半を海外で過ごしてきた男である。
大学卒業前に祖母と結婚した彼だったが、彼女の腹に子が宿るのと殆ど同時に海外へと赴任し、その後殆ど実家へと帰る事も無く、生まれた子――親父と初めて顔を会わせたのは、親父が大学の合格祝いに当時の赴任先へと旅行した時だったのだと聞いている。
黒縁メガネに地味なスーツを纏い、髪も白く色が抜け落ちたその姿は、何処にでも居る普通の老人に見えるが、齢八十を回って尚も満員電車の圧力を片腕で支える事が出来る程に服の下に隠された彼の身体は未だ衰えては居ない。
戦後諸外国、それも治安が良いとは言えぬ土地ばかりを選ぶ様に赴任し続けた彼が、政治的な理由の如何に関わらず、襲撃を受けた事は数え切れない程だったらしい。
流石に外交問題とも成りえるが故に、それが公にされる事は無かったが、その大半を独力で時には逃げ落ち、時には返り討ちにし……とその人生は波乱に満ち溢れた物だったと、定年退職後帰ってきた彼本人から聞いた覚えがある。
曽祖父直伝の剣術は勿論、柔術や古流唐手にも精通した彼は『戦う外交官』と言う渾名が有ったとか無かったとか……話半分に聞いたとしても、並の老人では無いのは間違いない。
その原動力は、ただ只管に家族と再会するまで死ねない……と言う思いだったとか。
「坊主、親御さんと一緒じゃないのかい? 見た所まだ小学校へも上がってねぇだろうに……通園って時間でも服装でもないわな?」
俺のような子供が電車に一人で乗っている、それも幾つもの駅を跳ばして行く快速電車にだ、迷子の類と思われても仕方ないだろう。
「いえ図書館に用事が有って、その帰りです。狸寺の有る駅まで行きます」
内心の動揺を隠しつつそう応えると、空いた左手で俺の頭を一撫でし、
「おう、確りした受け答えだ。余程躾の良い家の子なんだろう。その駅なら儂も一緒だ、このまま潰れねぇ様にしてやるよ」
と記憶に有るよりも多少皺の増えた顔を更に皺々にして笑いながらそう言った。
「お前さん見たいなちっちゃいのがこんな満員電車に乗り込むのは流石に無茶ってもんだ。多少時間は掛かるがな、鈍行なら此処まで混まねぇだろ、次からはそっちにしとけや。急いては事を仕損じるって言葉も有るんだぜ?」
と電車が揺れ伸し掛かる様に打つかって来た、片手にスマホ片手にカバンと身体を支えようともしていない若者を軽々と弾き返す。
「おう兄ちゃん。爺や子供に打つかっておいて、詫びの言葉の一つもねぇってなぁどう言う了見だい?」
謝りもせず、スマホを見るのに夢中な彼に、激しい物では無いがそれでも抑え切れぬ迫力の篭った声で、そう問いかける。
その表情は決して凄む様な物では無いが、経験に裏打ちされたその言葉に篭もる、圧力は尋常な物では無い。
二十歳そこそこに見える若者では、見るまでもなく貫目が違いすぎる。
言われてスマホから視線を上げた彼は、蛇に睨まれた蛙の如く動きを止め、それからこの狭い車内で出来る最大限に頭を下げ、
「すみません、ゴメンなさい」
と詫びの言葉を口にした。
「おう、解かりゃ良いんだよ。だがな、折角両の腕が有るんだ片手は吊革を掴むなりしてりゃ、今みたいにたたらを踏んでぶつかる様な事も無かったんじゃねぇか? 儂は並以上に頑丈な質だったから良いけどよ、此方の子供に当たりゃ怪我させてたぜ?」
もう許した、と満面の笑みを浮かべそれから、再度注意の言葉を掛け、
「お前さん見たいな若者なら、やりたい事の一つや二つ有るだろう? つまらねぇ不注意で味噌付けちゃ勿体ねぇだろうよ……少年よ大志を抱けってな」
更に激励の言葉を口にするのと殆ど同時に電車の扉が開いた、目的地で有る微香部の駅へと付いたのだった。




