三百五 志七郎、帰宅し誤解を受ける事
随分と懐かしい記憶に有るのと変わらぬ門扉を潜り玄関を上がる。
あの柱に付いた傷は、俺や兄貴が子供の頃にした背比べの跡、そこに重なる様に付いた幾つかの新しい傷は、甥っ子の成長を同様に記録した物だろう。
親戚が集まる事を想定した、大きな座卓は昔と変わらず茶の間の大半を占領し、大きく重たいブラウン管テレビが乗っていたテレビ台の上は、大きくは有るが重さは然程でもなさそうな液晶テレビに変わっている。
俺や兄貴が取った剣道の賞状が入っていた額縁は、同じ大会で同じく優勝を飾ったらしい甥っ子の物へと差し替えられていた。
兄貴の結婚式の時にも此処には帰る事は無く、寮から直接式場へ行ったので、此処へ戻って来たのは大学の卒業以来の事だ。
警察学校の在学中も、正式任官した後も、寮の有る県庁所在地の千戸玉市からこの街へは電車で一時間半、帰ろうと思えば帰る事は可能だったにも関わらず、この家へと戻る事は無かった。
県庁勤務だった兄貴がこの家で同居していたのだから、距離云々は言い訳でしか無いだろう。
芝右衛門が営むあの猫喫茶へ顔を出した時でも、此方には寄る事すらも避けて十余年、間取りは兎も角、インテリアが自分の記憶と大きく違っていても何ら不思議な時間では無い。
にも関わらず、記憶の中と同じようで有りながらほんの少しだけ違う、そんな多少の違和感程度で済んでいるのは、此処に住んで居る家族の皆が、大きな変化を嫌い此処を護っているからの様にすら感じられた……いや、本当に護っているのだ。
茶の間の直ぐ隣、仏間に置かれた仏壇の上に並べられた遺影――曾祖母、祖母、その間に挟まれた位置には礼服を身に纏った俺は、家族が集まる場所で有るこの部屋を見守る様に配置されている。
そこから見下ろした者が自分が生活していた時と、変わらぬ状況を目にする事で、今でも家族が安寧に暮らしている、と言う事を伝える為だと、何時だったか、当時はまだ生きていた祖母から聞かされた覚えがある。
少なくとも曾祖父さんが自分の伴侶に先立たれ、自分もまた彼女の元へと向かうまでは、この部屋が……この家が大きく変わる事は無いだろう。
「はい、はい。お待たせしてごめんなさいね……。あらあら、駄目よ、男の子が簡単に泣いたりしちゃぁ……どうしたの? 何処か痛いの?」
と、仏間とは反対側、台所へと繋がる襖を開き姿を現したお袋は、俺が子供の頃と寸分違わぬ優しい笑みを浮かべながら手にした盆を置き、そっと俺を抱き上げそう言った。
別段身体の何処かが痛かった訳では無い、何かが悲しかった訳でも、嬉しかった訳でも無い。
ただ向こうで生きていた俺は、俺で有る事に強い拘りを持ち、俺が消える事を恐れていた癖に、俺を形作った家族を思い出そうとすらしなかった。
長い時が流れていると言うのに、一寸出かけて帰って来たと錯覚させる程の、丸で時が止まったかの様なこの部屋の在り方と比べ、自分がなんと不義理な人間だったのか、それを思い知らされたのだ。
自分が涙を流している事すらも気がつかない程に……心が痛かった。
勝手に生きて、勝手に死んで御免……思わずそう謝罪の言葉が口を突きそうに成るが、歯を食いしばりそれを堪える。
今この場に居るのは猪山藩藩主猪河四十郎の子、猪河志七郎であって、この家の隠神家の次男、隠神剣十郎では無いのだ。
溢れ出る涙が止まった頃には、既に味噌汁は冷めてしまっていた。
緑色の御萩の様な物……ずんだ餅と長茄子の漬物、麩と豆苗の味噌汁と、この地域では珍しい部類のメニューでは有るが、お袋の実家ではよく食べられている物で、前世には俺も日常的に口にしていた物だ。
迷う事無く独特な風味の有る甘いずんだ餅を食い、味噌汁を啜る、添えられた茄子の漬物も良い味を出している。
「あら、小さいのに綺麗にお箸を使うのね」
正座をしたまま、添えられた木の箸を使ってそれらを口へと運ぶ姿を見て、お袋は小さく感嘆の声を上げる。
中身は兎も角、身体は満年齢で五歳を回ったばかりの、しかもほんの少し前まで訳もわからぬ理由で泣いていた子供が、綺麗に背筋を伸ばして箸を使う姿がミスマッチなのは間違い無い。
「余程、躾の厳しいお家で育ったのね……」
なのに昼飯を今楠寺に貰いに行かざるを得ないとは、何か訳有りの子供なのだろう、とそう思っている事は、たとえ俺が刑事として人の表情を読む経験を積んで居なかったとしても一目で解る、それほどに彼女の表情は哀憫の情に満ちていた。
今楠寺にはこの町の子供だけで無く、近隣の小さな町村で起こる様々な問題が持ち込まれる。
それは時に虐待で有ったり、家庭内暴力で有ったり、ドメスティックバイオレンスで有ったりと様々では有るが、そうした相談事を受けた時、大概の場合弱い者を受け入れ庇護するのがあの寺なのだ。
奥様方の井戸端会議と言うやつは侮れない物で、この位の小さな町では何処の家庭でどんな問題が起こっているか、と言う事はほぼ把握されていても可怪しくは無い。
人当たりも良く、面倒見の良いお袋は、古くからこの町に住む名家と呼んでも差し支えない家の嫁として、その場で流れる噂の殆どを耳にしていて当然の立場と言える。
それら噂の中に俺が居ない以上、何かの問題を抱え今楠寺に保護された子供だ、と考えた筈だ。
躾が行き届いた家庭で生まれ育った子供が、その家を離れ寺に保護される、それも年端も行かぬ――小学校へも上がらぬ年齢の子供が……だ。
普通に考えればその背景に有るのは、不憫と言う他無い事柄しか無い。
子供と言う物は大人が考える以上に異物を嗅ぎ取り排除しようとする、それはきっと人間の本能に根ざす反応なのだろう。
両親の転勤等で引っ越して来た子供ですら虐めの槍玉に挙がる事が有るのだ、それが問題の有る家庭で育った子供で有れば、それを排除しようとする動きが出るのは自然な事なのかも知れない。
で有るが故に、今楠寺とは代々浅からぬ関係を持っていた隠神家の子供は、そうした子供を子供達の中で率先して受け入れる役目を任される事が有った。
偶々俺が子供の頃にはそうした不幸な子が今楠寺に長期に渡って預けられる様な事は無かったが、兄貴が幼い頃には何度か有ったと言う話しで、そうして知り合った内の一人が義姉さんだった筈だ。
にも関わらず、俺の事がお袋の耳に入っていないのは、この二年の間に隠神家を取り巻く環境が大きく変わったのか、それとも狢小路の小母さんが気を使って話して居ないのか。
向こうで食べたよりも幾分か甘いずんだの風味を味わいながら、彼女の表情を観察するが、今ひとつ判断が付かない。
「……ごちそうさまでした」
ゆっくりと時間を掛けて味わって食べたが、幼いこの身体ではずんだ餅を二つも食えばもう十分と言える。
「あら、もう良いの? 御免なさいね有り物で……」
そう言いながら探る様な目で俺を見下ろすお袋、とは言えそれは不審者を見る様な物では無く、記憶の中に有る何かと結びつきそうで結びつか無い……そんな歯痒さを感じている様子だった。
「……間違っていたら御免なさいね。貴方のお父さん……もしかして警察の……刑事さんだったりしない?」
そう言うお袋の視線の先には、前世の俺が千歳飴をぶら下げ笑っている写真の入ったフォトフレームが有った。
こうして見ると、瓜二つ……とまでは言わずとも、親子兄弟程度にはよく似ている様に思える。
どうやらお袋の中で俺は、俺が何処かで作った隠し子……と言う疑惑が首を擡げている様だった。




