三百 『無題』
打ち寄せる波音、船を引く人足達の掛け声、積み下ろしの荷物を運ぶ大八車の揺れる音。
今生の別れと決まった訳では無いが、それでもそう簡単には戻れぬ彼方へと旅立つ者達と、別れを惜しむには湊は少々騒がし過ぎた。
しかしだからと言って、武士の権力を振りかざし彼等を黙らせる訳にも行かない、此処は御公儀の湊では無く商人達が自腹を切って整え造った湊なのだ。
江戸湾に他の湊が無い訳では無い、だが此処以外の場所は皆、漁に出る為の小舟を漕ぎ入れるのがせいぜいで、今回の様な大船が船底を擦らず着岸する事は出来ない。
千田院を経由した北前船や、河中嶋を経由した上方船が入れる場所を、此処だけに限定する事で御禁制の品を少しでも江戸州へ持ち込まれる危険性を減らす為だ。
この江戸湊が造られた頃は未だ戦乱の最中で、当時この地を治めていた増平家には単独でこんな大湊を造る様な財力は無く、未だ何処の馬の骨とも分からぬ流れ者に過ぎなかった家安公が商家を先導し造らせた物と言われている。
後に幕府を開いた公に御用商人と成った商家の当主達は、この湊を献上すると言ったのだが、
『銭の一文、人手の一人も出さず、ただ口を出しただけの自分が、血と涙と汗の結晶とも言えるこの湊を受け取るのは余りにも筋違い。けれども町に住まう者達を護る為、積荷の検査だけはさせてくれ』
と返答し、商人達の湊に置ける権利を保証したのだそうだ。
今でこそ幕府の政策も財政も安定し、武家の為の大湊を整備しようと言う声を上げる者も居ないでは無いが、大湊を必要とする様な大船を所有する武家は無く、掛かる費用に見合わぬと黙殺されているのが実情である。
現状御用船でも大船は此処を使っているがそれで問題に成る事があるとすれば、静かに別れを惜しむ場所としては不適当な事と、商人如きに頼まねば成らぬ、と言う誤った矜持の持ち方をした者が煩い程度の事に過ぎない。
「あい、御免なさいヨ! 荷物通して御呉んなせぇ!」
と、荷物を満載にした大八車を引く人足が通り道を塞ぐ一団に大声を上げる。
その一団は御用船に乗り彼方へと旅立つ若者を見送りに来た旗本の一家で、他の場所で有れば無礼討ちにされても仕様の無い事だった。
が、遠方から江戸に運び込まれるほぼ全ての荷を扱うこの湊では、如何なる大身の大名だろうと、荷主であろうと、まかり間違って上様で有ろうとも、荷が通る成らば道を譲らねば成らない、と定められている。
此処から江戸市中へ運ばれる荷物がほんの一刻遅れただけでも、江戸中の商いが停滞し巡り巡って幕府が得る税が大きく減衰し兼ねない、と言われているからだ。
とは言え、商人達とて馬鹿では無い。
実際に多少遅れた所で早々に大きな被害が出る訳は無いのだが、ほんの少しが積もり積もって大きな遅れに成れば、実際に大きな被害に繋がり、場合に依っては人死が出る様な事体も有り得るだろう。
だが銭勘定に関わる事の少ない役所の侍にはその辺の加減は解らない、纏めて一律に定めてしまう方が問題は少ないだろうと言う事だ。
荷物に追い立てられた彼等も一瞬驚きの表情を顕にしたが、事前に注意事項として世話役から口酸っぱく言われていた事も有り、腹を立てた様子も無く直ぐに道を譲る。
「おい! お主達! 水盃なんて縁起でもねぇ! それとも何か? 護衛役や世話役が信用出来ぬとでも言うつもりか!?」
しかしその時、俺の隣に居た弟がそんな言葉を曰った。
水盃とは文字通り、酒の代わりに水で盃を交わし、今生の別れとする儀式である。
文も届かぬ様な遠い地へと旅立つ者を送るのに決して間違った事とは言えないが、此の度の出立はこの火元国に居ては学べぬ事を学ぶ為の旅路、十分に学んだからには帰って来るのが大前提だ。
合戦の場へと向かう訳でも無ければ、死出の旅路と言う訳でも無い、二度と会わぬ――会えぬ、と盃を交わすのは、愚弟の言葉通り確かに縁起でも無いと言えるかも知れない。
ましてや海の向こう所か星辰の彼方へと、盃を交わす事すら出来ず旅立つ羽目に成った末弟を思えば、腹が立つのも解らない訳では無い。
が、相手は江戸州から出た事が有るかも怪しい旗本家で有る、海を越えた遥か彼方、文字通り世界の反対側――西方大陸――までの船旅等、想像しようにも出来る物では無く、それが今生の別れと成るやも知れぬと考えるのも仕方の無い事だろう。
「お止めよ、お前さん。船に乗るのも初めてなら、江戸州を出るのも初めての、お若い御子弟を見送るんだい、糞尿を食らってでも生きて帰る……なんて気概を持てなんて方が無理ってもんさね」
と、俺が諌める言葉を口にするよりも早く、祝言を上げたばかりの義妹殿が、煽っているとも取られ兼ねない台詞を言い放つ。
だがその言葉に彼等は腹を立てる様子は無く、寧ろ見えて居なかった物を見せ付けられた、と言わんばかりに驚きの表情を浮かべ、直後旅装束を纏った少年は覚悟を改めた事が良く分かる目付きで真一文字に口を結び手にした盃の水を捨て去った。
武士として死に際の恥は晒さぬ、と言う覚悟を決めて来たのだろう彼は、義妹殿の言葉にそれが筋違いの覚悟で有り、何が何でも修行を物とし生きて帰る事こそが求められる本当の事だと思い至ったのだろう。
そしてそれは彼等だけでは無かった様で、そこら中で恥ずかしそうに盃を袂へと仕舞う者達の姿が見て取れた。
「流石は女性の身に有りながら、夫と共に旅路を行く事を許された女傑よ! 我が猪山が誇りし鬼二郎を婿に出した甲斐が有ったという物よ」
そう言って義妹殿の言葉を賞賛したのは我が猪山藩主で有る親父殿だが、懐手にしたまま手を出さない所を見る辺り、きっとその手には水の入った徳利と盃を持ったままなのだろう。
戦場へと向かうのが日常で有り、たとえ危険な大鬼を相手取る時でも、水盃を交わす様な事の無い我が藩なのだが、末弟に続いて次弟まで困難な旅路に就く事に色々と覚悟を決めねば成らぬとでも思ったのかも知れない。
「船の準備が出来ました! 順次乗船願います! 船の準備が出来ました!」
船の下働きらしい少年が大声を張り上げ走り回るのを見て、いよいよ別れの時が迫ったのを知る。
「義兄、義姉様、去年漬けた梅干しニャ 疲れたらコレ食べて元気だして欲しいニャ」
弟妹が別れの言葉と共に餞別を渡してく、愚弟が受け取りソレを義妹殿が手にした虎殿作の入万巾着へと仕舞って行く。
「麻呂が拵えた護符でおじゃる。義父殿の手も入っておる故、並大抵の術は弾く筈でおじゃ」
中には義二郎が今まで溜め込んだ鬼や妖かしの素材がたんまりと詰まっている筈だ。
「お師匠も兄弟子さんも付いて行くんだから、あっしも一緒に行きたかったけど……まぁ仕様が無の。あっしの餞別はアッチの霊薬なの、帰って来る時には甥っ子を期待しているの」
火元国で流通する銭や金子が諸外国で使えぬ訳では無いが、両替の手数料等を考えれば物々交換や現地通貨に交換出来る物を持って行く方が良い、と言うのが世界を知る者達の言だったからで有る。
「私からは鰊と玉菜の漬物です。材料は北方大陸でも手に入るそうだし、気に入ったら向こうでも作って見て下さいな。義姉様、粗忽な兄ですけれどもお見捨てに成らないで下さいまし……」
そして人付き合いが得手とは言えぬ俺では有るが、こういう時に何の用意もせぬ程気配りが出来ぬ訳では無い。
俺からは酒を……とも思ったが、下戸の此奴に銘酒をやっても配下か同道する者に振る舞う事しか出来ないだろう。
それはそれで一家の主としては正しい事では有るが、再び帰って来る筈のこの男に向ける餞別としては相応しいとは思えない。
「……志七郎の物と同じ刃牙狼の爪を用いた懐剣三振だ。二人の護身だけでは無く、子が出来た成らばその守刀も居るだろう」
素材の価値も含めて決して安い物では無かったが、それで無事が買えたならば決して損は無いだろう。
「……其方は既に他家へと婿入りした身。ワシから物を贈れば、それは猪河家から豹堂家への貸しともなろう、故に餞別の品は無い。だが其方等の父として、義父として言わせてもらう。無事に帰れ、志七郎もそれだけを望んでおろうて……」
父上がそう言葉を掛け、母上が無言で手にした切り火を切る、志七郎に続いて義二郎までもが遠く遠くへと旅立つのだ、幾ら気丈な母上でも泣き出さぬ自信が無いのかも知れない。
乗船が済み渡し板が外されると、ゆっくりと動き出した船の上、
「猪河義二郎、改め豹堂義二郎。いざ! いざ! いざいざいざ! 行って参る!」
そう大見得を切る我が愚弟の姿は、腕一本失って尚、何処からでも無事に帰るだろうと言う安心感を皆に感じさせる力強い物だった。




