二百九十九 志七郎、猫を抱き驚きと笑いの声を上げる事
学生達が立ち去り人気が失せるかと思えば、今度は仕事帰りだろう若い背広姿のサラリーマン、彼等が席を立てば今度は白いスーツの男に率いられた、数人の水商売と思しき男達……。
駅前通りから少し外れた場所に有る小さな繁華街には、俺が知っている2年前の時点ではホストクラブの類は無かった筈なので、彼等は態々遠征して来たのか、この町に住んでいて出勤前にやって来たといった所だろう。
兎角、客商売をするには最悪と言っても良いだろう立地にも関わらず、客足が途切れる事は無く、この店が知る人ぞ知る名店とでも言うべき扱いを受けている事は、誰の目からも明白だった。
とは言え、同じ客商売を生業にするホストが、この店で出されていた市販加工品で満足している筈が無く、その目的は完全に食べ物では無く猫達で有る事も間違いない事実だろう。
男達は注文した飲み物をお愛想程度に口を付けただけで、気怠そうに横たわる猫達を眺めているだけで、満足そうな笑みを浮かべている。
唯一、白スーツのリーダー格と見えるホストだけは、芝右衛門の淹れたコーヒーを美味そうに啜っているが、それはこの店オリジナルのブレンドでは無く、比較的高価な豆を使ったストレートコーヒーだ。
「坊主、腹減って無いか? 何か食うか?」
と、小松を膝に乗せて壁を背に座っていた俺に視線を向け、白スーツがそんな事を言い出した。
……この店で俺の様な小さな子供を見る事は珍しいのだろうが、来る客、来る客、皆が一様に同じ事を言い出すのは何故だろう。
先程まで居た学生達は揃って縮れ毛に成っていた俺と小松を面白がり、先程まで居たサラリーマンの一人は実家の弟を思い出した……とそれぞれがそれぞれの理由付けを口にはしていたが、人が持っていて然るべき小さな義侠心を満足させようと言うのが理解出来た。
だが俺が知るホストと言う者達は、常日頃から相手取って来た馬鹿者共と然程変わらぬ、手前の利益の為に女性を食い物にする様な下衆な連中ばかりだ。
それなりに名を馳せた大物ならば、彼等が自称する様な任侠道とでも言うべき物を弁えた輩も全く居ない訳では無かったが、そういう者の大半は己の悪行を悔いて足を洗うか、貧乏籤を引かされて塀の中だった。
けれども見る限り白スーツの彼は、バイトの男性と交代で出勤してきた若い女性店員に対して色目を使っている訳でも無ければ、連れの若い連中に見栄を張ろうと言う訳でも無さそうだ。
「ヒデさん、この町に居る子供なら腹空かせてるって事は多分無いっすよ。腹が減ったら狸寺に行きゃ良いんですから。俺もガキの頃はさんざん彼処で食わせてもらいましたからねぇ……」
どうやらこの町の出身らしいホストの一人がそんな言葉を口にする。
代々の住職が皆信楽焼の狸にそっくりで、しかもその家名が狢小路なのだ、彼等が住まう寺に狸寺の別名で呼ばれる様に成るのは、何ら不思議な話でも無い。
ヒデと呼ばれた白スーツは、一瞬面を食らった様な顔をするが、少しして何かを思い出した様な表情を浮かべる、
「そういや、この町にゃぁそんな場所が有るんだったな。俺がガキの頃に居た町にもそんな場所がありゃ、俺もちゃんと学校卒業出来たのかもなぁ……」
微苦笑を浮かべながらそう言う白スーツ、
「それを言っちゃぁ、この町に居ても結局退学に成って、ホストしてる奴の立場が無いんじゃね?」
その言葉に別のホストが茶化す様な声でそんな言葉を返す。
「赤点で退学に成った此奴と、働く為に自分から辞めた俺を一緒にするんじゃねぇよ。学歴が大事だとは今でも思わねぇけど、勉強ってのはやっぱり大事だぜ? その辺わかんねぇと何時まで経っても幹部にゃぁ成れねぇよ?」
と、彼等は俺の事を忘れたかの様に一頻り笑い声を上げた後、
「さて、そろそろ仕事行くかね。坊主、早くかぁちゃんが迎えに来ると良いな」
白スーツは態々俺の側へと歩み寄り、俺と小松をそれぞれ一撫でしてからそんな言葉を残して立ち去るのだった。
「あら? 若和尚さんいらっしゃい。ほら坊や、お父さんが来たよ」
ポン吉が店に姿を現したのは九時も半を回り、そろそろ閉店時間が近づいて来た頃合いだった。
「おいおい、俺ぁまだ独身だって、そんな事ぁよく知ってるだろうよ。人聞きの悪い事を言わねぇでくれや、沢子ちゃんや」
苦笑いを浮かべながら言い返す、すると、
「そうですよね~、今のをこの間連れてきたあの綺麗な女性に聞かれたら洒落に成らないですよね~」
沢子はそんな聞き捨て成らない言葉を口にした。
現実の女性には目もくれず、二次元の……それも無いっすボディの……稚い少女にしか興味を示さなかった……あのポン吉に『綺麗な女性』だと!?
驚きの余り思わず声を上げそうに成るが、奴の……と言うか親御さんの世間体を護る為、ぐっと歯を食いしばって飲み込む。
「まぁ……一応、見合いの相手だからなぁ……。流石に隠し子なんて事に成りゃ、洒落に成らんのは確かだわな」
歯切れの悪い様子で頭を掻きながら、消極的ながら肯定の言葉を返すポン吉に、沢子はさもつまらないと言わんばかりの表情を浮かべた後、
「あ、じゃあ、マスターの子ってのはどうです? お客さんはだーれも言わなかったけど、普通ならそう思いますよね!」
名案を閃いた、と両の手を叩きながら言い放つ。
話の矛先が逸れて安堵のため息を吐くポン吉とは対照的に、突然槍玉に上がった芝右衛門は仕事上の笑みを崩して吹き出した。
「ちょ!? 冗談は止めてくれ、俺だってまだ独身なんだ! 嫁さんも貰わない内から子持ちにされちゃ堪らないよ!」
とは言え、そんな風に誂う言葉を口に出来るのも、芝右衛門が事前に俺の事を親類の子供……と彼女に説明していたからだ。
本当に狸寺で預からねば成らぬ様な訳ありの子供を前に、本気でそんな不謹慎極まりない言葉を吐く様な娘では無い事は、前に何度かしか会った事の無い俺でも知っている。
記憶が確かなら彼女は芝右衛門が卒業したのと同じ大学に通っている現役大学生だった筈だ。
雇用主と店員と言う関係以上に、気安く振る舞うのは彼女の性格も有るだろうが、それ以上にエプロンの上からでも解る肉感的な膨らみは芝右衛門のストライクゾーンど真ん中だった筈で、それ故に色々と甘く成っている部分も有るだろう。
そして彼女もその事を理解してる様で、胸の下で手を組んで寄せて上げる様に軽く肩を竦めて、誤魔化す様に笑顔で舌を出す。
思わず視線が其処に吸い寄せられる様に動き、直ぐに気が付いて頭を振るようにそっぽを向くその様は、男の俺から見ても『チョロい』としか思えない。
「そろそろラストオーダーの時間なのに、何をやってるの? 若和尚さんのご注文は?」
と、不意に厨房へと続く扉が開き、中から不機嫌そうな女性の声が響いた。
今日からこの店で働き始めた厨房係の彼女は、幼い頃からこの店に通い続けている常連だと言う話だ。
生前何度かこの店を訪れた事は有るが、彼女と顔を会わせた事は無い。
「あっと、ゴメン! 何時もので良いんだよな? って、今日はカレーの日じゃないからラッシーも作って無い! 悪い、メニューから選んでくれ!」
女性の象徴に目を奪われた直後に、女性から咎めの言葉を掛けられた事が、余程跋が悪かったのか慌てた調子でメニューを差し出す芝右衛門の姿に、彼を除くこの場に居る者達は笑い声を堪える事が出来なかった。




