二百九十八 志七郎、腹拵えをし縮れ毛を気にする事
「取り敢えず、俺達ゃ仕事行くけどよ。お前さんは一眠りしておけよ。幾ら中身がおっさんだって言っても、子供が徹夜なんぞしてちゃ、立端が伸びやしねぇからな」
後片付けを終え寺へと戻るとポン吉は、昨夜と同じく同じ敷地内に有る自宅の、その一室で眠る様言い付けた。
両親と同居の家で何処の馬の骨とも分からぬ子供を勝手に寝泊まりさせたりすれば、普通の家庭ならば少なからず騒ぎに成る事も有るだろう。
だが人口一万人に少し足りない程度のこの微香部町には児童相談所なんて物は無く、虐待や迷子等子供に纏わるトラブルが起これば、先ず町の人達が頼るのは、古くからこの地で慈悲を説いていたこの寺だ。
突然親が蒸発したり、無理心中で子供だけが死にきれず、交通事故で両親を失った上に身内も居らず……と言った様な事で、身寄りが無くなった子供が暫く寺で保護される、なんて事が俺達が子供の頃から何度と無く有った。
最近では虐待が疑われる親から離された子供が、児童保護施設に行くまでの数日間預かったりする等、文字通りの『駆け込み寺』的な扱いを受けているのだと言う。
そんな家だから、当然の様に寝具の予備は大量に有るし、寝床として使う事の出来る空き部屋も、幾らでもとまでは言わないが、少なくない程度には余っているのだ。
そしてそんな家だから、見知らぬ子供が寝床を借りて居たり、誰かが勝手に冷蔵庫や台所の物を食べたりしても、騒ぎに成る様な事は無い。
腹が減ったら今楠寺へ行け、と言うのは地元の子供達の中では殆ど当たり前の事だった。
何せこの家に有る食べ物の大半は自分達で買ってきた物では無く、近隣からのお裾分けだったり寄進された物だったりするので、誰であれ食べたければ食べれば良い、と言う家なのだ。
故に常に食べられる物が用意してあるのだが、必ずしも常に腹を減らした子供が食べに来ると言う訳でも無く、時には余って仕舞う事も有る。
この家の子で有るポン吉は、それらが痛む前に始末する役目を負っていた……と言うと大げさだが、まぁそんな訳で清貧を旨とする僧侶にも関わらず、信楽焼の狸も斯くやと言わんばかりの太鼓腹が育ったと言う訳だ。
「まぁまぁ……そんなボロボロの服を着て大変だったのね、良いのよ何にも言わなくて……。お腹も空いてるんじゃないの? 子供が遠慮なんかしないでたんとお上がりなさい。着替えは有る? 下着の買い置きは有るけれど……洋服は全部バザーに出しちゃったのよね」
と、そんな家だから当然ポン吉の母親に見つかった所で、こうなるだけである。
……まぁ、食って直ぐ寝るのも身体には良く無いが、空きっ腹を抱えて眠るのも辛いのもまた事実。
ポン吉に負けず劣らず福々しい小母さんに導かれ、勝手知ったる台所へと向かうのだった。
飯を食って風呂を頂き一眠りした俺は、学校帰りの小学生や部活前の中学生と、腹を減らした子供達の賑やかな声に目を覚ます。
俺達が子供の頃からこの時間の此処は賑やかな場所だったが、それでも俺が知る頃に比べると子供の数が多い気がする。
これ程騒がしく成るならば、台所から然程離れていない部屋では無く、もっとポン吉の私室に近い部屋で寝るべきだったかもしれない。
母屋の中にポン吉の私室と言える部屋は二つ有る、一階の居間から然程離れていない子供の頃から使っている半ばマンガ図書館と化している部屋と、二階の奥に有る各種ゲームやその他子供に見せられない物が詰まった趣味の部屋だ。
前者は台所同様、昼間の内は子供達に開放されており、勝手に持ち帰ったりさえしなければ、誰でも自由にマンガを読む事が出来る。
対して後者は子供の教育に悪いと言う理由だけで無く、色々と価値のある物が有る為、勝手に出入り出来ない様、この家の中では唯一と言って良い程に厳重な施錠がなされているのだ。
完全なヲタク部屋で有る事を俺は知っているが、ポン吉がその部屋を使う様に成って以降の子供達は、そこが『金庫室でお宝が眠っている』だの『供養してもしきれぬ危険な呪物を封印している』だの、様々な憶測をしていると小耳に挟んだ事が有る。
まぁ色々な意味で『お宝』が有る事は間違いないが……。
兎角、子供達だけで無く大人相手でもその部屋を見られれば、ポン吉の世間体は木っ端微塵に破壊されるだろう。
ポン吉の両親にだってプライバシーも有れば、通帳等の手を出されては不味い物も有る、だがそう言った物は皆この母屋では無く寺務所に仕舞われている。
そして前世の俺では気が付かなかったが、よく氣を凝らして感じてみれば、そこら中から微かな妖気が感じられた。
この家の中に有る、家財道具の大半は百年を優に超える古い物……つまりは付喪神が至る所でこの家に来る者達を見張……見守って居るのだろう。
「あらあらまぁまぁ、今日も沢山来たわねぇ。皆お腹空いてるんでしょう? でもお家に夕飯が有る子は食べ過ぎちゃぁ駄目よ、此処でしか食べれない子はたぁんと食べて行くのよ。あ! 後、今日はもう一寸静かにね、寝てる子が居るから……」
つまりこの家を取り仕切る小母さんも、そしてポン吉の父で有る住職も、妖怪の存在を知り、受け入れている人達なのは想像に難く無い。
どれだけの期間此方に居られるかは分からないが、取り敢えずポン吉とその両親には色々と世話を掛ける事に成りそうだ。
と、そんな事を考えていると、不意に腹の虫が鳴き声を上げた。
……取り敢えず着替えて腹拵えをしてから、何をするべきかを考える事にするのだった。
仕事が終わったら猫喫茶で合流する、と言うポン吉からの伝言を小母さんから聞き一人で店へとやって来た。
「いらっしゃいませー……って、坊や一人かい? 親御さんと一緒じゃないのかな?」
記憶に有るのと変わらない看板も出ていないガラスの扉を開くと、見覚えの有る若い男の店員が、態々膝を折り目線を合わせてからそんな言葉を掛けてくる。
「あ、その子はポン……狢小路先生の所で預かってる子だよ。話は聞いてるから入れてあげて」
と俺が何かを応えるよりも早く、カマーベスト姿でコーヒーカップを磨きながら芝右衛門がそう言った。
アルバイトの青年……確か山……下……だったか? 今ひとつはっきりとは覚えていないが、その彼は芝右衛門の言葉に、片眉を上げて驚きを露わにする。
無理もないだろう、この店が有るのと同じフロアには子供が決して目にしては行けない類の品を作っている会社が有るのだ。
流石に表に堂々と致命的な部分は露出して居ないが、それでも良識の有る大人ならば眉を潜める程度には、肌色の割合が高いポスターなんかを掲示している。
そんな所を通るのだから、女性客単独は勿論、子供連れでこの店へとやって来る事はそう多く無い。
ましてや俺の様な幼い子供が一人で来る事は想定していなかったのだろう。
とは言え、俺達が子供の頃にはまだその会社は入って居らず、週末や長期休暇の昼飯を此処で食べる事は決して少なく無かった。
まぁ彼は今の環境に成ってから此処で働き出した筈だし、そんな昔の事を知らないのは当然だろう。
と、店内を見回すと、記憶に有るのとは多少内装が変わっている物の、間取りは大きく変わっては居ないらしい。
そんな中で俺は迷う事無く小松の元を目指す。
おミヤに言われた帰る為の方法、旅慣れた猫又に心当たりが無いかを聞くためだ。
だが店内には俺や芝右衛門、そしてアルバイトの彼以外にも何人もの客が寛いで居た。
その大半は男性客で、部活帰りらしい学ランの――恐らくは体育会系の仲間なのだろう、皆一様に良いガタイをしている――男達が蕩ける様な顔で猫達を眺め、ソフトドリンクを啜っている姿は何処か滑稽だったが……
「あれ? マスターさん、あの子が抱いてるラパーマ新顔? 天パのあの子とお揃いで可愛いねー」
と、その中に目端が効く者が居た様で、他に聞こえぬ様小声で会話する為、小松を膝に乗せたのを見て、そんな事を言い出した。
ラパーマと言うのはその名の通り、天然パーマが特徴的な猫だそうだが、当然小松も俺も天然パーマと言う訳では無い。
至近距離で爆風を受けた結果、ものの見事に俺は髪が、小松は全身の毛が、縮れに縮れまるでパーマを掛けたかの様な状態に成っていたのだった。




