一 警部生まれ変わり、新たな名を賜る事
生まれ変わってから半年が経ちました……たぶん。
どうも、赤ん坊の脳みそでは大人の意識を維持できないらしく、今までで体感時間は数分程度に過ぎない。
それでも、半年たったと判断したのは、目が見えるようになり、自分の意志で首が動くようになったからだ、……首が据わりある程度眼が見えるようになるのは生後半年程度、たしか前世でそんなことを聞いた気がする。
せっかくファンタジー世界に転生できたんだし、こうして周りを見回す事ができるようになったので、少しでも情報が欲しいところだ。
俺は畳の上に敷かれた、柔らかな布団の上でそんなことを考えていた。
ん? ちょっと待て、畳ってなんだ! 剣と魔法のファンタジーな世界に転生したんじゃないのか!?
慌てて室内を見渡すと、そこは畳の他にも障子に欄間、床の間に掛け軸と明らかな和室だった。
おいおい、どういうことだよ? あれか、転生の処理でミスしたとかそういうことか?
いや待てよ、ファンタジーの世界にもサムライやニンジャが存在することも有る、たまたまそういう家に生まれただけで、遥か東洋の神秘を受け継ぐオリエンタルな家系、そんな可能性だってあるじゃないか。
そう言い聞かせてみるが、嫌な予感しかしない。
トタトタトタトタ……
そんなことを考えガクブルしていると……ん? 誰かの足音が近づいてくる。
「かーさまー、しーちゃんおっきしてるー」
サッと障子が開いたかと思うと、幼い子どもの声がした。
ああ、日本語だわこれ……。
どうやら、ガチでファンタジー世界ではないらしい。
そんな感じで、途切れ途切れながら情報を集めていった。
その結果、俺が生まれたここは『オエドのマチ』というらしい事がわかった、まぁ素直に考えれば『お江戸の街』だろう。
『天下泰平』や『参勤』なんて話をしてる事もあったので、戦国時代の江戸ではなく、江戸幕府制定後の江戸時代だと思っていた。
だが、ここは俺の知っている江戸時代ではないこともわかってしまった。
俺の世話は基本的に四十絡みの母親と思しき女性がしているのだが、手が離せない時や他に用事があると言う時には、『おタマちゃん』と呼ばれる少女--おそらくは15、6だろう--が面倒を見てくれる。
その彼女こそ、俺が本当に異世界転生を果たした証拠のようなものだった。
彼女の頭にはネコミミが生えていたのである。
猫耳カチューシャなんてチャチなものではなく、周囲の音に反応してピクピクと動きまわるそれは、明らかに血の通った体の一部だった。
少なくともファンタジー要素ゼロではない事に、ある意味一寸安堵する。
その安堵が功を奏したのか、徐々に本当に少しずつではあるが、意識を保てる時間が増えていったのは有りがたかった。
そのおかげもあって今生の自分がどのような立場の生まれなのか、おぼろげながら理解出来てきた。
それらをまとめると以下のようになる。
自分は大名の第七子四男で正妻の子。
父親は年末生まれの俺の出産には立ち会ったものの、すぐに参勤交代で国元に帰った。
母、兄弟姉妹、江戸家老夫妻、ネコミミ女中3人、おそらくは家臣の武士と思われるのが20人余り、そして立ち位置がよくわからないネコミミ老婆が1人、それらが1つの屋敷に暮らしている。
前世の知識では、大名の家族は屋敷の中でも奥向きという場所に隔離され生活するもの、と覚えていたが、この家では違うようで、食事時になれば家族も家臣も関係なく、広間に集まり皆で膳を並べ食事をとり、皆で順に風呂を使っていた。
……さすがに寝床は、それぞれ別の部屋のようだったが。
大名の息子って事は、内政チートできるか? だが、四男だしあまりやり過ぎると、お家騒動の原因になったりするかも知れない。
むむむ……と、そんなことを考えているうちに、いつの間にやら体ははいはいを覚えたらしく、気がついたら屋敷の中を四つん這いで走り回っていた。
小さな暴走族と化していた俺は、さらなる情報を欲し屋敷の中を縦横無尽に走り回った……が、予想以上に広いその屋敷を制覇することは容易ではなく、いつもいつも志半ばで力尽き、母親に回収されるということを繰り返す。
それでも繰り返すうちに徐々に移動できる範囲は広がっているのだから、毎日の暴走行為は無駄ではない、と思いたい。
だが成長し体力がつくことで俺の意識が保てる時間が伸びていくと、不安なことが2つ有った。
転生を扱ったネット小説でよく問題となる、排泄と授乳についてだ。
今までは俺の意識がない内に、いつの間にやら済んでいたが、意識の有る時間が伸びて行けばそのうち避けられない物になるだろう。
残念ながら、俺にはそういう行為に喜びを見出すような特殊性癖はない。
何とか早く乳離を済ませ自力で厠に行けるようにしなければならない。
そう決意を固め、まずはハイハイから掴まり立ちを目指して、さらなる暴走行為を重ねることにした。
しかし、それは杞憂に過ぎなかった。
「はい、しーちゃん。あーん」
「あー」
いつの間にやら俺の食事は母乳から離乳食へとシフトしていたようで、授乳の頻度はかなり減っており授乳プレイは避けられた。
ちなみに今食べているのはクタクタになるまで煮こまれたほうれん草のような葉野菜だが、赤ん坊の味覚は思ってたより鋭敏なのか、葉野菜特有の青臭さの向こう側に透けて見える甘みや、煮るのに使われた出汁の風味がしっかりと感じられ中々に美味い。
「あむ、あむ、あむ、けぷっ」
他にも重湯やら南瓜を裏ごししたものやら、結構な量と質の食事が毎食用意されておりそれを全部平らげる。
「しーちゃん、もうお腹いっぱいかな」
「あい!」
んー、食べるもの食べたら、出すもの出したくなるのものだが、コレについても解決済みだ。
下の兄姉もまだ幼く厠を使うのは危険なため、おまるが用意されていたのを見つけたのだ。
母親が食後の御膳を片付けるのを待って、俺はそのおまるが置かれている部屋へとハイハイして行く。
「あら、しーちゃん。ご不浄なの」
「あい」
さすがに、はじめのうちはただの偶然だと思われていたようだが、何度か繰り返しおまるの側で粗相をすれば、出したくてその部屋に行っているのは理解してもらえたようで、その部屋に行けば、おむつを脱がせておまるに座らせてもらえる。
……粗相をするのは意識が落ちるタイミングを測ってなので、羞恥プレイは避けられている。
「本当にしーちゃんはお利口さんねぇ」
普通のこどもなら、一歳にもならない内からトイレトレーニングなんてことは出来ないと思うが、コレに関してはしょうが無いと割りきっておこう。羞恥プレイは耐えられない。
「だー、だー!」
……出すもの出してスッキリした後、拭いてもらうのは許容範囲と思いたい。
そんなこんながあって再び時は経ち、掴まり立ちを経てよちよち歩きへと進歩を遂げていた。
意識が有るのまだ一日に一時間程に過ぎないので、情報収集はあまり進んでいないが……。
今日もネコミミ女中さんの監視のもと、よちよちと屋敷を探索していたのだが、不意に母親の声がしたかと思うと後ろから抱き上げられた。
「しーちゃん、今日は父上様が国元から戻られますからね、一緒にお迎えしましょうね」
「うきゃぁ!」
うわぁ! と声を揚げたつもりなのだが、まだまだ舌っ足らずだ……。
母親に抱かれ探索済みエリアの外--お出迎えということは玄関側なのだろう--へと連れて行かれる。
移動中、何度か渡り廊下を抜けたのだが、或る一点を境に明らかに装飾や調度品の格が上がったのが理解できた。
時折見える庭も、奥の方では畑すらあったが玄関付近では見事な庭園になっている。
玄関から門の間は庭園ではなく厩があり、その他にも槍や鎧が無数に立てかけられた、倉庫のような建物も見える。
……そういえば、生まれ変わって初めて外に出たなぁ。
そうして周りをキョロキョロと見回している内に、屋敷に住む全員が前庭に勢揃いし、家臣たちは膝を突き家族はその後ろに立って来るべき時を待つ。
「「「あけーろー、 あけーろー」」」
そのうちに、そんな声が遠くから聞こえてきた。
ザッザッザッザッ。
徐々に近づいてくる一糸乱れぬ掛け声と足音から、如何に訓練された部隊なのか窺い知れる。
これは、当たりを引いたかもしれない。
「かいもーん! 開門!」
門の前に行列の先頭が付いたのだろう。門の外からそう叫び声が聞こえ、それに合わせて閂が外される。
音もなくゆっくりと門が開きその向こうには30人位の団体が居た。
お? 思ったよりも少ないな……。
「さ、しーちゃん。父上様をお出迎えしてあげましょうね」
母親はそう言うと、俺と兄弟を連れ門の側まで進み出る。そして俺は、そのまま門を入ってきた駕籠の前に降ろされた。
「おお、志七郎もう立つようになったのか!」
駕籠の引き戸が開き、そこから顔を出した四十絡みの男は相好を崩し快哉を上げた。
……俺の名前は、しーちゃんではなく志七郎というらしい。