二百八十八 志七郎、異世界に立つ事
お久しぶりです、今夜より「志七郎、少年期編」の開幕でございます、大変お待たせ致しました。
今夜より登場する新キャラクター達については『黒衣退魔行 / 猫ま! 喫茶へようこそ!』を事前にご覧頂く事で、彼らやそれを取り巻く環境が如何なる物か、多少なりともご理解頂けるかと思います。
ご面倒かとは存じますが、ご一読頂ければより深く本編を楽しんで頂けるのでは無いかと考えております。
今後共お楽しみ頂ければ幸いです。
虎の手足に狸の胴、猿の頭と蛇の尾を持つ妖獣、鵺と呼ばれるそれは並の鬼斬者では束で掛かっても返り討ちと成り兼ねない、大妖怪と称するに相応しい存在で有る。
一郎翁の武勇伝にもその名が出て来る位の化け物だと言えば、その危険度は伝わるだろうか?
そんな凶悪な化物が居る以上、此処は俺が望み落ちる事を願った世界では無いと言う事だ。
なにせ俺が生きていた世界には妖怪なんてモノは存在しなかったのだから。
そう思いよくよく見てみれば、街頭の明りすら届かぬ路地の奥だと言うのに、闇が視界を遮る事すら無く、すぐそこに垂直に立ち塞がる筈の壁も半ば透き通り、その向こう側には灯火とも星の瞬きとも似つかぬ奇妙な明りが無数に見える。
こんな不可思議な風景が前世に俺が生きていた世界の筈が無い。
世界の狭間で垣間見ただけでも、数えるのも馬鹿らしく成る程の数異世界が存在するのを目の当たりにしたのだ、良く似ていながら何処か違う、そんな世界が有った所で今更驚く程の事では無いだろう。
それに同じ世界の中でだって『同じ顔をした人間が三人は居る』と言われているのだ、世界の壁を超えて数えれば、幾らでも居るのは当然だ。
となれば、鵺を相手取っている旧友と見間違えた僧侶らしき男も、よく似た別人に違いない。
一人納得しつつ戦いの様子を見れば、話に聞いた鵺とは違い雷撃を放つ事も無ければ、その身を黒雲へと変じて攻撃を躱す様な素振りも無く、ただただ牙と爪と尾を振り回すだけの肉弾戦を繰り広げていた。
アレならば今の俺でも不覚を取る様な事は無いなさそうだ、恐らくはこの世界特有の鵺に似た別の化物と言った所なのだろう。
実際、袈裟を身に纏ったあの男は、俺の知る武士達とは比べるまでも無い程度の、拙い氣の運用ながらも化物の攻め手を見切り、躱しざまに手にした錫杖で――いや仕込み錫杖で斬り付ける。
少々攻撃力が足りないのかそれとも安全策を取っている為か、鵺モドキに与えられる傷は然程大きくは無いが、的確に手傷を負わせ徐々にでは有るが、確実に追い詰めている様に見えた。
と、その動きを見ていて気が付いたのだが、鵺モドキは右の前脚を何らかの理由で失っている様で、一度後ろ足で立ち上がらなければ爪を繰り出す事が出来ず、それが動きを単調にしている原因の様だ。
あの様子ならばもう暫し待てばケリが付くだろう。
よく知る相手では無いとは言え、服装から察するに僧侶で有る事には違いない。
誰一人として知った相手の居ないこの世界で、徳を売りとする僧侶は頼るに値する人物で有る可能性は比較的高い筈だ。
とそんな判断を下し取り敢えず待ちの体制に入った、その時だった。
残った左の前脚に刃が食い込み、ほんの一瞬では有るがそっくりさんの動きが止まり、その隙を突いて蛇の尾が彼の足に噛み付いたのだ。
途端に動きを止め蹲るそっくりさん、その様子はただ傷が痛むというだけでは無い、恐らくあの蛇の尾は強い毒を有しているのだろう。
左前脚も半ばまで切られ、後ろ足で立ったままの鵺モドキの前に無防備な頭が晒される。
その牙が振り下ろされるよりも早く、俺は地を蹴り駆け出した。
戦場では乞われぬ限り他者の手助けをするべきでは無い、と初陣から散々言われてきたが、目の前で旧友と見紛う様な男が命を散らすのを傍観するのは気が咎めたのだ。
「御坊、助太刀致す!」
一言そう声を掛けるが、ただ苦しげな唸り声を上げただけで返事は無い。
兎角、速攻で仕留めて解毒をしなければ不味そうだ。
抜きざまに牙の一撃を弾き、手応えの軽さに逆の意味で驚きを感じるが、それはそれで好都合、思った以上に手こずる事は無いだろう。
より強く全身に纏う氣を高め、それを刃に流し込み、それを鵺モドキへと叩き付ける。
手負いの獣は手強いと言うのが相場だが、両前足を失い不器用な両足立ちを強いられているこの状態では、流石に獣特有の俊敏さを活かす事すら出来ず、脳天から唐竹割りに切り裂いた。
「ほわぁ……!?」
あまりにも簡単な決着に思わず間抜けな声が漏れる。
大の大人がちまちまと削る事しか出来ない様な相手が、真逆一撃で真っ二つに成るとは思わず、更に思わぬ事体が目の前に展開していたのだ。
左右に倒れ伏す筈の鵺モドキの身体が、まるで砂の像を突き崩すかの如く、崩れ塵芥と成り風に吹かれた訳でも無いのにその場に積もる事すら無く、その存在その物が無かったかの様に消えて行った。
普段とはあまりにも違うその状況に戸惑いは有ったが思い悩む暇は無い。
そっくりさんが最早身体を支えるも出来ない様で、音を立てて倒れ伏したのだ。
助け起こすと既に毒が回っているのか、完全に血の気が失せた顔で呼吸も不規則で、布地を通してすら身体が冷えている事が分かる、そんな予断を許さない状態なのは一目瞭然で有った。
「毒なら……」
腰から下げた『自動印籠』から最高級霊薬の一つ『急命丸』を取り出し、竹水筒の水で呑み込ませる。
あらゆる傷や病を癒し、死んでさえ居なければ何とかなる、そんな虎の子とも言える一粒で、印籠の中にある霊薬で唯一虎殿で無ければ作る事の出来ない逸品だ。
完全に意識を失った訳では無かった様で、咽る事も無くそれを飲み込んだ彼の身体は急速に体温を取り戻していく。
見る間に顔色が戻っていくその様は、流石はそれ以上の霊薬は神々が作る『神薬』しか無いと言われるだけは有る。
「……危うく川の向こうへと行く所だった。何処の何方かは知らぬが、誠に有難う」
然程時間を置く事も無く自由を取り戻したらしい彼は、ゆっくりと身体を起こしながらそう口にした。
だがその表情は決して明るい物では無い。
「ただ……この薬は尋常の物では無いでしょう。その身に纏う鎧も、手にした刀も……この世の物とは思えぬ妖気を孕んでいる……。恐らくはその幼い容姿も誠の姿では無い……貴殿どこぞの仙人か何かですかな?」
探る様な目付きで此方の顔色を伺うその顔は、信楽焼の狸に悪意を注入したそんな物で有り、それは俺が知る男が悪知恵を巡らせている時の物にあまりにも似すぎていた。
しかもそれは俺が死ぬよりも以前、つまり六年は前の姿と全く変わる事の無い物で、重なり合う二つの姿は絶句させるには十分過ぎる。
「……ああ、他者にその素性を尋ねるのに、己の名を名乗らぬは失礼ですな。拙僧は狢小路本吉、今楠寺の僧侶です」
俺の沈黙をどう解釈したのか、慌てて自己紹介の言葉を発するが、その口から出た固有名詞もまた、俺の記憶にある物と全く同じ物だった。
「え? ……あ? ほ、本当にポン吉……? え? 嘘……だろ?」
偶然で片付けるにはあまりにも、符合する事柄が多すぎる。
一つ二つならば、それこそ偶然で片付ける事も出来るだろう、だが三つも四つも重なればそれは最早必然で有り……それ以上ならば言わずもがな……だ。
「何故、拙僧の子供の頃の渾名を? 尋常成らざる世界に関わる者でその名を知る者は殆ど居らぬ筈だが……」
俺が漏らした呟きを聞き咎め更に疑念を深めた様で、彼は敵わぬまでも可能な限り抵抗するぞ、と言わんばかりに身構える。
その立ち姿は、間違いなく同門の……前世の曽祖父を師と仰ぐ者の姿で有り、それを見せられては、最早間違い無いのだろう。
「……俺は……猪、いや……隠神剣十郎。お前の幼馴染だよ……」
少々の逡巡の後、腹を決めてそう言い放つ。
「ほわぁ……!?」
何を言っているのか解らない、そんな感情がはっきりと篭った、そんな間抜けな声を上げる彼の顔は信楽焼の狸その物としか言い様の無い物だった。
GW中は通常通り隔日投稿を……と思っていたのですが、早速月曜日は所用のため執筆時間が取れず、次回更新は火曜深夜予定と成ります。
ご容赦とご理解の程宜しくお願い申し上げます。




