二百八十七『無題』
「此の度は……我が娘の為に御子息を如何とも分からぬ場所へ追い遣り……誠に申し訳無い」
そう言いながら畳に額づく義兄殿のその姿は、公家の中でも上から数えた方が早い地位に有る者とは思えぬ程に妙に板に付いた物に見えた。
「いやいや宇沙美嬢を拐かされた事事体が我が家の失態、彼女達を無事取り戻す事が出来た事こそを喜ぶべきでしょう」
今回の一件、正直な所これ以上無い決着を迎えたと言えるだろう。
下手を打てば四度目の妖怪大戦が起こりかねない状況だったのだ、それが一人の死者も無く終わったのだから。
「……お花様の言に拠れば、志七郎が命を落とせば霊犬との繋がりが切れ、それは私達が見ても直ぐに解る事とのお話です。今の所その兆候は無いのですから……そう平べったく成らず面を上げて下さいまし」
可愛がっている末の子を奪われ、冷静では居られぬと思ったお清も、志七郎が無事で有る事を知る術を聞き表面的には落ち着いた様子を見せている。
「それにしても、宇沙美嬢の異能がこれ程に危険な可能性を秘めた物とは……。此の度の一件が他の鬼や妖かしに知られれば、彼女を狙う手合は尽きる事は無かろうて」
彼女の異能、それは帝に連なる一族の血を引く証とも言える高貴の物で有った。
遥か昔、世界樹の神々がこの世界へと降り立つよりも更に昔、この火元国の神々全ての母神が持っていたと言われる幾つかの超常の力の内の一つ、『異袋』と呼ばれる物だ。
食った物をほぼ無制限に溜め込み、それを必要な『力』に変換し必要な時に必要な形で発するのだと言う。
彼の母神はこの火元国を数多の魍魎悪鬼との戦いを単身で繰り広げ、その中で幾度と無く死に至る様な傷を負う事に成ったのだと伝えられている。
その度に彼女は異袋に溜め込んだ食物を命に変換し、瞬く間に傷を癒やし人を幼き神々を守り抜いたのだそうだ。
世界樹の神々が火元国と地獄を分けた後には、かの母神は役目を終えたと言わんばかりに、全ての食物を口にするのを辞め、自ら静かにその生涯に幕を下ろしたのだと言われている。
その母神と同じ異袋を持つ宇沙美嬢は今回の様な界破りは勿論、その他ありとあらゆる邪術の生贄として最上級の存在と言えるのだ。
幸いな事に信三郎が食わせた分は今回の一件で消費しきった様だが、食わせる量や質によっては再び膨大な力を溜め込む事に成るだろう。
とは言え、これから成長期を迎える事を考えれば、食わせないと言う選択肢を取る事も難しい。
下手に制限を掛けては、成長に支障を来す事に成るだろうし、食べた分の何割かを常に溜め込むと言った形だとすれば、徒労に終わる事に成る。
と成れば、取るべき方策は逆だろう。
「自衛の力を付けさせるのは急務ですな。如何に手練の護衛を付けようとも万が一はあり得る。最後の最後に頼りに成るのは己の力ですからな。その為にも暫くは一郎をお連れ下され、護衛としても武芸の師としても奴以上の者は居りますまい」
「度重なる心遣い誠に有難く……」
問題は信三郎が歳の差を超えて尻に敷かれ、家臣達に侮られ兼ねない事だが、婿入りで有る以上は多かれ少なかれ有る事だし、今更だろう。
「兎角、今は義二郎と礼子、そして清一の結納を無事済ませる事が優先ですね。志七郎が死して居らぬ以上、忌み事とする方が不義理に成るでしょうし……」
意識を切り替える様に、ため息一つ付いてからお清がそう話題の転換を図る。
身内に死者が出た成らば、喪に服し一年は慶事を執り行わないのが普通で有るが、死してない以上粛々と進めなければ成らないのだ。
それに万が一命を落としたとしても、それが七歳以下の子供ならば、ただ神の下へと帰ったと言うだけで、喪に服すのは最初の七日間だけ……と定められている。
つまりは何方にせよ如月初旬に予定されている結納と、その末に急ぎ執り行う義二郎と瞳嬢の祝言は延期する理由が無い。
むしろ延期してしまえば、新たな腕を作る為に海を渡る事が出来なく成ってしまう。
大事な家族の内一人を欠いた状態で、家族の大事な儀式を執り行う事には多少の抵抗感は有るが、こうなってしまえば是非も無い。
義二郎の嫁と成るあの娘子は志七郎達が拾ってきた縁だと聞いている、その後も彼女等と志七郎は色々と世話をし世話に成り、と下手な家臣達よりも縁深いと言える関係を築いてきたそうな。
義二郎も生来の面倒見の良さも手伝って、志七郎を兄弟たちの中でも特に可愛がっていた。
そんな二人の晴れの日に立ち会う事が出来ぬと言うのは志七郎にとっても痛恨の事であろう。
「志七郎ならば己が居らぬ事で差し障りが出る事等望むまいて……過去世の生業故かそれとも生来の気質か、人に頼ったり迷惑を掛ける事を殊の外嫌うからの」
だがそれでも取り辞めや延期をする訳には行かない以上、可能な限り多くの者の心に残る儀式とし、帰還した志七郎に皆が思い出を語る事が出来る様にするべきだ。
それがきっと一番良い手立てに違いない、そう己に言い聞かせる積もりで発した言葉だったが、お清が首肯し同意するのを見て自身の考えが誤りでは無いと知るのだった。
その日は珍しく雪が積もっていた。
雪が降る事自体は、この時期で有れば決して珍しい話ではないが、庭に屋根に見渡す限り白銀のこの風景は早々見られる物では無い。
本来で有れば結納式は嫁入り、婿入り先の家屋敷で執り行うのだが、此の度に限っては先日の一件を無事解決した褒美と言う意味も有り、城の一角を借り受ける事が許され、上様までもが臨席頂ける事と相成った。
三人の新婦達が皆、事体の収拾に尽力した者だと言う事も有り、予定していた以上に参列希望の問い合わせが殺到したからだ。
しかしだからと言って、それら全てを我が家で受け入れる事は出来ないし、猪山と浅雀両方を同日に執り行う都合上、両方に出席する事は不可能な筈だった。
それらを解決する方法として父上が上様からもぎ取って来たのがこの褒美だったのだ。
上様が将軍と成られてから、我が猪山は数々の手柄功績を上げ続けており、余りにも多すぎるソレは父上が上様の義兄弟で有るが故の贔屓、と多くの家から妬みを買っている事も事実。
故に近年は大き過ぎる手柄は隠したり、譲ったりしてきた。
だが件の一件に付いては、武家に対して大々的な協力を募った関係上、猪山に縁の有る娘達の功績を隠す事は出来ず、幕府としても大きな褒美を出さない訳には行かなかったが、これならば実益は少ないが名誉は十分と言える。
恐らくは江戸に住まう武家の当主、その大半が集まっている中、三者三様の晴着に身を包んだ娘達と長裃を纏った愚息達の結納が取り交わされた。
恙無く儀式は終わり、場が宴へと移り変わり普段は政敵とさえ言える藩からすら祝福の言葉が掛けられている。
中には豹堂からその座を奪ったと目される鷲頭の当主や、義二郎に叩きのめされ礼子との縁談が流れた家の者も居た。
きっと家安公がその細君と縁付いた時ですらこれ程までに多くの者から祝される事は無かった筈だ。
これ以上なく喜ばしい筈の宴で有ったが、主役である三組六人の男女は表情こそ笑顔を取り繕って居るものの、親しい者が見ればその瞳に一筋の憂いが混ざっている事が見て取れる。
それが如何なる故に依るものか、事の顛末を知る者で有れば誰もが簡単に想像出来た、そしてそれを知る者は皆彼らと同じ思いを胸に抱くが故に、誰一人としてそれを指摘する者は居ない。
宴も酣となった頃、一匹の子猫が何処からか紛れ込んでいた。
そしてその猫はゆっくりと六人の主役を見渡し、一声
おめでとう
確かに志七郎の声でそう鳴いた。
以上を持ちまして第一部 幼年期編の完結にございます。
明日より暫しのお休みを挟みまして、その後暫しの間は、
志七郎が向かった前世の日本で出会う二人の友人達の物語
『○○喫茶へようこそ』と『黒衣退魔行』を新連載予定でございます。
新たなる物語にお付き合い頂き、お楽しみ頂ければ幸いです。




