二百八十六 志七郎、覚悟を決め降り立つ事
「「開け、開け、開け七界の門。響け、響け、響け三千世界の彼方まで!」」
陰陽術で女性化した安倍様と信三郎兄上が詠唱の声を響かせる。
それは陰陽術では無く、古い古い陰術と陽術が神々の手で分化されるよりも遥か昔に失われた呪で、それを扱う事が出来るのは古の呪術師の血を引く者だけなのだと、睦姉上の身体を通しておミヤが教えてくれた。
歌い骸骨が行使した、六人の子供を生贄に捧げ世界の壁を破壊する『悪邪滅界』と言う術は、儀式の最中で生贄一人でも切り離されれば発動する事すら出来ないのが普通らしい。
だが宇沙美姫はたった一人で、普通の子供六人分の魂魄全てより大きなエネルギーを持っていたが故に誰一人命を落とす事無く、呪術が成立してしまったのだ。
しかも施主で有る歌い骸骨ですら制御する事が困難な程の圧倒的なエネルギー量で有ったが故に、安倍様以下この場に居る術者の力を結集しても尚打ち消す事は不可能な物と成っていた。
おミヤは俺を贄にする事で事体の終結を図ると言ったが、それは俺の命を捧げて術を打ち消すと言う事では無く、破界と言う結果そのものは変えず『行き先を書き換えその先に一人を送る』と言う風に変化させると言う意味で、送られる一人が俺なのだそうだ。
幾つか有る条件を全て満たし生きて帰って来る可能性が有る者は、火元中を……江戸中を探せば俺以外にも居るだろうがそれを探している時間は無く、俺自身も危険を他人に押し付ける積りは無い。
なにせ人間が生きたまま界渡りを成すには、偶然の奇跡を待つか、そうでなければ七歳以下の子供で無ければ成らないと言うのだから。
「良いですか志七郎様、今回開く穴には行き先が定められて居りません。落ちていく中で自身が望むべき場所を強く思い描いて下さいまし。その意志が強固で有れば有る程に向かうべき場所の近くへと落ちる事が出来ましょう」
瞳義姉上の打掛一枚を羽織った睦姉上は、未だ本人の意識では無くおミヤに身体を貸したままの様で、その頭に生えた猫耳と縦長の瞳孔が普段とは違う状態で有る事を示している。
その言葉に拠れば、世界の壁を超えると言う術の性質上同じ世界の別の場所へと行く事は不可能だが、今回程の呪力が込められた陣であれば例えどんなに遠い世界へでも行く事が出来るのだそうだ。
そしてその行き先を決めるのは被術者で有る俺自身で、そのイメージが明確な程行きたい場所へと行ける可能性が高まるのだと言う。
俺がイメージし行くべき場所はたった一つで、其処へと行くならば刀も銃も鎧すらも置いていく方が良いだろう。
だが異世界と言う物はそれこそ星の数程存在し、必ずしも俺が望んだ場所へと行ける保障は無い、比較的近い隣接世界や、同じ世界でも全然別の場所へと降り立つ可能性も有るらしい。
万が一着いた場所が治安の欠片も無い様な場所だったりすれば、非武装では長く生きる事すら出来ないかも知れない。
またそれ以外にも問題が無い訳では無い、帰還の為には何らかの方法で再び界渡りをする必要が有るのだが、それが出来るのは俺が七歳の間だけなのだ。
世界によっては時間の流れが違ったり、概念すら無い場所もあり得るそうで、そういう場所に行けば、戻ってきた時にはこの世界の時間が大きく流れていたり、逆にほんの数日滞在しただけで七歳を過ぎてしまう可能性も有るらしい。
「向こうへ行ったならば、先ずは猫を探しなされ。それが只猫で有っても必ず猫又達に伝わります。全ての猫は世界に縛られず自由に行き来する存在です故、必ず儂等の元に情報は届きます。儂らに縁の有る猫又ならば遠話すら出来るやも知れませぬ」
猫は何処にでも出入りし何処にでも居る、と言う彼女の言葉が真実ならば、俺が思い描いて居る場所でもそれらと出会う事は出来る筈だ。
「……志ちゃん、必ず必ず生きて戻りなさい。これで今生の別れ……等と言う事に成らぬ様に」
恐らくは泣きたいのだろうが、それでも気丈に歯を食いしばり、礼子姉上がそう言った。
「お前さんなら何処へ行っても生きて帰れるさね。猪山の益荒男なら簡単な事だろう?」
さばさばとした何の心配もしていないと言いたげな瞳義姉上の物言いだったが、その顔には心配と後悔の色が見て取れる。
「ししちろー……ニャーの所為で……ごめんなのにゃ……」
未だ猫耳は出たままだが、涙ながらにそう言う睦姉上の瞳は普段通りの円な物に戻っている。
「……必ず戻ります、父上や母上……兄上達に宜しく伝えて下さい」
他に掛けるべき言葉は幾つも有った筈だが、それ以上言葉を重ねれば、それがフラグと成り帰るのがより困難な物に成る気がしたのだ。
「志七郎、準備は整ったでおじゃる。後はお前次第でおじゃ」
信三郎兄上に促され、俺は覚悟を決めて陣へと踏み出した。
「我が娘の為に……済まぬ」
安倍様の短い謝罪の言葉に見送られて……。
落ちる、墜ちる……何処までも……。
何方が上で何方が下かも解らぬ闇の中、ただ只管に引力に従って落ちていく。
時折輝く様に見える『何か』、その一つ一つが異なる世界その物なのだろう。
その近くを通り過ぎる度に垣間見えるその世界の風景はまさに千差万別。
巨大な鋼の巨人達が大地を揺るがし戦う世界、無限に広がる荒野で人々が水と獲物を求めて彷徨う世界、水の中で光り輝く城で人魚達が宴を続ける世界……。
どれ程の世界を覗き込んだのか、数えるのも馬鹿らしく成る程に無数の世界を通り過ぎ、それでもまだ俺が望む世界は見えてこない。
何時までも落ち続けるこの状況に飽き、手近な世界へと降りてしまう事も考えたが、中には炎と溶岩に塗れ踏み込んだ瞬間に焼き尽くされそうな世界、なんて物も有り下手な場所へ降りてしまうのは危険な賭けとしか思えず考え直す。
そしてとうとう見覚えの有る、だが何処か違和感を感じるそんな世界の数々が固まって存在している空間へと至り、目的の世界が近い事を犇々と感じられた。
と、不意に落ちていく速度が増した気がする、きっとそれは俺の思い描く世界に近づいたが故だろう。
事実光が視界を埋め尽くし……意識までもが白く白く……
鼻を突く排ガスの臭い、夜なお明るいネオンの輝き、自動車のエンジン音に、遠くから聞こえる踏切の音。
一瞬の間を挟んで俺はそれらの中へと放り出されていた。
俺が降り立ったのは、繁華街の真っ只中……の路地で有り、即座に人の目に付く場所では無かったが、それでも鎧兜を纏った子供なんかが居れば警察が直ぐにでも飛んで来る事は想像に難くないそんな状況で有る。
慌てて路地の奥へと身を進めつつ、電柱に貼られた広告に書かれた住所を確認し安堵した。
其処には俺が生まれ育ち、死ぬまでを生きた都市の名が書かれて居たからだ。
後は誰か協力者を見つけ、帰る手段を探せば良い。
幸い此処ならば、俺に起こった超常現象としか言い様の無いこの状況を理解し、協力してくれる者の心当たりは有る。
親父や兄貴、曾祖父さん達家族は、此方の蟠りが解れた事を別としても、お硬い家系で有る事を考えると理解を求めるだけで長い時間を要するだろう。
それにもし信じて貰えたとしても、死んだ筈の俺が戻り再び去れば、お袋は再度子供を失う悲しみを味わう事に成るのだ、顔を出さないのが正解の筈だ。
と……不意に路地の奥から氣の弾ける気配を感じ、慌ててそちらへと走りだす。
ビルとビルの隙間、街灯の光すら差さぬ暗がりの奥、奇妙に歪んだ景色の中で袈裟を纏った男が猿の様な虎の様な奇妙な化物を相手取り、それを打ち据える姿が有った。
「……ポン吉!? 偶然にも程が有るだろうよ……」
有り得ない筈の光景の中で、見覚えの有るその横顔を見定め、俺は思わずそんな声を上げるのだった。




