二百八十五 志七郎、絶望に安堵し希望に覚悟する事
弾けて消えた影の中から転び出たのは、ほんの小さなそれこそ子供か小鬼――恐らく後者――の物と思われる頭蓋骨が一つ。
天地鳴動し辺り一面が罅割れていく中、力無く転がったソレはほんの一瞬の沈黙の後、ふわりと浮き上がる。
「くかぁぁぁっかっかっ! 滾る! 滾るぞぉ! 真逆、まぁさかぁぁぁ! 高々人の子一匹が悪邪滅界を成して尚余りある程の命力を秘めておるとは! 最初からこの娘を狙えば良かったわ!」
何処から声を出しているのか解らないが、地響きにも負けぬ強い語気でそんな言葉を口にする。
その姿に俺は見覚えが有った。
とは言っても実際に戦ったり目にした事が有る訳では無い、書庫の書物――例の如く『江戸州鬼録』に記載が有ったのだ。
『歌い骸骨』と呼ばれるその鬼は、悪に魅入られた術者や術に長けた鬼が恨みを呑んだまま死し、その躯が正しく供養されなかった時、辺りの邪気や妖気を吸い込み、その恨みを晴らす為に動き出した者だと言う。
道具を使う様な手足は持ち合わせていないが、精神力の弱い者をその手足の代わりに操る能力を持ち、過去にはただの猿を操り刀すら作らせたと言う逸話が有る為、妖怪では無く鬼に分類されているのだそうだ。
厄介な事に同じ歌い骸骨でも生前の術者としての腕前に依って、その能力や技量は様々で、必ずしも同じ対処法が通用しない、とても危険な存在だと記されていた。
術者を正しく葬りさえすれば、新たに生まれ出る事の無い存在で有り、幕府が開かれて以来太平の世と言っても過言では無い火元国では殆ど見掛ける事の無くなった鬼で有る。
通常、幽霊の類は氣や術を用いなければ傷付ける事は出来ず、一度現れれば大きな被害と成るのだが、歌い骸骨は唯一残った肉体の名残で有る頭蓋骨さえ破壊すれば、只人でも退治出来るので、大きな話題に成る事も無く、その目撃例の少なさに拍車を掛けていた。
だがそうと判れば話は早い、ただ打ち砕くだけで倒せる相手なのだから、そうすれば良いのだ。
仕損じる事の無い様に、残った氣を十分に練り込み地を蹴り刀を振るう。
狙い誤る事無く、振り抜かれた刀は歌い骸骨を確かに捕らえた……かに見えた。
いや間違いなく捕らえていた、だが打ち砕く事は出来なかったのだ。
真剣白歯……真剣白刃取りの要領で噛み合わされた歯で俺の刀は受け止められ、振り抜いた勢いに乗って飛ばされた歌い骸骨は無事に宙を舞う。
「かっかっかっ! 此れだけの命力を喰らい、冥力滾る今の我がその程度で倒せると思うたか!」
ふらふらと勝ち誇った様に笑いながらそう言う歌い骸骨だったが、俺の攻撃は奴を倒すと言う目的だけで行われた物では無い。
化け猫へと変じた睦姉上や、限界以上の妖力を振り絞る泉姫、二人の尽力を見て姉上達が噴気しない筈が無いのである。
懐剣を手にした礼子姉上は未だ捕らえられたままの宇沙美姫を救う為、拳を堅く握り締めた瞳義姉上はその骨拳を宙を舞う骸骨に叩き込む為、それぞれ最後の氣力を振り絞り跳んで居たのだ。
二人の行動は間違いなく成功した。
歌い骸骨はボーリングのピンを倒す様な音を響かせ地に叩きつけられ、宇沙美姫の身柄は礼子姉上の腕の中……それだけを見れば、大団円に終わった様に思わせた。
「かっかっかっ! もう遅いわ……我が呪は成った! 最早我を倒そうとも呪は止まらぬ! そこな雪女の妖力も永くは持つまい。押し寄せる我らが同胞との終わらぬ戦いに絶望せよ!」
だが、だがしかし全てがほんの一歩及ばなかったのだ。
歌い骸骨は頭蓋に罅こそ入った物の未だ笑いを止めず、呪印は宇沙美姫から切り離されても止まる事無く禍々しい輝きを増して行く。
「「総員突貫せよ! 猪山の姫達だけに手柄を独占させるな!」」
「「「「臨める兵、闘う者、皆、陣を列べて前に在り!」」」」
歌い骸骨の言葉の通り絶望的な状況を覆すであろう、力強い声が俺達の後ろから響き渡った。
それは後詰としてやって来る筈だった各藩各家の姫君達と、それと同行する狩衣を纏った陰陽術師と思われる何人もの女性達の声だった。
術師の先頭には見覚えの有る美丈夫……の面影も濃い老齢の女性で有り、そのすぐ横にはよく日焼けした此方も見覚えの有る、だが見知らぬ女術師がそこに居る。
「志七郎、姉上方、遅れて申し訳おじゃらぬ! 破界の呪は麻呂達で封ずるが故、安心して其奴を討ち取られよ!」
大人の男に入れぬ場所ならば、女になれば良いじゃないか!
そんな事を言ったか言わずか、やって来たのは陰陽術の秘奥義に依って女に姿を変えた陰陽寮の術師達だった。
元が男で有る以上、女になれば未通女なのは当然で、陰陽頭の姫を救う為、世界の壁に穴が開くのを防ぐ為、男の矜持を捨ててやって来たのだそうだ。
また山姥との戦いの間も、歌い骸骨との戦いに入ってからも、後方から追撃を受けなかったのは、比較的戦う事に慣れた姫君達の猛攻が有ったからこその様で有る。
その中には見覚えの有る純白の甲冑も見える辺り、本当に江戸中から此処へと突入出来る人材を掻き集めて来たのだろう。
こうなってしまえば、後の勝負は所詮蛇足に過ぎない。
歌い骸骨は諦めたのか、それとも成すべき事は成したと言う事か、それ以上の抵抗をする事も無く、あっさりと討ち果たされる事と成った。
「「「「……急ぎ急ぎて律令の如く成せ!」」」」
多数の術師が声を揃え、成された破界の呪の解体を試みる。
それを成すのはこの火元国の術者達の総元締めで有る陰陽頭で有る、失敗など有り得ない誰もがそう思い、今回の事件は完全に解決したそう考えて居た。
実際、泉姫の張った氷の下に広がっていた無数の罅割れはそれ以上広がる事は無く、徐々に消えていく。
だがそれも地に描かれた籠目陣の外側だけで、陣から暗い輝きが消える事は無く、むしろほんの僅かずつだが輝きを増して居る様に見える。
「ぬぅ……何たる妖力! このままでは封じ切れぬか!?」
術の行使は魂に負担を強いる。
氣と違い術の使用を中止すれば然程長い時間を要せず回復するとは言え、強力な術を行使する際には、発動するまで魂を擦り減らす様な苦痛に苛まれるのだ。
この手の呪力比べとでも言う様な術の行使では、相手の呪力を上回る事が出来ねば発動する事すら出来ず、その苦痛は徒労に終わる。
呪力を上乗せする手段として多数の術者を参加させた儀式や贄を捧げると言った方法が有るが、少なくとも前者の方法をこれ以上行う事は出来ない、だがだからと言って後者を選択する事は難しいだろう。
「……志七郎様ならば贄と成っても戻って来る事が出来ましょう、我ら猫又が迎えに、それが出来ずとも道標と成って必ず帰還の道を示します」
打開策と言うには少々乱暴過ぎる手立てを口にしたのは、化け猫から人の姿へと戻った一糸纏わぬ姿の睦姉上だった。
いやその言葉を発したのは彼女自身では無く、彼女を端末としておミヤが話しているのだ。
彼女はその長い猫生の中で、同様の事例を幾つも見聞きし、彼女自身も破界を試みた事すら有ったのだと言う。
「死神の加護を受け、異界より生まれ変わった志七郎様で有れば、人の生きれぬ地獄では無く、人の生きる場所へと落ちる事も出来ましょう。人が生きる場所ならば必ず我ら猫が居ります故、何卒お願い申し上げます」
誰を犠牲にしてでも呪を打ち破らねば、多くの者が命を落とす。
それを解って居て横に振る首を俺は持っていなかった。




