二百八十四 志七郎、会心を放ち痛恨を極める事
立ち上がりかけていた山姥の右足へと泉姫と瞳義姉上が続け様に痛打を与えた事で、その自重を支え切れなくなったらしく前のめりに倒れ込んだ。
座っていても山の様なと形容するべきその巨体が倒れたのだ、地面を叩く轟音は勿論、地震の様な地揺れが辺りを襲う。
だがそんな物に足を取られる様な者は俺達の中には居ない。
薙刀を手にした二人はしっかりと腰を落として揺れに耐え、脛を穿った瞳義姉上は倒れる巨体に押し潰されぬ様大きく横に跳んで居り、俺と睦義姉上はその隙を逃さず更なる追撃を行う為に飛び掛かっていたのだ。
この戦いに参加している中で俺は、頭一つ抜けていると言って良い装備を身に纏っており、他の誰かが食らえば大きな怪我に繋がるだろう攻撃を受けたとしても、大した事には成らないだけの防御力が有ると言える。
更には以前智香子姉上が作ってくれた『自動印籠』が有るが故に、即死さえしなければ大打撃を受けても何とでも成る備えが有る。
その為、俺は他の誰かが攻撃の標的と成ったならば何時でも割って入れる様に、攻撃への参加は最小限にしていたのだ。
しかしこうして打ち倒され大きな隙を晒しているこの状況は、最小限のリスクで最大限の効果を得るチャンスに他ならない。
相手が人間ならば兎も角、討取るべき妖怪で有る以上、氣を抑える必要は無く、全身全霊を込めての一撃を打ち込む事が出来る。
本当ならば喉笛掻き切りたい所だが、前のめりに倒れ込こんだ今の姿勢では、残念ながら狙うのは難しい。
故に致命的なダメージを与える急所とは言い難いが、それでも後に繋がる大きな結果を残せる場所を狙い突きを放つ。
硬い、丸で鋼の鎧を突いたかの様な手応えが有るが、切っ先に氣を集中しそれを無理矢理貫く。
と、その向こう側には肉よりも遥かに柔らかな、ゲル状の物体に突っ込む嫌な感触が伝わってきた。
「ぐぎゃぎゃぎゃぁぁぁあああ! 目が! 目がァァァあああ!」
そう、俺が狙ったのは、直径が俺の身長程有る山姥の瞳だった。
厚く硬い瞼の上から突き入れられた下ろしたての新刀――刃牙逸刀は、鍔元まで深々と突き刺さって居り、その切っ先は間違いなく眼球を刳って居た。
同じく飛び掛かって居た睦姉上も、俺とは反対の左目へと両手の小太刀で切りつけていたが、そちらの方は出血から見るに瞼を傷付ける事は出来た物の眼球までは届いて居ない様に見える。
だがそれでもこの戦いの間、その視界を奪うには十分な成果だろう。
両の目から光を奪った以上、後はまぐれ当りにさえ注意すれば大きな危険は無い筈だ。
とは言え俺以外は皆女性だし、その上三人は結納を控えて居る身で、睦姉上はまだ子供、顔に傷を付けては事で有る。
気を抜く事無く、何時でも庇える様に身構えながら、戦いの推移を見守るのだった。
両目を潰されただ無為に暴れるだけの山姥に対し、ヒットアンドアウェイを徹底した結果、俺達は大きな怪我をする事無く山姥を討ち倒した。
「ひっひっひっ……。ま、真逆、この儂が餓鬼や小娘共に遅れを取るたぁねぇ……歳は取りたく無いもんだ……。だが目の前の敵に気を取られ、満足な状況判断が出来ぬ様では、まだまださね」
両足は砕かれ両目はもう開かず、全身血に汚れていない部分を探す方が難しい程の、満身創痍と言う言葉ですら生温いもはや助かる見込みは無い状態にも関わらず、山姥はひきつけでも起こした様な笑い声を上げる。
その言葉が何を意味しているのか、それが解らぬ筈が無い。
「真逆!? お前が施主じゃ無かったのかい!?」
素手で戦うが故に他の誰よりも激しい出入りを強いられていた瞳義姉上は、疲労困憊の様子で肩で息をしながらも、驚愕に彩られた表情でそう叫んだ。
目の前に居る最強最大の敵、それが世界の狭間に穴を開ける為の儀式を執り行う術者だと、そう考え俺達は山姥を倒すと言う選択をした。
「ひゃっはっはっはっ! 儂の様な学の無い、力技しか能の無い妖かしが、そんな七面倒臭い術など使える筈が有るまいて……。じゃが、命じられやるべき事位は判断が付く。さぁ、和主様……餓鬼共を贄に我らが悲願を!」
最期の力を振り絞り山姥はそんな言葉を吐き、とうとう力尽きたらしくそのシワだらけの顔を地面に伏した。
だがそれが俺達にとって勝利を意味する物では無い以上、呆けている訳には行かない。
慌てて視線を囚われている子供達へと向ける。
六つの磔台それぞれを頂点に大地に描かれた真紅の籠目陣、そこにはただただ黒い影が差している様にしか見えない。
しかしそこに居ると思って目を凝せば、はっきりとその姿が見えた訳では無いが、影を纏った何者かが座り一心不乱に呪文を唱えているのが解った。
俺は舌打ち一つし、手早く照準を合わせありったけの弾丸を撃ち尽くす。
氣の乗らない銃弾では、ある程度以上の力を持つ鬼や妖怪には決定打には成らないだろう。
即座に切り込むには俺の立ち位置では遠過ぎるが、ほんの一瞬でも時間を稼ぐことが出来れば、誰かが仕留めてくれるとそう考えたのだ。
銃弾は狙い誤る事無く影を貫いた、けれども山姥との戦いで、瞳義姉上だけで無く皆が皆力を絞り尽くして居た為か、誰もが即座に飛びかかり詠唱を阻止する体力が残っていなかった。
「……怨! 悪邪滅界!」
銃弾を物ともせず、一際強い調子でその言葉が吐き出されたその瞬間。
子供達の身体から純白の光が流れ出し、地面に描かれた籠目陣が血のような深い紅に輝き出し、地面だけで無くその真上の空間までもが罅割れ始める。
間に合わなかった! その光景を見た俺達は皆、揃ってそう思った。
事実、礼子姉上は薙刀を取り落とし、瞳義姉上は力無くへたり込む。
何をすればその状況から逆転する事が出来るのかその判断が付かず、俺もまたただその場に立ち尽くす事しか出来なかった。
しかしそれでも、それでも尚、諦めない者がその場には居た、天地問わず無数に走る罅割れを氷が覆って行く。
「まだ諦めるには早いですわ! 贄を陣から切り離せば、術は止まる筈ですわ!」
雑魚相手に大技を放った事で妖力を使い果たしていた筈の泉姫は、限界以上の力を振り絞っているのか口元から鮮血を垂らし、それを拭いもせずに両手から輝く冷気を放ち、鼓舞の言葉を口にした。
「ふしゃぁぁぁあああ!」
それに応えたのは、誰でも無い睦姉上だ。
威嚇する猫の様な声を上げた彼女は一回りも二回りも大きく膨れ上がり、身に纏う鎧も着物も弾け飛ぶ。
人の身から純白の毛に覆われた猛獣へと姿を変えた睦姉上は、一迅の風と成り吹き抜ける。
吹き出す妖気は彼女自身の物では無い、それがおミヤの力を借りての物で有る事は、彼女達を知る物であれば誰でも判別が付く物だった。
一人、二人、三人……、竜巻の様な風の刃を纏い駆け抜ける彼女は、子供達を傷付ける事は無く次々とその身の縛めを切り裂いて行く。
だがそれも全てを救う事は出来なかった。
五人目の子供が磔台との繋がりを絶ち切られ、後は宇沙美姫を残すだけと成った瞬間、影から幾本もの帯の様な物が伸び、睦姉上が変じた虎ほどの大きさの猫を地面へと括り付けたのだ。
「真逆……宮古御前が、出張るとは……、危ない所で有った……。だがその器が年端も行かぬ小娘ではの……。ぬ!? な……なんだ……力が……奇怪しい!?」
静かながらされど確かな勝利を確信した勝ち誇る様な口調の影だったが、その声は途中から激しい焦りを孕んだ物に変化する。
「が……ァぁぁあああ……、有り得ぬ……有り得ぬ……人が……人の子がこれ程の力を……秘めて……あがががぁぁぁあああ!」
痛みと苦しみの中で絞り出す様な声を上げ、影が……爆ぜた。




