二百八十二 志七郎、状況を知り覚悟を知る事
篝火の明かりに照らされて尚も白く輝く白銀、どんな大判小判よりも豪奢で鮮やかな金色、全ての光を飲み込んだ如何なる闇よりも深い深い黒、色合いこそ尋常な物では無いがその見目は間違い無く三毛猫のそれだった。
だが目を引くのはその毛色だけでは無い、猫と呼ぶには余りにも大きな……それこそ牛や馬をすらも一飲に出来る程の、虎やライオンですらも子猫に見える程の巨体が姿を現したのだ。
以前何処かで『危険なもの程美しい』と言う言葉を聞いた事が有るが、目の前に姿を表した彼女を目にすれば、それが如何に的を射た表現だったのか、これ以上無い程によく理解する事が出来るだろう。
牙の一噛み、爪の一振りで人の命などあっさり刈り取るであろう、凶悪極まりないそれこそ怪獣の類と言っても過言では無い巨体ながら、無駄の無いしなやかな引き締まった身体は鈍重そうな印象は欠片も感じさせる事は無かった。
圧倒的な暴力を秘めた肉体を持ちながらその瞳は理知的な輝きを宿し、その身に纏う妖気は悪意を持ってその場に居るならば、それだけで人を発狂させかねない程に濃密な物だと言うのに禍々しさを感じさせる事は無い。
これこそが火元国でも一二を争う大妖怪、大猫又宮古前、その真の姿で有った。
火元国では家安公と六道天魔の戦い――六道の大乱を含め、過去三回鬼や妖怪達と人間の間にこの国の存亡を懸けた戦いが繰り広げられたのだそうだ。
我が猪山の藩祖が活躍したという『大江山の乱』、人に化けた妖狐が帝に憑り付き武士の抹殺を測った『陽己の変』とこの国の歴史を語る上で外す事の出来ないそれら三つの事件。
それら全てに於いて、人を愛し人と結ばれた最初の飼い主の意向に従い人間の側に立ち、勝利に少なくない貢献を果たしたのだと言う。
だがそれら数多の戦いの中で彼女は決して軽くは無い怪我を負い、時を経た今なおその傷は癒える事無くその身を蝕んでいる。
その為、彼女はその身に宿る力の大半を自由に振るう事は出来ず、普段の小柄過ぎる老婆の姿も可能な限り力を浪費せぬ様する為の、言わば省エネモードとでも言うべき姿なのだそうだ。
現身を晒した彼女はゆっくりと大きく息を吸い胸を膨らませ、空を向いて大きく口を開いた。
いやただ口を開いただけでは無い、人には聞こえぬ音で鳴いて居るのだ。
満月と呼ぶにはほんの少しだけ足りない月に向かって、丸で遠吠えでもするかの様に永く永く叫び続けるその姿は、根子ヶ岳の奥で見た襖絵を彷彿とさせる物で有り、あの絵のモデルが彼女なのだと確信するには十分な物だった。
「……見つけたぞぃ。叺背負いに姑獲鳥……子を拐う妖かし共が勢揃いかぃ……お! 子等はまだ皆無事じゃ! 奴らめ、地獄の釜に穴を開けるつもりか!?」
誰もが衣擦れの音一つ立てる事無く見守る中、おミヤは目を大きく見開くと唐突にそんな叫び声を上げた。
弱った身体を押して彼女が使ったその妖術は、声に乗せた妖力で猫類の意識と視界を奪い覗きこむと言う物で、次の猫、次の猫と辿っていく事で妖力の許す限りどんな遠くまででも見通す事が出来るらしい。
人の目を憚り匂いを隠して行われた拐かしだったが、拐われた子供達が集められていた場所が悪かった。
そこは只人が辿り着く事の出来ない一つずれた世界の一角、以前俺が根子ヶ岳へと向かう際に通った『猫の裏路』に近い所に奴らは居たのだ。
「お清様! 急いで子等を取り戻さねば江戸に鬼が溢れかえる事に成るぞぃ! 彼奴等め、子等を贄にして江戸と地獄を直通にする心算らしい!」
彼女の口から語られたのは、おぞましくも恐ろしい計画の一端だった。
鬼や妖怪の中にはこの世界で生まれ育つ者も居るが、その大半はこの世界とは異なる場所――無数に有るそれらを一纏めにして地獄と呼称されている所から、それぞれ何らかの理由が有ってやって来る言わば侵略者で有る。
しかしその大半は猫の裏道同様に世界と世界の狭間を繋ぐ、ほんの小さな隙間とでも言うべき場所を通ってやって来る為、一度に大群を送り込む事は出来無いのだ。
だが世界と世界の間の壁を破壊し大穴を空け、大規模な侵攻を侵す手が無い訳では無い、それらが成功したのが先程挙げられた三回の戦いで有る。
「直ぐに上様へ報告を! この期に及んでは個々の家名なぞ気にしている場合では有りませぬ! 全戦力を動員してでも、子等を……いえ、例え子等が戻らなくとも、其奴らの企みを潰さねば成りません!」
下手をせずともこの一件が四回目の大乱の引き金と成るのだろう事に思い至ったのだろう、唇を噛み締め握り込んだ拳から血を滴らせながらも、そう叫んだのは子を拐われた奥方の内の一人だった。
子を思う母親が例え子供を犠牲にしてでも……とそんな言葉を口にするのは、並大抵の事では無い。
だがこの場に居るのは皆、武家の妻として娘として政に否応無く関わる立場の方々だ、己の子可愛さに成すべき事を見誤る様な事が有れば、それこそ家名に泥を塗るだけでは済まされない事を理解しているのだ。
「いや場所が悪い、彼処は殿方連中が踏み込む事は出来ぬ。狭間渡りは七つまでの子か未通女のみ、その身に神を宿しうる者だけで攻め入るしか無いぞぃ! それに儂が無理なく送り込めるのは精々五人までじゃ」
そう言うおミヤの言葉に拠れば、世界の狭間では時間と空間が歪んで居り、条件に適応しない者は長い間その場に居れば心と体を冒され、下手をすると妖かしへと変じてしまうのだと言う。
時間を掛けて遠回りすればある程度の人数で攻め入る事も不可能では無いらしいが、見る限り何時儀式が始まっても可怪しくは無い様子だと言う事で、一刻も早く止めに行かねば成らない状況らしい。
その言葉を聞き、ざっとこの場に居る者達の顔を見回す、俺が見る限り条件に合致し、尚且つ戦力と数えられる者は決して多くは無い。
「先陣はわたしと義姉様が……あと志ちゃんも参加してくれるわね?」
礼子姉上は誰よりも早く覚悟を決めた表情となり、瞳義姉上と小さく頷き合うとそう言い放つ。
当然俺に否は無いし、娘達の中でも最年長で有る瞳義姉上は参加することが当然と言った顔をしている。
「となれば、もう一人の枠には私が入るのが筋ですわね。此処で尻込みする様では婚後の軽重に関わりますわ」
続けてそう参加表明をしたのは、野火家に嫁入り予定の源泉姫だった。
彼女は結婚後親戚付き合いの中で、今回参加を見送った事が原因で格下扱いを受けるかも知れないと言って居るのだが、その言葉とは裏腹に表情は決して打算的な物では無く、政に関わる家の者としての決意と威厳に満ちた物である。
「それを言うたらウチも行かなアカンっちゅぅ話やけど……、ウチの腕やったら足引っ張るだけやね。せやけどやれる事はやったる、後方支援は任しとき!」
他にも何人か先陣に志願しようと口を開き掛ける者も居たが、千代女義姉上がそう言うと己の腕に不安を覚えたのか、それらの口から言葉が漏れる事は無かった。
「……なら、にゃーが行くニャ! うさみーが連れてかれたのは、にゃーがちゃんと手を繋いで無かったからにゃ!」
最期の一人に名乗り出る者が居らず、四人で突入しようと思いかけた時、広間へとやってきた睦姉上が叫ぶ様な声でそう口にする。
「にゃーだって、武勇に優れし猪山の子ニャ! それににゃーが居れば向こうでもばっちゃの力を借りれるニャ! 絶対足を引っ張らニャーから! うさみーはにゃーが助けるのにゃ!」
幼いながらに、確かな決意を秘めた瞳でそう言う彼女の参加を拒否する事は誰にも出来なかった。




