二百八十一 志七郎、初動に焦り藁にも縋る事
犯罪捜査は綺麗事では無い、取調室では時に強い口調で自白を迫ったり、多少強引な形での誘導尋問と言ったグレーゾーンギリギリの遣り取りは日常茶飯事だ。
特に物証や目撃証言等の証拠に乏しい事件であれば、取調で得た情報から裏付け捜査が進み、決定的な証拠が見つかるケースも少なくない。
かつては自白は『証拠の女王』や『王様』等と言われ、自白を得る為に過度の尋問や時には酷い拷問で自白を強要する様な時代も有った。
流石に俺が刑事に成るよりも随分と前から自白だけを証拠として罪に問う事は出来なく成っていたが、それでも尚自白の有無は犯罪捜査に於いて重要な位置を占めて居たものだ。
幸い……と言っては語弊が有るが、この江戸には犯罪者の人権を声高に主張する弁護士も居なければ、それを問題視して大騒ぎするマスコミも居ない。
多少強引な取調を……いや例え拷問で証言を強要した所で、それが問題に成る様な事は無い。
そもそも人権なんて言葉すらも、存在が怪しい世界なのだから。
とは言え取調で拷問や強要が禁止されているのは、人権的な問題だけでは無い。
拷問から逃れる為に、有りもしない嘘の証言がされ、それが冤罪の原因と成り得るからで有る。
「……共犯者が居るならば、それを締め上げれば多少なりとも進展が望めるかも知れない」
それでも、全くと言って良い程に情報の無い、この状況を打開する事が出来るならば、戸惑う余地は無いだろう。
「誠に残念ながら……刃傷騒ぎの被害者は皆無関係で有る事は確認済みで御座る。御方の仰る通り、加害者は事件そのものに深い関係が有ろう事は明白成れど……生きて捕らえられた者は居りませぬ」
だが俺の決意を他所に、黒頭巾の男はそんな絶望的な言葉を口にした。
被害者は皆不意の辻斬りに襲われたらしく、生き残った者も死した者も身に付けた手形から身元の確認は取れており、またその手形には武士として恥ずかしい罪は何一つ記されて居なかったのだそうだ。
対して加害者はと言えば、その素性を示す様な物は何一つ身に付けておらず、手にした得物もそこらの古道具屋で二束三文で売られている様な駄刀に過ぎ無かった。
そしてある者は返り討ちにあい、ある者は捕り方が騒ぎを聞きつけ現場に駆けつけた時には、成すべき事は済んだとばかりに自害し果てたのだと言う。
武士同士の尋常な決闘ならばその理由を如何する事無く、勝負の結果に恨み辛みを持つ事は許されない。
武士で有る以上その武の研鑽の為に命を賭ける事は義務で有り、その道の果てで力尽きたとしてもそれは、その者の力不足であり運命なのだ。
だがそれが相手の卑怯卑劣な手管に依る物だったり、ましてやそれを逆に喧伝され家名に泥を塗る様な事に成った場合には、その汚名を雪ぐ為に仇討ちが許されるケースも有る……と言うか武士同士の場合、余程で無ければ仇討ちの許可は出る。
その場合相手を見つけた時点で、その土地の奉行や代官、領主に対して届け出をすれば相手は逃げる事すら許されず、正々堂々たる果し合いを挑む事が出来るのだ。
では何故身元を隠し襲撃するような真似をするのか、それは襲撃者が武士ではなく町民階級の者の場合で有る。
武士がその身分を傘に着て一方的な振る舞いをした事が明るみに出れば、本人は勿論の事その家すらもが罰を免れる事は出来ない。
しかしそれは絶対とは言い難い、逆恨みの類は常に有るし、その恨みが筋違いの物で無いとしても公の騒ぎに成らなければ、それを罰する事は出来ないのだ。
またそれが政に関わる様な事だったりすれば、如何に正義を成す為の事だとしても、直訴や強訴を禁じる法度に反したとして、それを成した者は死罪確定、しかもそれは家族や身内にまで連座する様な大罪とされているのだ。
それが拡大解釈されてと言う訳か、それとも法が詳しく知られていないからか、天地神明に恥ずかしく無い形の仇討ちで有っても武士を相手に町人が仇討ちをした場合、本懐を遂げ自害する事が少なくないのである。
故に当初それらを見て各奉行達は、一連の誘拐事件との関連を考えもしなかったのだと言う。
「……完全に八方塞がりですねぇ」
それら話しを聞きりーちがそう呟く。
「しっ……皆が居る前で悲観的な事は言うな」
それに俺は周りに聞こえぬ様、声を潜めて諌める言葉を吐く。
被害者家族の前で悲観する様な言葉を口にするのは悪手以外の何物でも無いのだ。
とは言え、事体を把握すればする程に捜査の行き詰まりを感じるこの状況に、りーちがそう言う気持ちは解らなくは無い。
これだけ事件解決に繋がる情報が少ないとなると、前世ならば公開捜査や人海戦術に依る大規模な聞き込み捜査と言うのが選択肢に上がるのだが、事件を公にする事が出来ない以上それらは禁じ手と言える。
被害者達が無事だとしても、事が公になればそれを察知し始末される事も考えられるし、大事無く救出されたとしても武家の子が碌な抵抗も出来ず拐かされたと有れば、その将来に影を落とす事は間違いない、有る事無い事余計な噂を口にする輩は何処にでも居るものだ。
「此処まで手が無いともなれば、易者に頼るのも手では無いでしょうか?」
この期に及んで不謹慎極まりない冗談、俺にはそう思えたその言葉だったが……
「そうよ! その手が有ったわ! 猪山の奥様、当家で懇意にしています腕の良い易者が居ります! その者を此処に呼びましょう!」
「名案ですね! 家にも実力の有る占術師に伝手が有ります、直ぐに手配を!」
と、暗い顔で思い詰めて居た諸家の奥方様、お嬢様方は、打って変わって明るい希望に満ちた声を上げた。
だが考えてみれば、日本では捜査に外部の……それも占い師や霊能者と言った、胡散臭い連中の手を借りる事は無いが、欧米では所謂『超能力者』の類が捜査協力する事は決して珍しい話では無い。
しかしその手の者が実際に事件を解決したケースを俺は寡聞にして聞いた事が無いが、此処は氣や魔法と言った超常の力が当たり前に存在する世界だ、事件解決に繋がる真実を言い当てる事が出来る様な能力の持ち主が居ても可怪しくは無いのかも知れない。
「んで、この婆ぁが呼ばれた訳ですな。確かに儂はその手の術にも通じて居りますが……術者としての格で言えば安倍様の方が上ですの?」
超速駕籠屋『猿羅一家』の駕籠で運ばれてきたのは、我が家の長老で有り猫又女中達の長、おミヤであった。
「昨日までで有れば、おミヤの言う通り安倍様にお縋りしたでしょう。ですが今日この一件に関して言うのであればあの方も被害者家族の一人、冷静な状態では居られないでしょう」
母上の言葉通り、身内が被害者に成っても冷静で居られる者はそうそう居ない。
前世でも警察官の身内が被疑者、被害者その他事件の関係者だった場合には、その捜査を回避しなければ成らないと定められていた。
それを考えれば安倍様に頼らないと言うのは納得出来る話では有る。
「そういう事ならば、是非も有りませんの。失せ物、失せ人探しは儂の十八番ですからの。全力で当たらせて貰いましょうかの」
彼女がそう言うと、奥様方の表情はみるみる間に安堵に彩られていく。
おミヤは産婆としてだけで無く、この手の事でも広く名が知られているらしい。
だが、それならば最初から彼女を頼れば良かったと思うのだが……
「御免なさいね、おミヤ……。余り大きな術を使えば、身体に負担が大きい事は良く解ってるのだけれども……」
「なぁに、まだまだくたばりゃせんの。たらい舟にでも乗った気で待っておれ」
心配そうな表情で謝罪の言葉を口にする母上に、慈母の表情でそう言葉を返しおミヤは庭へと出ると、その小さな身体を戦慄かせ、巨大な現身を露わにするのだった。




