二百八十 志七郎、仕事を思い出し暗い決意をする事
浦殿の口から出た言葉は俄には信じ難い物だった。
安倍親子は我が猪河家だけで無く、幕府にとっても重要な賓客で有る。
義伯父上本人は勿論、宇沙美義姉上にもその身柄に万が一の事等有っては成らないと、我が家の家臣だけで無く、幕府からも護衛の任を受けた者が数人出向して来ているのだ。
兄上との逢引の時だって、二人の邪魔をしないよう陰ながらでは有るが、何が起きても対応出来るだけの人員が配備されていたと聞いている。
しかも今日は父上を始めとした大人達は最低限必要な人員を残して仕事に出ており、信三郎兄上も別件で出掛けねば成らなかった為、裁縫仕事で家に集まっている他の義姉上達(含む礼子姉上)と行動を共にしていた筈だ。
そんな状況で行方知れずと言うのは、一寸考えられない事だった。
もしそれが事実だとしても、それ以上に不可解な事が有る。
「それにしたって、何故浦殿が走り回ってるんですか? 野火家と猪河家は親戚筋とは言えの他家の醜聞でしょうに……」
幕府からも人手が出ているとは言え、猪山屋敷に滞在している以上その責任は猪山藩が負う事に成る。
知らぬ存ぜぬを押し通せば兎も角、協力した上で事件を解決出来なければ、浅雀藩も名を落とすだろうし、下手を打てば諸共責任を被る事にも成り兼ねない。
他家の問題に首を突っ込むのは余程の事情が無い限りリスクが大き過ぎるのだ。
「困った時はお互い様、相身互いの事で御座る……。それに我が藩は猪山に対して借りが積み重なって御座る故、機会が有れば積極的に返して置かねば、尻の毛まで毟られる事に成り兼ねんで御座る……何せ相手は暴君で御座るからして……」
本当に母上はどれほどの恐怖を実家で振り撒いて居たのだろうか……
屋敷へと帰る道すがら浦殿が語った話に依ると、宇沙美姫が姿を消したのは猪山屋敷の中での事では無く、茶菓子を買いに睦姉上が近所の茶見世へと出掛けるのに付いて行った時の事だったらしい。
普段通り睦姉上と女中達が作った茶菓子が有ったのだが、それを宇沙美義姉上がぺろりと平らげ、物足りなさ気にしていたので、追加を買って来る事にしたのだと言う。
無論、二人だけで出掛けた訳では無く、護衛の者達も一緒だったのだが、見世の側で刃傷沙汰が有り、そちらに気を取られたほんの一瞬の間に姿が見えなく成ったのだそうだ。
それだけで有れば護衛担当者の不注意が原因と言う事も出来るだろうが、陰ながら彼女達を追跡していた幕府御庭番衆の忍術使いも、彼女を追跡する事が出来ず見失ったのだと言うのだから尋常の事では無い。
「上様は、今の段階で事を公にして下手に大事とすれば、その身柄が危ういやも知れぬと判断を下されまして、今は最小限の人員にて事体の把握に務めている状況です」
御庭番から報告を受けた上様は、当然ながら此処最近起こっていると言う誘拐と、今回の件を関連の有る事件だと判断、関連諸藩にだけ情報を公開し、可能な限り秘密裏に事を進める様に指示したのだそうだ。
その為、諸藩の男達は表立って動く事は出来ず、だからと言って何もし無いと言う事も出来はし無い。
故に拐われたと思しき子供達の母や姉達、女性陣が日頃の鬱憤を晴らす為の遊び、と言う名目で猪山藩の下屋敷へと招待したのだと言う。
夜な夜な煌々と篝火を灯し、江戸中の紳士淑女の社交場として知られているそこならば、夜分遅くまで人が出入りしていても誰も不思議には思わない筈だ。
浦殿が俺達を探し、案内する役目を与えられたのもその場所に関連する、彼は余財の大半を茶菓子と博打に突っ込む、名の知れた博打打ちなのである。
収支は下手の横好きも良い所の、爆死打ちらしいが……
無数の篝火に照らされ、大量の蝋燭が惜しげもなく灯されたそこは、既に日が落ちていると言うのに、昼間と変わらぬ明るさと表現するに相応しい様相を呈していた。
以前来た時には老若問わず多くの男達が目の色を変えて博打に興じて居たが、今夜はそれとは一味違う緊張感を身に纏った女性達が集まっている。
皆見た目は華やかな衣を身に纏い、精一杯に綺羅びやかさを装っているが、その表情は不安と心配に彩られ、それでも気丈に歯を食いしばって居る様に見受けられた。
俺はその場を包む重苦しく足を踏み入れ口を開く事すら憚られる、その雰囲気に見覚えが有る。
重大事件の際に立ち上げられる捜査本部の、それも解決の糸口を探す事すら難しい、そんな難事件を相手にした時と同じ物だ。
「俺達に手伝える事は何か有りますか?」
気後れした様子を見せる従兄達をその場に残し、俺は屋敷へと上がると、女性陣の纏め役として上座で中間の男達や忍からの報告を受けている母上に、意を決してそう口にした。
「おお、志七郎。平和に利市も無事でしたか……。今はまだお前達にお願い出来る事は有りませんが……いえ、そちらの盆に今まで集まった報せを纏めてあります、気になる事、気が付いた事が有ったら遠慮なく言って頂戴な」
すると彼女は、普段丁半博打が行われている白い布をかぶせた畳の上に広げられた地図と、その周りに置かれた数々の文を真剣な眼差しで見つめたまま、目を逸らす事無くそう応える。
地図に記された誘拐現場と思われる印は六つ、添えられた何枚もの文書を読む限りでは、今の所明らかに成っている被害者六人で間違い無い様だ。
被害者の共通点は、武士それも比較的家格の高い家の子弟達で、皆六つ七つで練武館や志学館に通う前位の年頃の子供達で有る。
男児も居れば女児も居り、同一犯の犯行だと仮定するならば、猥褻目的の誘拐と言う筋は消える様にも思えるが、性倒錯者と言う奴には常人の理屈は通じ無い。
しかしその手の性犯罪者は、俺の経験上行き当たりばったりの犯行をする物で、多くの猛者達や護衛や諜報のプロで有る忍の目を盗む事が出来る程、計画的な犯行はしない物だ。
地図を見る限り現場は何処かに偏っていると言う事も無く、むしろ江戸の中心――江戸城を挟んで綺麗にバラけている様に見える。
強いて言えば、全ての現場の近くに運河や河川が走っている事が上げられるが、概ね碁盤の目状の道に作られた道と、ほぼ平行して存在してる為江戸中何処でも条件は同じと言えるだろう。
だが現場が解っているならば、仁一郎兄上の飼い犬達に追跡させる事が出来るのでは無いだろうか? 兄上が動く事が出来ないならば俺が四煌戌を連れて行くと言う手も有る筈だ。
「……御免。忍犬に依る追跡は全て空振りに終わり申した。件の輩は何らかの方法で匂いを断っている様に御座る」
どうやら俺が提案するまでも無く、忍の者達が飼う忍犬を用いて捜査はされた様で、その結果を黒頭巾の男が屋根裏からそう報告した。
「……現場での目撃者等は居ないのですか?」
注釈文には目撃証言等に付いて一切記載が無い事に気が付き、俺は黒頭巾が顔を引っ込める前にそう問いかける。
「拐かしが行われたと思しき時分、全ての現場で何らかの刃傷沙汰が起こって居る事は確認されて御座る。その喧騒に紛れての犯行で有る事は疑う余地は有りませぬ」
そう聞いた時点で、俺は一つの結論に行き着く事が出来た。
「これは単独犯の可能性は先ず消えますね……、恐らくは何らかの組織だった犯行。騒ぎを起こした連中と誘拐犯はグルでしょうね」
衆人環視の中での刃傷沙汰ともなれば、被害者も加害者も見逃される事は無く、先ず間違いなく奉行所の捕方に捕らえられている筈だ。
であれば前世の日本では禁じられていた手を使う事も出来るかも知れない。
人道的に余りやりたい方法では無いが、被害者を無事に取り返す為ならば、手を汚す事も考えねば成らないだろう……。




