二百七十九 志七郎、不安を思い危機を知る事
帰りの挨拶を済ませ、桂邸の門を潜ろうとした時だった。
「そうそう小僧共、日が落ちぬ内に帰るのだぞ。お主達の腕前ならば心配も無かろうが、子供を狙った拐かしが近頃頻発してる故な」
俺達の背に向かって、思い出した様にそんな言葉を桂様が投げかけたのだ。
前世の日本では拐かし――所謂、誘拐――と言えば、罰金刑の無い懲役刑だけが定められた重罪である。
無論この江戸でも下手人――犯人が捕まれば、理由、程度の如何を問わず一律死罪とされる重罪だ。
それだけ大きなリスクの有る犯罪だと言うのに、得られる物は決して多いとは言えない。
少なくとも戦後日本では俺が命を落とすまで、身代金目的の誘拐が成功したケースは一件も無いのだ。
だがそれを諸外国に目を向けると話は多少変わってくる、身代金を得る為に接触すると言うリスクを切り捨て、誘拐その物を目的とするならば、その成功率は決して低く無い。
人身売買や臓器売買と言った闇取引の商品として誘拐される子供は、数えるのも馬鹿らしい程の数字に成るのである。
前世に海外研修で行ったとある国では、年間四十万人以上、一日当たり千人以上の子供が誘拐され、その大半が見つかる事無く迷宮入りしていた。
ではこの火元国ではどうだろう。
少なくとも臓器移植等という高等医療が存在していない以上は臓器売買を目的とした誘拐と言うケースは存在し無い。
では人身売買はどうか。
吉原等の遊郭に売る為、見目の良い少女を誘拐する……と言う話は時代劇なんかでは、ちょくちょく描かれていた。
実際人攫いが女衒と通じ誘拐した子供を遊郭に売ると言う事件は無くは無かったらしいが、この江戸では違う。
全ての情報が世界樹で管理されているこの世界では、奉行所などで身分照会をすれば何処の誰で有るかを誤魔化す事は出来ず、不法に誘拐された者で有る事は一発でバレてしまうのだ。
家安公が幕府を開いて以来『女衒』は認可制で、不法な取引をすればその罪は魂に刻まれ、その身分を示す手形にも記される事に成る。
そうなれば遊郭は勿論、場末の岡場所とすら取引する事が出来ず、己の首を締める事に成るのだ、真っ当な女衒であればそんなリスクを犯す様な真似はしない。
飢饉やその他理由で困窮した者の所へ行き、合法的に買えば良いだけなのだから。
ちなみに女衒の買値が高いのは見目の良い年頃の少女では無い。
素人に何の教育もせず客を取らせればそれは見世の名を落とす事に成る、その為ある程度の教育期間は必ず必要で、仕込みが終わったら薹が立っていた……では話に成らない。
それならば幼い少女――禿が一番高いのかと言えばそういう訳でも無い、教えるにも育てるにも銭は掛かるのだ、その分を差し引く事を考えれば、高値を付ける訳にも行かないので有る。
では一番高いのは? それは何らかの理由で夫を亡くした後家――未亡人や、夫と離縁した出戻り女性だ。
彼女達は最低限必要な閨の作法等は夫に仕込まれていると考えられ、また江戸では他所の男の女を寝取ると言うシュチエーションが比較的一般的な趣向らしく、需要が多いのだと言う。
なおこの辺の事は猪山藩の若手の中でも問題のある連中――大羅、今、名村、矢田の四人組から聞いた話だ。
閑話休題……前世日本の倫理観を持つ俺としては人身売買を肯定したくは無いが、少なくともこの火元国では己や家族の意思に反したそれは完全に違法で、行われているのは双方合意の上の物なので、俺一人が騒ぎ立ててどうこうなる物でも無いだろう。
と、そこまで考えて気になったのは『男』の売買市場がどうなっているのか……だ。
前世に読んだ本で、奴隷市場で最も高値で取引されたのは、肉体労働力的な意味で『成人男性』で、次いで『成人女性』『男児』『女児』の順に安く成るのだと、書かれていた記憶が有る。
合意で有れば人身売買が合法のこの世界、それを考えれば女衒以外に市場が有っても可笑しくは無いだろう。
「りーち、その辺どうなんだ?」
幕府要職に有る桂様に聞けば一番確実だろうが、既に城門近くまで歩いてしまったので、戻って聞くと言う選択肢は除外し、商取引云々に最も詳しいだろう彼に問いかけた。
「借財の返済が出来なく成った者や、死罪に至らぬ程度の咎人なんかが、鉱山送りに成ると言う話は聞きますが、それ以外には聞きませんね。それにしたって男ならば鬼切りさせる方が余程有用ですからね」
この国には奴隷とでも言うべき立場の者は居ないのだ、とりーちは付け加えて口にした。
「家安公の奴隷解放宣言ですね。それ以前は戦で捕らえた相手の身代金を取り、それが払えぬ相手を奴隷にするのは普通だったらしいですが、今では戦なんて早々ないですしねぇ」
この間志学館で習った! とぴんふがそう補足してくれる。
だが、そうなると……
「拐かしの目的が解らないな……」
桂様はそれが頻発していると言って居た、目的も無く大きなリスクの有る犯罪を犯す馬鹿は居ないだろう。
「と言うか、頻発という程起こってるなら、その件に関する瓦版の一つも出てても奇怪しく無いと思うのですが、見たり聞いたりした覚えが無いんですよねぇ」
「そうそう、そんな話が有るなら父上や銅鑼から注意の一つ二つ有りそうな物だけど、なにも言われて無いんだよね」
大藩を統治する立場に有り、また一時的とは言え商家に婿入りした事の有る野火家当主は、情報収拾を重んじ、江戸だけで無く近隣周辺各地で刷られる瓦版をほぼ余す所無く買い集めているのだそうで、彼ら兄弟もそれを自由に見る事が出来るのだと言う。
勿論彼らだけならば、ただ見逃しただけと言う事もあり得るだろうが、りーちが言った通り叔父上や浦殿までもが知らず、また知ってて教えないと言う事は無いだろう。
となれば考えられるのは、
「捜査上の理由で、報道規制が掛けられてるのかも知れないな」
事が営利誘拐だったりした場合、事件を報道する事で人質の身の安全が脅かされる可能性が有る為、その報道を自粛する様に警察から報道機関へと要請する事が有った。
似たような事が此方でも無いとは言い切れ無いだろう。
「……もしかしたら何処か武家の子弟が拐かされたのかも? それなら瓦版屋が話題にしないのも得心が行きます」
すこし考える様な素振りを見せた後、ぴんふがそう言った。
確かにそれは考えられる。
例え女子供でも武士であれば自分の身を自分で守る事が出来ねば、それはそのまま家名を傷つける事に成るだろう。
となれば、瓦版屋に圧力を掛ける事位はある程度以上力を持った武家ならば何処でもやる事だ。
しかし武士の子を狙った連続誘拐となると、そのリスクはとんでも無く跳ね上がる。
家族も家臣団も面子に、いや文字通り命を賭けて、その子供を取り返す為に草の根分けても、櫓櫂の及ぶ限り探し、探し、探し尽くす筈だ。
それで尚事体が収まらないと言うので有れば、その犯人は並大抵の者では無い。
「鬼切りに出るにせよ暫くは早めに切り上げて、日が落ちる前に帰る様にした方が良さそうだな……」
桂様は俺達ならば心配無いと言っていたが、己の腕を過信し不覚を取ると言うのは、世の常と言っても良い程ありふれた事だろう。
慎重に慎重を重ねる位で丁度よいのだ。
二人も異存は無い様で、俺の言葉に首肯で応じる。
俺だけの事ならばその身を囮にして犯人を誘い出すのも有りだろうが、彼らを巻き込むと言う選択肢は無い、奉行所の皆様方を信じて待つのが吉だ。
とそんな話をしながら暫く歩き、大名屋敷街が見え始めた頃だった。
「平和様、利市様、志七郎様! ご無事でしたか!」
そんな声を上げて、駆け寄ってくる狸が一匹。
「どうしたんだい? 銅鑼左衛門そんなに慌てて」
毛皮に覆われて居るため顔色こそ解らない物の、その立ち振舞はぴんふの言う通り確かに大慌ての様子だったが、俺達を見つけ少しだけ落ち着いたのか、彼は声を潜める様に身を屈め、
「猪山屋敷にご逗留中の……姫君が、所在不明に御座います」
そんな言葉を口にしたのだった。




