二百七十七 志七郎、異なるを知り血を流す事
「正直、済まんかった!」
開口一番、安倍様は畳に額づきながらそう言い放つ。
夕餉を終えて尚も抜け殻状態だった信三郎兄上の様子を見た父上が、身分立場無く親類家族として振る舞える様、内密の話をする為の離れへ家族と安倍親子を誘ったのだ。
どうやら夕餉の席で既に宇沙美義姉上から、今日の出来事を聴いていたらしく、扉が閉まると同時に年季の入った見事な土下座を披露し謝罪したのである。
当初は不自由な生活を送る娘が婚約者……と言うか保護者連れとは言え、初めて自由な振る舞いを許されたその経験を微笑ましく聞いて居たのだが、様々な料理の感想を口にし始めた辺りで父上も叔父上もその可怪しさに気が付いた。
食べたという料理の種類が余りにも多すぎたのだ。
味見程度に一口づつ口を付け残りを兄上に押し付けたのだと最初はそう思ったが、感想を詳細に語りその味覚と感動を思い出し反芻しているかの如きその様子に、全てを味わい尽くしたのだと理解せざるを得なかった。
幼い子共がそれら全てを食べきったとは普通ならば考えられない事だろう、だが彼女の母は猪山のそれも猪河家の血を引く者である、どんな特殊な形質が出たとしても不思議では無いのだ。
初祝の儀で明らかに成るのは『神々の加護』とそれに伴う『技能』までであり、血筋やその他の理由で突発的に発生した『異能』と呼ばれる物まで把握する事は出来無い。
それらを知るには一部の役所が持つ『魂映しの玉』と言う術具を用いるか、神々に問い合わせる必要が有り、鬼切手形を作る時に発覚するのが普通で有る。
だが仁一郎兄上の『酒呑鬼』や『鳥獣会話』の様に玉に映ら無い能力や、豚面の『狂化』の様に潜在的に持っているだけで、格が上がらなければ顕在化し無い能力も有るのだ。
恐らくは宇沙美義姉上もそう言った何らかの特殊な『異能』を持っているのだろう。
けれども今まで出された物を残さず食べると言う事は有っても、際限無しのおかわり自由等と言う事を経験した事は無く、周りも本人もこんな『能力』を持っていたなど知らなかったのだ。
「食った物をただ消化する『だけ』の異能等聞いた事も無いからの、きっとそれに伴う何かが有るのじゃろう。これは早い内に大社様に詣でる必要があるじゃろうの」
長い猪山の歴史の中でも俺達兄弟は有る意味当たりと言え、全員が神の加護を持っているだけで無く、上記した仁一郎兄上だけで無く礼子姉上の『豪氣孔』や信三郎兄上の『豊漁波導』と、家の両親は異能を持つ子供に慣れているのだ。
「今まで発覚しなかったんだし、彼女の胃袋は底無しだとしても人並み以上に食べなければ飢える……と言う訳では無いわね。後問題が有るとすれば、食べた分は運動しないと太っちゃう事位かしら?」
ある意味呑気な事を、人差し指を顎に当て小首を傾げながら母上が口にする。
それを呑気な事と受け取ったのは男性陣だけだったらしく、礼子姉上を始めとした女性陣は皆深刻な表情でその言葉を受け止めていた。
だが当の本人は……
「この『黄金色のお菓子』と言うのも美味しいですの。お江戸にはこんな美味しい物が沢山有るのなら、私もうこのまま江戸に住んでしまいたいですの」
この期に及んで更に茶請け菓子を口にしながら、満面の笑みを浮かべてそんな言葉を口にするのだった。
「それじゃぁ御義父様も安倍様も大社詣でって訳だね。てか、考えてみりゃあたしがガキの頃から色々と有ったのも、その異能って奴の所為かも知れないねぇ」
先日買った反物を縫いながら瞳義姉上がそんな言葉を口にした。
「猪山は古くから鬼や妖怪と血筋を交えて来ましたし、比較的多くの異能持ちを輩出していますけれど、他家でも決して無いとは言い切れ無いのよね。とは言え、早々出ないから『異』なる能力な筈なんですけどねぇ」
悩まし気にため息を一つ突きながら、そう返したのは礼子姉上で有る。
彼女がその異能を発現したのは、子供らしい癇癪と共に溢れ出す膨大な氣で屋敷が全壊し兼ねない騒動が起こったらしい。
ただ感情に任せて制御される事の無い氣は、周囲への被害も然ることながら、彼女自身の命すらも危機に晒す事に成る。
『豪氣孔』と名付けられたその異能は、ただ膨大な氣を持つと言うだけで無く、肉体の限界を超え、命を魂を擦り減らす程の氣を絞り出してしまう、とてつもなく危険な物なのだそうだ。
当時まだ武芸指南役を務めて居た一郎翁がその場に居なければ、彼女の命もこの屋敷も残っていなかっただろう、そんな大きな事件だったらしい。
比較的異能を持つ者に慣れていると言える猪山藩ですらそれ程の騒動が起こるのだ。
「ウチの所も仁様が居らなんだら、瞳義姉様の所と似たような事が起こっとたかも知れんね、ホンマにウチは運が良かったんやねぇ」
千代女義姉上と仁一郎兄上の馴れ初めも、彼女の持つ異能が起こした騒動の結果だと言う事は、以前聞いた通りで有る。
江戸中……いや、火元国中を見渡しても異能を持って生まれる『人間』は決して多くは無い。
「私の様に生まれた時点で明らかに異能を持っていると解る事の方が稀な話なのですわ。皆が皆容姿に現れれば、それはそれで外つ国の様に人種問題が噴出するのでしょうけれども……」
人間以外――例えば森人や山人等の他種族は、その種族の特徴となる特殊な能力を皆が備えている。
それらが異能と呼ばれる事は無いが、先祖にそれら種族を持つ者には隔世遺伝的にそれら能力が顕在化する事が有り、それが異能と呼ばれる能力なのだと言われて居る。
泉姫の極めて特徴的なその容貌は、氷雪を操る女怪――所謂『雪女』の血が顕在化した物らしく、実際極めて弱いながらも冷気を発し水を氷に変える程度の能力は有るらしい。
火元国では人間以外の他の種族、その大半が鬼や妖怪として扱われている。
今でこそ人に混じり生活する、それら異種族が広く受け入れられる様に成って居るが、家安公が江戸に幕府を開くまでは、猪山や仁鳥山と言った極めて限られた地域だけの事だったのだそうだ。
女鬼を嫁に取る武人の逸話は国中至る所に無数に有るが、それとて各地に名を残す英雄と言うレベルで、一世代に一人二人の話だと言う。
それ故に人の姿で他種族の能力を持つ異能者は稀有な存在なのだ。
「痛っ!」
義姉上達の話に気を取られ過ぎたのだろう、指先に鋭い痛みが走り俺は思わずそんな声を漏らした。
「あら? しーちゃん、指刺したの? だから繕い物はお母様や私がやるって言ってるのに……」
結納式で着る晴着を自ら仕立てる姉上達に混ざり、俺がこの裁縫部屋に居るのは……
「いえ、流石に自分の褌位は自分で縫いますよ……」
褌を作る為で有る。
この江戸では損料屋と呼ばれる所謂レンタルショップで物を借りるのが主流で、自前の褌を持つと言う事自体贅沢の範疇で有る。
だが前世日本の価値観と感覚を未だ引きずる俺は、誰が付けたかも解らない下着を身につける事に強い拒否感が有った。
無論大名の子弟で有る以上は許されない程の贅沢では無いが、既製品の販売が無い以上は注文生産してもらうか、自作するかの何方かだ。
兄上達は普通に母上や姉上達に作って貰っている様だが、中身が良い大人の感覚を持つ俺としては、家族とは言え女性に下着を繕って貰うのは出来れば避けたいのである。
指先に浮かんだ血を舐め取りそれ以上の出血が無い事を確認してから、改めて手にした木綿の布に向き直る。
出来れば、今日中に三枚は縫い上げたい所だ。




