二百七十六 志七郎、修練を重ね絶望を目にする事
如何なる武芸も一朝一夕で身に付く物では無い。
特にそれが魔法に絡む物となれば、俺だけがどれ程努力しようとも完成する事は無い、四煌戌達との連携が絶対の条件なのだから。
指導してくれたセバスさんの言に依れば、様々な属性の選択肢が多い霊獣より、特定属性に特化した精霊の方が格闘魔法と相性は良いとの事だが、彼が最もよく使う『光』が三種複合で有る事を考えれば四煌戌達でもやってやれない事は無い筈だ。
とは言え、身体は大分……かなり大きく、それこそ今の俺ならば十分に騎乗する事すら出来る程に成長した彼らでは有るが、未だ成長期が終わったという訳では無く、身体が出来上がるまでは無理をさせる事は避けた方が良いともお花さんからは指導されている。
故にある程度格闘魔法についての講義と実技を行った後は、セバスさんと組手をする事に成った。
狼人族と言う種族の彼では有るが白い髭を蓄えたその容姿は、シュナウザーと言う犬が執事服を纏っている彼の様に見える。
ぱっと見るだけならばコミカルで愛らしくも見える彼だが、無手での格闘を得意とする狼人族の中でも最強と謳われた事も有ったらしく、見目に侮る輩を血祭りに上げた事は数え切れない程で若かりし頃には『血塗れ狼』などと呼ばれた事も有るそうだ。
彼自身がその事を口にした訳では無く、同じ北方大陸出身で有る虎先生が、茶飲みついでに語ってくれた話なので、何処まで本当の事かは解らないが、少なくとも今の俺には全く敵わぬ使い手で有る事だけは間違いなかった。
それも彼本来の得手で有る魔法格闘を一切使わずに……だ。
彼の格闘スタイルはボクシングに良く似た拳撃で丸で詰将棋の様に俺の動きを誘導し、躱す事の出来ないタイミングで鋭い蹴りが打ち放たれる。
その蹴りは空手の様に足刀や背足、中足と言った部分では無く、堅く尖った靴の爪先を的確に急所へと突き込む物で、器用なコントロールは特筆すべき物だろう。
俺の手足が伸び切って居ない事を差し引いても、手加減してもらえなければ間合いにいれてすら貰えないレベルの達人であった。
十分に手加減された蹴りが水月に突き刺さり一瞬息が詰まって膝を付く、そんな俺を見下ろしてセバスさんが口を開く。
「人類は腕よりも脚の方が三倍力が強い。それを踏まえれば、より強く成る為には腕を脚並みに鍛えるか、脚を腕並に器用にするか……ですが、それには第三の道と言う物も有るでしょう」
手足それぞれに得意の分野が有るならば、ソレを補うのでは無くその得意を伸ばせば良い。
拳に一撃必殺の威力が無いならば、それを秘めた蹴りを確実に当てる為の道標とする、詰みの為に歩を捨て駒と割り切る、それが彼の出した答えだと言う。
それは以前一郎翁に言われた二つの戦いのスタイル――野生型か理性型か、その後者の究極と言える物では無かろうか?
だがそのまま取り込むには俺の身体と魂には既に前世の記憶と共に、確立された剣と拳のスタイルが染み付いている。
それでも明らかに上手な相手、それも同じく理性で戦う者との組手からは学べる事が多いのも事実で有る。
「……もう一本、お願いします」
息を整え、ダメージが抜けたのを確認し、立ち上がりつつ俺がそう言えば、
「時間が許す限り何度でもお相手仕りましょう」
と、再び構えを取る。
そして俺達は女性陣が買い物を終え、男性陣が屋敷へと戻るまで、組手を続けるのだった。
達人の手腕とは本当に凄い物で、幾度と無く打倒され転がされた俺だったが、身体には痣一つ残っておらず、ダメージはほぼゼロと言って良いだろう。
「燃え尽きたでおじゃる……真っ白によ……」
寧ろ俺よりも逢引に出かけていた信三郎兄上の方が余程大きなダメージを受けている様に見受けられた。
広間の柱に背を凭れ虚ろな瞳で呟く信三郎兄上、それと比して宇佐美姉上は血色の良い艶やかな頬を緩ませ、満面の笑みを浮かべて夕餉が運ばれてくるのを今や遅しと待っている。
二人の表情だけを見れば、何やら事案の匂いがぷんぷんするが……
「一体何が有ったでござるか?」
何やら怖い物を感じ、声を掛ける事の出来ないで居た俺に代わって……という訳では無いだろうが、義二郎兄上がそう問いかける。
「あ、兄上……、女子は如何に幼くとも魔物でおじゃる……。麻呂の……財布が全滅したでおじゃ……」
信三郎兄上が訥々と語る話に依れば、宇沙美姉上は江戸どころか京の街すら出歩いた事は無く、見る物全てが珍しいと燥ぎに燥いで居たのだと言う。
そんな彼女を微笑ましく思いながら、大身の姫君として不自由な生活をしている彼女を慮り、可能な限り我儘を叶えてあげようと思った信三郎兄上だったが、それは地獄へと続く茨の道だった。
狐の様な扮装で大道芸をしながら飴を売り歩く者を見ればそれに着いていき、ネズミ避けの猫絵を売り歩く猫絵師が通り掛かればそれをねだり、見世物小屋の前を通れば口上に惹かれて銭も払わず中へと入って行こうとする。
そんな子供らしい……大人の感覚を持つ俺からすれば微笑ましいと映る行為の数々も、塵が積もれば山となり、信三郎兄上の財布へとダメージを蓄積させて行った。
様々な場所で様々なトラブルに巻き込まれ、はたまた巻き起こし、その果て大喰大会に興味を持った彼女は、何を間違えたのか落花生の大喰いに参戦したのだと言う。
無論信三郎兄上はその無謀を止めたが、時既にお寿司……遅く、直前のトラブルを収拾した時点で彼女は舞台に上がっていたのだそうだ。
前世でもフードファイターと呼ばれる様な者達の戦いは、常人には立ち入る事すら躊躇われる程の物だった、そしてそれはこの江戸でも同じだった。
江戸では数多くの大食い大会が娯楽として催されており、その結果を纏めた瓦版や書は多数出版されているが、そこに記されてる記録は丼飯四十二杯沢庵二本とか、饅頭五十個羊羹五本寿甘お萩五十五個とか、頭が可怪しいとしか思えない物ばかりである。
そんな化け物どもの祭典とでも言うべき場に七つの幼女が参戦して無事で済む筈が無い。
いや別段無理矢理口に詰め込まれる様な物では無いので、主催者側も賑やかしと言うか、微笑ましい姿を期待して参戦許可を出したのだろう。
その結果は食いも食ったり丼七十七個分、その体積ははっきり言って彼女の身体よりも大きかったと兄上には見えたらしい。
それが何処に入っているのかぺろりと平らげ優勝を掻っ攫い、それで腹ごなしは済んだとばかりに兄上の財布を食い潰したのだと言う。
途中からは記憶が曖昧で全てを覚えては居ないらしいが、山ほどの料理を食らいつくし大きく成った腹が、殆ど一瞬で元に戻るその姿は怪談にも近い怖さすら感じたそうだ。
「十両……十両も持っていったのでおじゃる……。多少御高い装飾品でも買えるつもりでもって行ったのが……、それを全部食い尽くされたでおじゃるよ……。それも高級料理の類なら兎も角、数文単位の飯屋で……」
青い顔で震える両の手を見つめながらそう口にする信三郎兄上。
十両と言えば前世日本の基準で考えれば約百万円、それを大衆食堂の類で食い尽くされたと言うのであれば、確かに恐ろしいかも知れない。
「その話が本当ならば、それがしよりも食うと言う事ではござらぬか……? あの体格でそれならば……末恐ろしい……」
若干引いた様な様子でそう口にする義二郎兄上、その言葉通りほんの一日で百万を食い尽くされるのであれば、
「今の段階でその食事量だと、結婚後はどれほど稼げば良いか解りませんね……」
俺がそう零すと信三郎兄上は絶望の底に沈んだ様な表情で両手で顔を覆い項垂れるのだった。




