二百七十四 志七郎、江戸前の夕餉を口にする事
「流石に志七郎と同い年で、結納はちと早すぎるのでは御座らぬか?」
安倍家御一行は江戸逗留中、猪山屋敷の来客用離れに滞在するらしい。
今は旅の疲れと埃を流し気持ちよく夕餉を召し上がりたいとの事で、親子揃って風呂へと入っている所で、父上や家臣達も同じく旅路を歩んで来たのだが、取り敢えずはお客人を優先したのだ。
そうして彼らが席を離れた所で、義二郎兄上がそう父上に問いかける。
「信三郎の結納とは誰も言うては居らんじゃろ。お主の相手……豹堂家は後ろ盾と成る家が全く無いとお清からの文に書いてあったからの、馬鹿共の余計なちょっかいを避ける為にも権威有る参列者をと思っての」
父上は夫妻揃って江戸へとお越し願い、仲人をお願いする事も考えたのだそうだ。
仲人は新婚夫婦にとってもう一組の親と呼んでも差し支えない立場とされており、特に瞳義姉上の様に両親不在と成ってしまった者は仲人親の家が実家として扱われる為、新生豹堂家の後ろ盾として、将軍家と同格と目される安倍家は最高と言えた。
だが流石にそれはお祖父様と上様から待ったが掛かったのだそうだ、一度没落したとは言え豹堂家は幕臣の家名、それを引き継ぐ以上後ろ盾は公家では無く武家で無くては成らないのだ。
結局の所、政治と言うか外交が絡む諸々の面倒事が多々あると言う事だろう。
「では、今回は本当に顔合わせだけ……でおじゃるか?」
あからさまに安堵の表情を浮かべそう言う信三郎兄上に、父上は無言で首肯した。
「家の子らの仲人は郷田に依頼してある。友好大大名で有る風間が後ろ盾と成り、結納式に安倍様が顔を出せば十分な権威付けと成る……という訳じゃ。それにしても、今回は此方から結納の品を用意しなくて良いのは楽で良いのぅ」
茶を一啜りして、やるべき事は済んだと言わんばかりに、一息付いた父上。
「仁一郎の時には先方をお待たせする分、弾みませんと行けないでしょうねぇ」
対照的に蟀谷に手をやり深い溜め息を吐く母上。
仁一郎兄上は優駿制覇まで色事を慎むと言う誓いを立てており、千代女義姉上も立嶋家の当主もそれを認めているそうで、実際の結婚が何時に成るかは解らない。
今はまだ兄上も二十二歳で義姉上も十七歳と年若く、行き遅れ等と言われる様な年頃では無いが、このまま結果が出せずずるずると縁談が伸び伸びに成ってしまえば、母上の言う通り先方への詫びを含めて考えねば成らないだろう。
流通や銭勘定に強い河中嶋藩立嶋家が相手では、生半な物では面目が立たないと言う問題も有るらしく、時間が経てば経つほどに難しい問題と成っていくのだ。
「義二郎……折角北方大陸へと行く予定が有るのだ。向こうでしか手に入らぬ様な、結納に相応しい物を手に入れてきて呉れ……銭は何としてでも工面する……」
絞り出す様にそう言う仁一郎兄上だったが、
「それは構わぬでござるが。京の奇天烈百貨店に行けば、手に入ってしまうのではないでござるか?」
それに対する義二郎兄上の言葉を聞き、仁一郎兄上の表情は絶望に彩られ、胃の辺りを押さえ辛そうに呻き声を上げるのだった。
皆が風呂を使い終わり、改めて広間へと集まった頃合いで丁度夕餉の時間と相成った。
今夜の献立は、蓮根や大根長芋と言った根野菜の天ぷら盛り合わせ、江戸前の豊富な魚介を握った寿司、椎茸の吸い物、と遠方からのお客様を歓待する事を優先した物だ。
ちなみに寿司を握ったのは睦姉上では無く望奴だったりする、睦姉上では未だ寿司を握るには手が小さ過ぎるのだ。
望奴は食費軽減の為に飲食店でアルバイトの様な事をしていたらしく、江戸でもそこそこ有名な寿司屋(と言っても屋台だが……)で働いた事も有るのだと言う。
一緒に料理を仕上げた睦姉上に依れば、望奴は料理人として身を立てる事も出来る程の腕前らしい……蕎麦打ちや河豚の捌き方も習得していると言うのだから色々と器用な男である。
やろうと思えば、今夜の料理全てを彼だけでも仕立てる事が出来たそうだが、天ぷらも吸い物も主に手掛けたのは睦姉上だ。
この間の角力大会や今夜の料理を見れば、豚面も望奴も神々の加護を受けていると言われても、疑う余地は無い程に優れた人材といえるだろう。
「これが江戸前の寿司なのですね、鮎鮨は口にした事が有りますが、完全に別物なのです」
生魚に忌避感は無いようで、子供らしく目を輝かせた宇沙美姫は、鮃の握りを箸で掴みながらそう言った。
「京では生で食える様な新鮮な魚介は手に入らぬからな。河中嶋辺りまで足を伸ばせば刺し身は食えるが、早寿司と成ればやはり江戸が一番だからの」
安倍様は箸を使わず直接手で掴み取り口へと運ぶ。
出された時点でツメと言われるタレが塗られており、醤油を付けずに食べるのだ。
主賓で有る彼らが一口目を口にしたのを確認し、俺を含めた他の者達も寿司へと手を伸ばした。
「もう一日早く話を聞いてりゃ、もっと美味しい鮃を用意出来たんだけれどもねぇ。それでも久々に良い仕事させてもらったのねん」
自ら握った寿司を頬張りそう言う望奴、彼に言わせると鮃の昆布締めは丸一日から二日寝かせた方が良い味に成るのだそうで、気温の低いこの時期だからこそ出せる味という物が有るのだそうだ。
前世でもそこそこ良い値段のする回らない寿司を口にした事は幾度と無く有るが、目の前のコレはそれらに勝るとも劣らない物だと思える。
さっくりと上がった天ぷらも、汁を付けて衣を濡らすのが勿体無い様に感じ、塩を少量付けて口にすれば専門店で食べたソレを思い出すには十分な物であった。
だが一つだけ俺にとっては耐え難い問題が目の前の寿司にはあった。
たぶん身体が子供だからと気遣って呉れたのだろうが……
「あー望奴、俺の分は次からサビ抜きにしないでほしいんだ」
山葵が入っていなかったのだ。
「んー、江戸前のお寿司は錆びる物なのです?」
どうやらそれは宇沙美姫の物もサビ抜きの様で、可愛らしく小首を傾げながら寒鯖の酢締めへと手を伸ばす。
「この場合のサビは山葵の事なのニャ。ニャーも含めてお子様の分は山葵を抜いて貰ったけど、お好みならネタの上に乗っけて食べても良いのニャ」
睦姉上はそう言いながら、鮫皮の山葵卸で大人の親指程の太さは有りそうな大振りの山葵を摩り下ろす。
小皿に盛られた文字通り山葵色のそれを少量ネタに乗せ口へと運ぶ。
鼻に抜ける独特の風味に思わず涙が出て来たが……それが良い。
「んー! キタキタぁ……!」
質が良い事も有るのだろうが、卸したての山葵はこれ以上無い程に力強い物に感じられる。
山葵の風味が口に残っている内に、長芋の天ぷらへと箸を伸ばし口へと運べば、江戸料理の深奥すら見えた気がしてくる程だ。
「ウチにも山葵がほしいのです。江戸前のお寿司には付き物だと言うのでしたら、やっぱり食べて置かないと……次には何時江戸へと来れるか解らないですから……」
そんな俺の様子に興味を惹かれたのだろう、宇沙美姫も山葵を要求した。
彼女は寿司どころか刺し身も食べた事が無いのだそうだが、慣れない山葵を口にして大丈夫だろうか?
「……余り無理はしちゃ駄目だニャ?」
姉上も同じ事を思ったのか、小皿に乗せられた山葵の量は俺の半分程度だったが、彼女はそれを豪快に寿司へと乗せ……
「むほぉぉぉおおお! 鼻が! 鼻がぁぁぁあああ!」
乙女に有るまじき叫び声を上げて、仰け反りのた打ち回る。
言わんこっちゃ無い……その場に居る全員の思いが一つに成った瞬間だった。




