二百七十三 志七郎、兄達の婚姻事情に思いを馳せる事
「安倍陰陽頭広陰である」
「その娘、宇沙美なのです。此の度はお招き預かり誠に有難うなの」
身だしなみを整え直し、先程とは別の着物へと着替えたお客様方がそう自己紹介をする。
本来であれば大広間に設置された一段高い畳――上段の間――は主君で有る父上とその妻の母上、そして跡取りである仁一郎兄上だけが、座る事が許された場所だ。
だが父上は彼らにその場を譲り渡し、他の家族や家臣達同様下段に座している。
これは彼らが帝直属の臣で、その中でも重役を担う安倍家の家格は、禿河将軍家と同格とされているが故の事らしい。
とは言え、猪河家は飽く迄も禿河の家臣で有り、安倍家に対して必ずしも謙る必要は無いのだが、それを押し通した所でデメリットしか無いのであれば、その辺は融通を効かせた方が良いと言う判断だ。
それら家同士の関係の他にも、江戸へは来ていないが安倍様の奥方で宇沙美姫の母『三十方』は父上の姉君で、二人は義理の兄弟で義弟である父上が義兄に座所を譲るのは別段おかしな事では無いらしい。
艶やかな腰まで届く長い黒髪に、張りの有る白い肌、切れ長の瞳と、男性を形容するには似つかわしいとは思えぬ言葉が並ぶ、とても父上より十以上年嵩とは思えぬ絵に描いたような美貌の貴族に女性陣の目は釘付けだった。
対して宇沙美と言う姫君は、父親譲りの美しい緑なす黒い振り分け髪、大きく円な瞳、微笑む頬の可愛らしい笑窪が特徴的だ。
身に纏う銀糸の兎と金糸の狐が満月の薄野原で遊ぶそんな情景が描かれた着物は、美しいと言うよりは可愛らしいと形容するのが相応しい彼女にはよく似合っている様に思えた。
しかし残念なのは美しすぎる父親と並んで座る姫君は、比べる相手が居なければ十分に美しく愛らしい容貌なのだが、二人を並べてしまうと残念ながら印象が薄く感じられる。
むしろその容貌よりも……
「宇沙美ちゃんは、幾つニャ? ししちろーの方がお兄ちゃんかニャ?」
「ウチは六つ……あやや、お正月が来たから七つなのです」
俺と同い年と言う幼さが問題では無かろうか?
中々子宝に恵まれなかった安倍家に晩年に成って、やっと生まれた一粒種が彼女なのだそうだ。
信三郎兄上は俺より七つ歳上で十四歳、来年父上が国許へと帰る際に同伴し、元服の為の試練を受け、それが終われば安倍家へと婿養子に入るのだが、順当に行けば兄上が十六歳、その時宇沙美姫の年齢は……前世ならば、どう考えても『事案』で有る。
まぁ男子は二十歳女性は十五歳が適齢期とされているこの江戸では、取り沙汰される程大きな年齢差では無いのだが……。
「して父上、麻呂が宇沙美姫と顔を合せる事が有るとすれば、それは元服の後だと思うておじゃったが、如何な故にて彼らがわざわざ江戸まで?」
双方が江戸で暮らす立場で有れば兎も角、遠方の相手との縁談ともなれば、祝言――結婚式――の場で初めて夫婦が顔を合せると言う事も珍しい話では無い。
京の公家、それも幕府の将軍職と並び称される様な大役を担う方が、自ら江戸までやって来ると言うのはただ事では無いのだ。
「それは結納の儀を執り行う為に決まって居るだろう、のう兄者」
信三郎兄上の口にした疑問に、間髪挟む事無く父上が意味有りげな笑みを浮かべながら、そう言って安倍様に視線を送る。
「流石にそれだけで、遠路遥々田舎まで足を伸ばす事は無いわ。幕府と陰陽寮、双方協賛で行う新たな事業の為に禿河の翁に会いに来たのだ。義父殿とは違い尋常なご老体を京まで呼ぶ訳にもいかんからな」
江戸の半分を焼いた一昨年の大火の後、江戸でも術者の育成は始められていたが、術者達の総本山はやはり京の陰陽寮で有る。
武術の余技として術を学ぶ程度ならば兎も角、術者として身を立てようと言う者は陰陽寮入りを目指すのは今でも変わっていない。
だが陰陽寮で学べるのは『陰陽術』だけで『精霊魔法』や『錬玉術』の様な外国が本場と言える術の類は、術者の管理はしているがそれらを学ぶ助けは出来ていないのだと言う。
そんな状況で幕府が新たに打ち出した術者育成の御触書では、幕府が費用を用立てて北方大陸の錬玉術師製造所 や西方大陸の精霊魔法学会への留学生を送り出す事を計画していた。
それを座視すれば術者の総本山としての権威を失いかねない、そう考えた安倍様は留学計画に協賛する事を決定し、その交渉の為にわざわざ江戸まで足を運んだのだそうだ。
「義二郎の腕の事も有る故、一刻も早く船を出して貰わにゃあかんからのぅ。真逆、こんな形で役に立つたぁ、夢にも思っとらんかったわい」
とは言え条件交渉その物はお祖父様が京へと出向いた際にほぼ終わっており、後は調印を済ませれば直ぐにでも留学団を送り出す事ができると言う所まで話は進んでいるらしい。
なお父上が連れてきたと思った百人超えの大名行列は、その内三十余名は猪山藩の家臣だったが、後は安倍様の供回りと第一次留学団に参加する予定の陰陽寮の若手なのだそうだ。
義二郎兄上の義手は北方大陸に行かねば作れないが、それを知ったお祖父様は方々の伝手を使って第一次留学団の護衛の一人として押し込む事にしたのだと言う。
だが次男とは言え大名の子が国を出る許可は早々下りる事は無い、幾らお祖父様が上様の義兄弟だとしても、簡単に法を曲げる訳には行かないのだ。
それをクリアする一番簡単な方法が義二郎兄上の婿入りなのである。
「結納無しでさっさと祝言と言う事も考えたが、先方の家臣殿が年末に侠気を見せたと聞いてな……礼子と伏虎の縁談も時期的に丁度良いし、纏めて結納の儀を行おうと思ったのだ」
お祖父様の言葉を受け取り父上がそう続け、
「と、それらの話を認めた文を貰ったからな。ついでの事であるし婿殿の顔を見、そして娘とも顔合わせさせるのも良かろうと思ってな」
安倍様が更に言葉を重ねる。
「……信さま、不束者ですが宜しゅうお願いしますなのです」
すると誰に促された訳でもなく、宇沙美姫は三つ指を付いて信三郎兄上に深々と頭を下げた。
「こ……此方こそ宜しくお願いするでおじゃる」
両拳を畳に押し付けそう返答を返す兄上だったが、俺の位置からは彼の表情が微かに引き攣って居る様に見えた。
無理も無いだろう、信三郎兄上はそろそろ思春期……色を知る年頃で有る。
にも関わらず娶せる相手は未だ小学生にも成らない幼女、兄上が特殊性癖の持ち主で無ければ、嬉しい筈が無い。
また許嫁が居るとしても顔も合わせた事も無い相手ならば、然程の罪悪感も無く岡場所やら吉原やらへ行く事も出来るだろうが、こんな無邪気な少女の笑顔を向けられて積極的に浮気行為に及ぶのは、少なくとも俺には無理で有る。
家長の権限の強いこの世界では側室や妾は批判を受ける様な物では無いが、婿養子の場合は話は別で有る。
正妻の子以外に家督相続が認められないと言う事は無いが、大半の場合主家の血を引かない子に跡目を継いだとしても家臣が付いてこない。
その為通常はならば、女性が適齢期を迎えるのを待ってから縁付かせるのだが、晩年の一子で有る安倍家は早々に跡継ぎを迎え入れる必要が有るのだそうだ。
薔薇色の首輪が嵌められたやりたい盛り、その悲哀を思い俺は涙を堪えることしか出来なかった。




