二百七十二 志七郎、新春を迎え行列を迎える事
腰に手をやり、踏み込むと同時に横へと薙ぐ。
居合を基とする手刀の一打だが、それは本来ならば掴み極め投げる為の囮。
だがこの稽古の趣旨を考えて、掴みでは無く逆手の直突きを繰り出す。
拳での打撃は稽古こそしていたものの人に向けて放った事は無かった。
殴打が必要であれば警棒なり何なりの武器を使い、どうしても素手で対応しなければ成らない状況ならば、掴み技の方が自分にとっても相手にとっても安全な選択だと考ていたからだ。
過剰な打撃で相手に大きな怪我を負わせてしまう方が余程問題と成るのが、日本という国だった。
そもそも警察官が一対一で格闘しなければ成らないと言う時点で、捜査手法に問題が有るのだと言える、数の暴力で圧倒してしまった方が余計な怪我人を出す事も無いだろう。
しかしだからと言って稽古を疎かにする訳にも行かない、何時凶悪犯が現れそれを現行犯逮捕しなければ成らない、と言う状況が発生しないとも限らない。
例えば通勤中、目の前で通り魔が凶行に走るのを、何の得物も無い状況だからと言って黙ってみている様な事は出来ない。
その場合でも何が何でも一人で逮捕しなければ成らない訳ではないが、応援を要請した上でそれ以上の被害が出ない様に牽制したり、説得したりする程度の事は必要に成るだろう。
もしその際に、激昂した犯人が此方に得物を向けて来た時、打撃という選択肢が身を救う事もあるのだ。
氣を半分程度に抑えたその突きは、街の破落戸程度ならば一撃でKO出来るだろう、その位の物の心積もりだった。
だが俺の拳を軽々と掴み取ったお祖父様は、
「まだまだじゃな。これでは未だ人は死ぬ。初手の手刀は悪くは無かったが、次の突きは不味いの。氣孔使い相手ならば兎も角、只人相手では骨折では済まんぞ」
小さく頭を振りながら、そう口にした。
煤払いも大晦日恒例の取り立ても無事に終わり、筆始め初詣と年末年始の恒例行事は恙無く終り、そろそろ正月気分も抜けてきた睦月の十五日。
昨年末の角力大会で発覚した氣の正確なコントロールと言う、新たな課題を解決する為、時間を見つけてはお祖父様に教えを請うているのだ。
とは言ってもお祖父様は師走と言う文字通り、年末は色々と忙しく出歩き、年が開けてからも江戸近郊の知り合いに挨拶回りに行ったりと、纏まった時間を取ってこうして稽古を付けて呉れたのは、ようやっと今日に成っての事なのだが……。
「見るに半分に抑えた、と言う所で有ろうが、全体量に対してどれ位……と言うやり方では何時迄経っても明確な管理なぞ出来る様には成らぬぞ。お前は日々成長しておる、それに伴って氣も日々成長していくのじゃからな」
言われてみれば確かに、今日は五割で丁度良いとしても、心身の成長や格の上昇に伴い総量が増えた一年後には、五割では多すぎる様に成るだろう。
とは言われても、ゲームの様に何ポイントなんて風に明確な表記がされている訳では無く、氣の大きさは感覚的に掴むしか無いのだ。
指標の様な物でも有ればまだマシに成るのかも知れないが、残念ながら俺は未だ大きな氣を感じ取ったり、身体の外へと放出される氣を見る事しか出来ず、お祖父様の要求通りの力の大きさが解らずに居るのである。
「……中々難しいですね」
当初は絞り込もうとすれば、量は減らずピンポイントに圧縮してしまう結果となり、此処まで減らすのにも中々苦労したのだが、それでもまだまだだと言う事らしい。
「戯け、高々数日の修練で完全に身に付く程、底の浅い技術ではないわ。とは言え、練武館へ通う様に成る前に、他の子供を殺さぬ程度には手加減が出来る様に成らねばな……必要だったとは言え、初期の内に斬鉄なんぞやらせたのが悪かったかのぅ」
深い溜め息を尽きながら、今度は大きく頭を振ってお祖父様は歳相応……と言うには少し若すぎるが、疲れた老人の顔でそう口にする。
「お義父様、しーちゃん、そろそろ殿がお帰りに成る頃合いです、お稽古は中断してくださいな」
と、もう一頑張りしようかというタイミングで、母上が呼びにやって来た。
「お? もうそんな時分か。よし、今日はこの辺にしておくか。汗を拭って着替えて来い」
今日は父上が参勤交代で江戸へと上がってくる予定日だった、今朝兄上の下へと帰ってきた鳩便でも予定に変更は無いと知らせが有ったので、余程の事が無ければ言う通りそろそろなのだろう。
言われた通り、身だしなみを整えるべく俺は屋敷の中へと足を向けるのだった。
「かいもーん、開門!」
前庭で待つ江戸留守番組の耳にそう叫ぶ声が届いた、その声の主は礼子姉上との縁談を控える鈴木伏虎の物だ。
普段昼間の内は門を閉じる事は無いのが今日は閉じられており、その声を合図にして閂を外して彼らを迎え入れる。
どういう謂れが有るのかは知らないが、そう言う儀式らしい。
ゆっくりと開かれた門の外には、ぱっと見るだけでも昨年よりも多い、恐らくは百人は居るだろう大名行列の姿が有った。
「あれ……なんか多すぎ無いですか?」
確か猪山藩は総人口が一万人に届かぬ程度であり、その中で現役の武士は三百人程度と聞いていた。
江戸に居るのが三十名弱、これは常時江戸に居る訳では無くそれぞれ与えられた役目を果たす為に、出掛けたりするので少ない時には十名程まで減る事も有るが、彼らも主君で有る父上出迎える為に全員が戻って来ている。
それに父上が連れて来る三十余名を合わせた、六十名が国許を開けて問題の起こらぬ限界人数だと聞いた覚えが有る、さして広い領地を持たない猪山でも、野盗や山賊、鬼や妖怪の討伐等々、日々領地を護る為に戦わねば成らぬからだ。
にも関わらず、これだけ大人数で江戸へと上がってきて大きな問題には成らないのだろうか?
それに『我が藩は、貧乏藩故に小さな行列しか維持できない』と言う建前が崩れる事で、次回以降もこの規模を守る必要性が出れば、その負担は領民の負担に成るのでは無いだろうか?
そんな疑問が頭を駆け巡る中、装飾が施された駕籠が三つ門の前へと降ろされた。
ソレが更なる疑問を呼ぶ、大名行列では駕籠は大名本人とその名代にのみ許された物で有り、例えそれが自力で歩く事は困難な老人で有ろうとも、乗ることは出来ない。
故に通常、大名行列では駕籠は一つだけの筈なのだ。
とよくよく見れば、駕籠の屋根に描かれた家紋が違う。
いや、一つは間違いなく我が屋の『組み合い角に猪の紋』だが、他の二つに描かれているのは五角形の星――所謂五芒星と言う奴だった。
お客様が同道するという話は聞いていないが、明らかに他家の駕籠が父上の乗った駕籠と一緒にやって来た以上はそう言う事なのだろう。
もしかしたら友好藩の行列とタイミングが被ったので、家に寄ってお茶でも……と言う程度の話かも知れない。
外交に関わる案件ならば、尚の事俺が何かをするという事も無いだろう。
三つの内二つの戸が開き、父上と父上と同年代か少し若い程度の、狩衣を纏った長い黒髪が特徴的な美丈夫が姿を表す。
「いやぁ……江戸は本に遠いのぅ。ずっと駕籠に揺られて体中が痛いわい」
若い頃はきっとその姿を晒すだけでも、黄色い声が飛んできただろう美貌の男だったが、伸びをしながらその口から漏れた言葉は、百年の恋も覚まし老いと現実を感じさせる物だった。
「そりゃ京からずっとじゃぁ、身体も痛くなろうて……と、儂ら大人でも辛いんじゃ、お嬢ちゃんは大丈夫かね」
同じく伸びをして雑談に応じる父上、どうやら御客人は京の都から来たらしい。
「お? うさこ。出ておいで、江戸へと着いたぞ」
最後の駕籠へと美老人が声を掛けるが反応は無い。
真逆、駕籠の中で何か有ったのか! と慌てた様子で美髪の翁が戸を開ける、と……
「すぅ、すぅ……むにゃむにゃ……もう、食べられないですぅ……」
お高そうな着物に涎を垂らし、可愛らしい寝息を立てる少女の姿が其処には有った。




