二百七十一「無題」
「先達ての一件、我が雑賀が抱える悪五郎の勝利と、それらに伴う多額の利益供与を以て落着と成った。以後、不用意に他所と揉める様な事は慎む様に」
妻を通じて猪山の奥方から話が持ち込まれた時には、本当に頭が痛かった。
雑貨は職人達を数多く抱えた物作りを得意とする藩、大量の素材を運び入れ、それを加工し販売する事が主たる産業で有る。
その商売相手は常に他藩で有る以上、不必要に他所と揉めたりすればその流れは滞る事に成り兼ねない。
とは言っても、それで潤うのは職人達や商人達と言った民草で、雑賀家やその家臣達『武士』の収入は飽く迄も年貢米だ。
商人達が『善意』で寄越す賂を別とすれば、商売の成否が手取りには繋がらない。
雑貨の石高は五万を少し超えた程度の中堅所では有るが、輸出入の護衛や領地の安定の為に抱える家臣の数は多く、また大飯食らいの力士も数多く抱えているが故に、家臣達の俸禄は控え目で生活は豊かとは言えないのだ。
対して猪山は山奥の盆地に一万石少々の田畑しか持たない零細にも関わらず、困窮した様子など何一つ無く、贅の限りを尽くすとまでは言わないまでも、余裕の有る生活振りなのは疑う余地も無い。
そして何よりも我が藩の家臣達が猪山に敵愾心を持つ最大の理由は、盆暮れ恒例の売掛金の回収だろう。
武士としての誇りを持たず、商人風情の風下に立って浅ましく銭を稼ぐ……と、他の家からも評判の良くない行為では有る。
国許と比して何かと誘惑の多い江戸での生活、ついつい付け払いが溜まり、その支払に四苦八苦するのは若手には有りがちで、取立の際に用心棒としてやって来る猪山の者を目の敵にするのは、仕様の無い事と言えるかも知れない。
それが彼ら自身も付けが払えず、少しでも減額する為に働いて返す……と言うのであれば『お互い大変だな』と言う気持ちを抱く事も出来ると思うが、なにせ奴らは付けも借金も無く、手間賃丸儲けだと聞けば腹立たしくもなろうという物だ。
また銭勘定ばかりに拘り、武芸武勇は大した事が無いと言うのであれば『所詮は銭金ばかりを追いかける木葉侍』と、嘲り笑う事で己を慰める事も出来ようが、それすらも敵わぬのだから彼我を比べて意固地に成るのも無理は無い。
「それにしても、幾ら酔っていたとは言え力士の威を借りて、天下の往来で女子に狼藉を働く様な真似を仕出かしたとは……雑賀の名に泥を塗る様な真似をしおってからに。お恥ずかしいったりゃありゃしない……」
だからと言って越えてはいけない一線と言う物が有る、今回の顛末を聴いた時には顔から火が出る思いだった。
それも先方が『無かった事』と言ったのを良い事に、報告を怠る様な真似をしたのだから救えない。
人の口に戸は立てられぬのだ、この手の醜聞に対し適切な対応を取らなければ、雑賀の威信は地に落ちる事に成る。
物事を『無かった事』にするのだって相応の手間も銭もかかるのだ。
しかしそれらを此方が負担し、詫びを入れると言う訳にも行かないのが、また面倒な所で有る。
それをしてしまえば、やらかした馬鹿共は兎も角それ以外の家臣達、そして他家他藩に『雑貨は猪山に下った』と侮られる事にも成り兼ねないのだ。
悪五郎が勝った事で得た銭と大会その物の収益で、揉み消す為に使った費用は回収して余り有る結果とは成ったが、それも猪山の隠居が書いた筋書きに沿った物に過ぎず、公には成らぬが借りを作った事には間違い無い。
世間的には雑貨が開いた興行に、猪山が協賛した形では有るが、実際には家は名前を貸しただけに過ぎないのだから。
今まで猪山と雑貨は政敵とまでは言わないまでも、友好的な関係では無かったが、今回の一件を通して、少しは歩み寄る事が出来る様に成るやも知れない。
そんな内心を隠しつつも、目の前で平べったく成っている四人に視線を向ける。
酒さえ入って居なければ文武共に不得手の無い、使える者に育つであろう若者達。
特に主犯とも言える者は国家老の跡継ぎで、格下ならば他藩の姫を嫁に取る事すら不可能ではない家格の者だ。
無かった事にした以上、表立って大きな罰を与える訳には行かないが、だからと言って完全に放免としてしまえば、誤った男に育つ遠因と成り兼ねない。
取り敢えず一ヶ月の自室謹慎と三ヶ月の角力猛稽古を命じ、その後は職務に復帰させたが、以前から仕事ぶり自体は真面目な男だけに、反省したかどうか今ひとつ判断が難しい所だ。
「酒に溺れ愚かな振る舞いをした事、誠に申し訳有りませんでした。恥を晒した事もそれを隠したのも、偏に拙者の不徳に依るもので御座います。他の者達の落ち度では有りませぬ。処罰するならば拙者のみにお願い致します」
他の三人を庇う様に、平伏したままそう口にするが、その台詞は半年前に聞きたかった。
とは言え、この程度の事で自裁する様な事をされても、それはそれで困るのだから、今回の事はもう済んだ事とする他は無いだろう。
「此度の一件で雑貨が得た物は決して少なくは無い、結果論では有るがそれらはお前達の手柄と言えなくも無いだろう。謹慎と猛稽古で罪は贖われた物とする。だが、次は無いぞ?」
殊勝な言葉を信じ許しの言葉を口にする、その時である。
「父上! 毒島が猪山を凹ませたと言うのは本当ですか!?」
大きな音を立てて障子を開き、そんな台詞を吐きながら源蔵が飛び込んできた。
「なんじゃ藪から棒に……」
年明け八つに成る此奴は未だ氣脈を開く事も出来ず、戦場は勿論本角力にも連れて行った事は無い。
歳の頃を考えればまだまだ焦る必要は無いのだが、猪山の子弟が己よりも年少にして大きな力を持つと言う話を聞き、此奴もまた猪山に対して無用な敵愾心を抱いて居るのだ。
「猪山と雑貨は別段敵対して居る訳では無い、凹むも凹ませるも無いわ。むしろ今回角力大会では協力し大きな利益を上げたのだ、これからは歩み寄る事も考えねばな」
故にそう返すと悔しそうな顰めっ面を晒す。
「……いっその事、猪山の末姫とお前を娶せるのも悪く無いか? ふむ、考えてみれば名案かも知れぬ」
猪山の末姫の方が少し歳上では有るが、食神の加護を受けた娘で、中々に愛らしい見目をしていた。
会場で売っていた焼鳥はあんな単純な料理だと言うのに、家のお抱え料理人では出せぬに素晴らしい物だった事を考えても、彼女を嫁に迎えるのは決して間違えた選択では無い様に思えた。
「……恐れながら、猪山の姫を娶るのは若では少々難しいかと」
むしろ名案の類だと膝を打って、決定事項とする事を考えたのだが、やらかし男がそんな事を言いだした。
「な!? 猪山と縁付くなんて俺としても願い下げだ! だがだからと言って俺を軽んじる様な事は許さないぞ!」
途端に激昂し、顔を真っ赤にしてそう叫ぶ馬鹿息子。
「……猪山の末姫を娶ると言う事は、鬼斬童子を義弟とするという事に御座います。何か一芸でも鬼斬童子より勝らねば、義弟より劣る義兄と一生嘲笑われる事になりますぞ」
ああ、そう言やぁ、コイツと猪山の長女の縁談もソレが原因で潰れたんだったか……
そりゃぁ確かに不味い。あれはどう考えても当代随一の大英雄に成り得る器だ。……それを考えると、猪山の末姫の縁談って難しいのでは無かろうか?
余所の事ながら、彼女が行き遅れる事の無い様祈らざるを得ない……。
「まぁ縁談云々は置いて於いて……年が明ければ練武館で顔を合わせる機会もあろう。媚び諂ってまで取り入る必要は無いが、仲良くして置くようにな」
子供の喧嘩に親が出てくる様な家では無いが、此奴が家督を継いだ後の事を考えても余計な喧嘩すをる必要は無い。
「……済みません、もう売っちゃいました」
だが馬鹿息子の口から出てきたのは、そんな絶望的な言葉だった。
どいつもこいつも……もう少し考えて生きてくれ……。




