二百七十 決着! そして、それから……
体格の差を氣で補い放たれた上手投げだったが、それで安々と勝利を譲る様な毒島では無かった。
いやこの取組が始まった時点ならば、この一手で勝負は決まっていたかもしれない。
どういう心算に依る物か毒島は豚面の技を受け切った上で勝ちを得ようとしていた様だが、この投げは受けたり躱したりするのは先ず無理だろう、技の入り自体は強引で不格好な物では有ったが、そう思わせるには十分な正に会心の一手だった。
対して毒島は受ける事も躱す事も出来ぬならば、攻めれば良いとでも言わんばかりに下手を引き、投げには投げで対抗する。
上手投げと下手投げの真っ向からの打ち合いとなり……双方の動きが止まった、軸足を中心に互いの力が釣り合い膠着したのだ。
熱狂の渦と化していた客席が、水を打った様に静まり返った。
何方の力がほんの少しでも勝れば一瞬で勝負が着く、その一瞬を見逃すまいと誰もが固唾を呑んで見守っているだ。
ぴくりとも動かぬ二人では有ったが、その闘いは決して静かな物では無い、互いの身体から溢れ出す氣がぶつかり合い火花を散らしてた。
弾ける氣の余波は土俵を飛び出し観客席にまで届き、髪を揺らし肌を震わせている。
数瞬……数秒はその膠着が続いただろうか?
激しい地響きと共に岩を砕くような重々しい重低音が轟き、土俵には無数の罅が走りモウモウと舞い上がる土煙が視界を遮った。
勝負有った! 流石にコレは間違いなく勝負が付いた、それは誰の目にも明らかだ。
だが何方が勝利を手にしたかは、まだ解らなかった。
徐々に土煙が薄れていく中、土俵上に穿たれたクレーターからは黒々とした煙が上がっている、その煙の中立っていたのは……
「悪ぅ五郎ぉぉぉおおお!」
誉田様が手にした軍配が西へと振り下ろされ、今此処に勝敗が確定したのだった。
「優勝! 毒島悪五郎、此処に貴様の敢闘と勝利を讃える。これからも精進を重ね、我が前に立つのに相応しい力士を目指すが良い」
全ての取組が終わった土俵上では、武神誉田様直々に表彰状と優勝杯を受け取る毒島の姿が有った。
角力の栄光は常に勝者の総取り、二位や三位が賞される事は無いのだ。
この大会でもそれは変わらず、一つの取組毎に得られる報奨金やご祝儀を受け取る事は有っても、最終的な栄誉は優勝者で有る彼にしか与えられはしない。
世界中から集った観客達の視線と歓声を独り占めにし、その巨体と比しても劣る事の無い巨大な金色の杯を高々と掲げた毒島だったが、その表情は決して晴れやかな物では無かった。
力士は常に対戦相手への敬意を忘れず、勝利を誇る事を良しとしない。
そんな心映えを体現したものかとも思えたが、その瞳には憂い思い詰めた様な何かが秘められて居る様に思える。
だがそれ以上に取組前には感じられなかった、何を犠牲にしてでも勝利を欲する、そんな意思が同居している様にも見えた。
豚面との取組の中で、彼もまた成長し一皮剥けたのかも知れない。
そしてそれは彼だけでは無く……
「これ以上強う成るなんて無理や、そう思うてたけど……狂化を完全に使いこなしゃ……。ワテ、もっと強う成れるんちゃうかと思いますねん……」
誉田様の御業に依って、死の一歩手前から無事帰還した豚面は、自らの力を確かめる様に掌を見つめ、握り込みそう呟いた。
狂化は本来その力を数倍、数十倍へと跳ね上げる代わりに、理性や知性を剥ぎ落とし、敵味方問わず皆殺しにするか、己の命を失うまで止まらぬ狂戦士と化す能力で有り、それを制御する事はほぼ不可能とされている。
だが豚面は今日の取組で生まれて初めて発動した狂化を、極めて限定的ながら制御してみせたのだ。
彼の言葉に拠れば、後頭部へ一撃を受けた直後視界が真紅に染まり、周りに居る観衆も目の前に居る毒島も、あろうことか行司を務める誉田様すらもが、皆倒すべき敵に見えたのだと言う。
紅い紅い世界の中、生き残る為には全てを殺さねば成らないと言う激しい衝動に襲われたが、薄れゆく意識を目の前の毒島こそが倒さねば成らぬ相手だと、強く思う事でぎりぎり繋ぎ止めたのだそうだ。
「聴いてた程、厄介な物やないと思うんですわ……。狂化も含めてわてや思いますねん。わての中に有る物やさかい、わてが扱えない筈はあらしまへんのや」
激闘だったからこそ至る事の出来たギリギリの境地、ほんの短い間の事とは言え、其処へと辿り着いた事に確かな手応えを感じたのだろう、豚面は見つめていた掌を握り締め、力強くそう言い放った。
「負けて悔いは御座らぬ……か?」
そんな豚面に義二郎兄上が静かに声を掛ける。
「悔しく無い訳ありゃしまへん。……けどアレで勝ってもわての力とちゃいます。わてがわてのまんまで仕掛けたんは、全部凌がれたんやから完敗ですわ。……けれども」
激する事も無く、ただ淡々とそう言う彼の表情は、悔しさを噛み締める様な物には全く見えない。
「わては力士に成る訳やあらしまへん。豹堂の家臣として、武士として強うなる道筋が見えたんやから、勝利よりも価値の有る敗北やった……そう思うんはきっと間違いや無かったんやと思います」
その言葉は決して負け惜しみでは無いのだろう。
「歯ぁ食い縛れこの戯けが!」
だがその言葉は義二郎兄上にはお気に召す物では無かったようだ、激昂した様子で咆哮し左の腕を豚面の顔面をへと振り下ろす。
「武士は犬畜生と呼ばれてでも、勝つ事こそが本懐! 負けて負けを認めぬ様な無様を晒さぬのは良い。だが、如何に相手が強者であろうとも、如何なる手段を講じようとも勝つ! その気概を持たずなんとする!」
普段、強者故の余裕に満ち、本気で怒りを露わにする事の無い義二郎兄上の憤怒の表情。
「例えそれが制御できぬ物で有ろうとも、己の持つ力を否定してなんとする。お前はたった今、強く成る為にその力を使いこなすと言ったばかりであろう! それを自らの力と信じずして、どうやって使いこなすのだ!」
狂化に依る力を自らの力では無いと言い、なのにそれを強くなる為の物だと言うその矛盾。
兄上にはそれが、許せぬ物に思えたらしい。
力士ならば正々堂々に拘り負ける事も有りだろう、だが武士としてと口にした以上は、例えそれが己の力では無く、忌むべき物だったとしても、それすらも利用し勝利を掴まねば成らないのだと言う。
「我ら武士の背には常に力持たぬ民が居る、己が倒れれば無辜の民が蹂躙されるのだ。それを決して忘れては成らんのだ!」
そう口にした兄上は怒りに任せて、敗北を咎めている訳では無い。
武士として今以上に強く成る、そう宣言した年上の家臣に対する激励の言葉なのだ。
「……義二郎、それはお前が伏虎に負けた際に父上に言われた言葉そのままではないか」
だがそれを台無しにする横槍が、仁一郎兄上の口から飛んできた。
「我ら武士の背には常に力持たぬ民が居る、己が倒れれば無辜の民が蹂躙されるのだ。それを決して忘れては成らんのだ」
大事な事だから二回言った……のでは無く、仁一郎兄上の言葉を無かった事にしたかったに違いない。
けれども、一度吐かれた言葉は口に戻る事は無い。
「良い事を言ったと思ったら、人の受け売り……それも自分の過ちを正す言葉たぁ……縁談の相手を間違えちまったかぇねぇ」
「否々裏が解らなけりゃ良い主君の言葉だったのよ。裏が解らなけりゃねぇ」
「けど、間違えた事は言うてへんやんか……。殿さんの言葉でも、旦さんの言葉でも、わてに必要な言葉やったんは違いありゃしまへん……たぶん」
豹堂一家の未来は明るい……のだろうか?




