二百六十九 ……発動
勝負有った! その一撃を見た瞬間誰もがそう思った筈だ。
両足が土俵から離れた、完全に真横へと飛ぶ形のぶちかましに対して、真上から鋭い手刀が打ち込まれたのである。
当然踏ん張る事すら出来ず豚面の身体は土俵へと叩きつけられる……筈だった。
この土壇場に来て豚面の身体からは一際大きな氣が弾け、下では無く上へと吹っ飛んだのである。
小兵とは言え並の大人に比べれば明らかに重い豚面の身体が、跳ね上がる様な衝撃を至近距離で受けたのだ、毒島も流石に堪らずたたらを踏むがなんとか土俵に身を残した。
意識加速の中に有るからこそこれまでの一挙手一投足を見逃す事無く、確認できては居るが立ち会いから此処まで数秒も経って居ない。
多少氣を纏う程度の者には、立合いのぶちかましからそのまま豚面が上へと飛んだ、そんな風に見えるのでは無いだろうか。
そんな短い時間だからこそ、毒島の腰を据えた受けの姿勢に対して豚面が疲弊し始めていた事を理解している者は限られている筈だ。
現に観客の多くは、初手を交わしあった二人の闘いが此処から更に盛り上がる事を期待し、熱狂と呼ぶに相応しい程にヒートアップしていた。
「■■■■■■■■■■■■ーー!!」
だが次の瞬間、その熱を冷ますには十分な殺意と敵意を孕んだ禍々しい咆哮が当たりを包み込む事と成る。
その声を発したのは膨大な氣でその身を鎧い、地に足すら付かず浮かび上がったままの豚面だった。
獣の如き叫びを上げた豚面は、体格の不利を解消するかの如く溢れ出した氣の肉襦袢を身に纏い、ただただ強大としか言えない圧倒的な暴力を、毒島目掛けて叩き付けた。
角力の張り手と言うのは、下から上へ向けて相手の上体を起こし仰け反らせ、あわよくば打ち倒す事を目的とした打撃なのだと、稽古の際に俺は習った。
先程までの豚面の突きは間違いなく、基本に忠実な角力の突き押しそのものだったが、今の豚面が繰り出すそれは、ただ横殴りに腕を振り回す力任せに相手を捻じ伏せるそんな物だ。
「■■! ■■! ■■! ■■ーー!!」
対して毒島は脇を絞め身を丸める事で首と顔を守りつつも、二発、四発、八発……と激しく打たれるに任せ居る。
流石に先程までとは違い氣の塊で殴り付けられては、じりじりと後ろへと押される事は避けられないが、それでも土俵際、俵に足を添えるとそれ以上は動かない。
恐らくは蝋燭等の灯火が消える前に一瞬大きく成る様に、豚面のその爆発的な攻撃は氣が尽きる前兆なのだと判断しての事だろう。
普通ならばその判断は決して間違っては居ない、氣は使い果たせば短時間で回復する様な物では無く限界を超えて吐き出そうとしても、その前に身体が保たず力尽きてしまえば、身動きすら侭ならぬ程に疲弊する物なのだ。
だが毒島の両腕に両肩に、打撃に晒される部分全てに、青黒い打撃痕が残る様に成ってなおも、豚面は止まる事なく毒島を打ち据え続ける。
「あれは……狂化が発動したんだ!」
豚面の瞳は先程までの闘志に満ちた物から、理性の欠片すらも失われた獣のそれへと変わり、爛々と不気味な赤い火が灯っている様にすら見える。
俺にはその瞳に見覚えが有った。
暴力団やマフィアが、麻薬漬けにして使い捨てる鉄砲玉の目によく似ていたのだ。
ただ違うのは、視線が定まらず何処を見ているかも解らない様な薬物依存者に対して、豚面の視線は毒島から逸れる事は無く、ただただ目の前の相手を打ち倒すそれだけに集中していると言う事だろうか。
毒島の素っ首落としがあと少し強ければ、豚面は後頭部をかち割られ即死していたかもしれない、あと少し弱ければ『狂化』する事無く土俵に叩きつけられていたかもしれない。
何方にせよ、あの一撃で勝負は付いていた筈だ。
目の前で起きているコレはある種の奇跡に近い物だろう、だが何のリスクやコストも無くアレだけの力を使い続ける事等出来よう筈も無い。
「豚面ぁ! 一気に勝負を決めろぉぉぉ! 此処以外に勝機は御座らぬ!」
武勇に優れ俺以上に大鬼や大妖を屠ってきた義二郎兄上も理解しているのだ、豚面のあの力が命を燃やして発している物だという事を。
「毒島ぁぁぁ! 中途半端な真似しやがって! きっちり引導渡してやれや! 長引かせりゃそいつぁ助からねぇぞ!」
と、そんな物騒な事を叫んだのは、解説席の覇闘力だった。
「此処では死や怪我は全て神の力で治るんじゃないんですか!?」
その言葉を聞いて俺は、近くに居る中で最も物を知っているで有ろう人物にそう問いかける。
「……お前の言う通り死にはせん、怪我も治る。じゃが魂を燃やし尽くしたのであれば、例え神仙の御業を持ってしても、それを回復させるのは難しいやも知れぬ」
お祖父様の口から返ってきた言葉は、予想以上に深刻な物だった。
「そんな!? 直ぐに止めないと!」
俺は思わず慌ててそう言いながら立ち上がる。
「馬鹿者、武士が……いや、男が己が矜持を掛けて挑む勝負を何と言って止める積りでござるか? 土俵は言わば戦場、そこに上がるのに覚悟無き者は居らぬわ」
だが、それを引き止めたのは先程、勝負を急げと声を張り上げた義二郎兄上であった。
突き放す様なその物言いに一瞬激昂しそうに成るが、その目から焦燥が溢れ、残った左手は握り締める力が強すぎて、爪が掌を傷付け血が滴り始めているのを見て、兄上も止めたいのを堪えている事が解り、黙らざるを得なかった。
その思いは、豚面と縁深い望奴も瞳義姉上も同じの様で、二人共歯を食いしばって勝負の行方を見守っている。
そして……勝負が動いた! ただ只管耐えるだけだった毒島がその巨体を小さく丸めたまま、一歩、また一歩と、前へ踏み出したのだ。
一発、一発に込められた……と言うか、氣その物で殴りつける様な豚面の攻撃は、並の大人ならば急所へ当たらずとも、一撃で命を刈り取るには十分過ぎる威力が有るだろう。
いや相手が武士でも力士でも生半可な者ならば、とうの昔にその生命を断ち切られている、文字通りの殺す氣を放っているのだ。
それを数十発を超え受けてもまだ、前へと進む力を残しているのは彼が『横綱』へと至る可能性を秘めた『体』を持っている事を示している様に思える。
いや体だけでは無い! よくよく見てみれば、身体を小さく捻り揺らし、受ける衝撃を最小限の動作で往なしている、その『技』もまた刮目するに値する物だ。
そして顔を守る為に差し出された両の腕、その隙間から見える瞳は先程までの消極的な物ではなく、前へと進む覚悟を決めた一人の漢の目に見えた。
「■■■■■■、■■■■■■!!」
散々攻撃を繰り返してもまだ沈まぬ相手への苛立ちか、それとも徐々に間合いを詰められる事への怒りか、豚面は更なる咆哮を上げ渾身の一撃を繰り出さんと右腕を振り上げる。
その一撃が下されるよりも早く毒島は左のガードを解き、豚面の廻しを掴み取り、脇の下へと身を差し入れた。
下手を取る不利を知って尚も、組む事を優先し打撃を無効化する事を考えたのだろう。
確かに、理性を失い技を忘れた今の豚面が相手ならば、張り手の差し合いよりは組んだ方が有利かもしれない。
だがしかし、獣の本能に依る物かそれとも日頃の修練の賜物か、豚面の左腕もまた毒島の廻しを掴み取っていた。
土俵のほぼ真ん中でがっぷり四つに組み合った二人、此処から再び永い力比べへと向かうのだろう。
そう思えた次の瞬間、豚面が上手を引き、強引とも言える投げを放ったのだった。




