二百六十七 志七郎、両雄の入場を見守る事
「見事な寄り切り一本で勝ち上がってきた豚川。しかし流石に小結の嶺上を相手ではそれまで見せてきた様な取り口は封じられ、体格の差を見せつける様なぶちかまし合いの結果危うい所も見せました。決勝ではどの様な勝負を見せるのか?!」
先に土俵上へと上がりゆっくりと身体を解す姿を晒す豚面を見ながら、
「ありゃあ完全に快河の野郎が油断し横着したのが勝因だろうねぇ。奴がもちっと丁寧に勝負を運んで、勝ちを急がなけりゃぁ、また違った展開があっただろ。だがあの一本背負いの見事さよ、がっぷり四つでも良い所を見せたかも知れねぇなぁ」
実況、解説共に準決勝の勝敗は豚面の強さ、と言うよりは嶺上関の不用意さ故の物だと口を揃えてそう言った。
「醜男と呼ぶには、余りにも小柄なその体格差をひっくり返しての決勝進出では有りますが、覇闘力関は、あの豚川と言う浪人者をどう見ますか?」
小兵と称される程度には小柄な豚面だが、それでも江戸の街を歩けば彼よりも小さな男性は決して少なく無い。
寧ろ並の町人や農村部の一般的な男性の平均からすれば頭半分位は大きいだろう。
飽く迄も武士や力士と言った『武』に生きる者達の中で比べば小さいと言うだけだ。
「んー、良い面してるねぇ……ありゃぁ肝が据わってるよ。儂が相手をしても梃子摺るんじゃねぇかねぇ。毒島の奴じゃぁ勝てねぇかもねぇ……」
解説のその言葉に会場に大きなどよめきが走った。
無理も無いだろう、豚面の対戦相手の毒島は西の大関、前評判は間違いなく無特選の豚面より上で、彼の勝利に賭けた者も多い筈だ。
「おっと……東の大関で有り毒島関の好敵手と言われている貴方が、その力を認めますか! それも毒島関よりも上だと!?」
実況の声を聴き慌てて立売箱で賭け札を売る猪山藩の家臣を呼び止める者や、売り場へと走る者が続出している。
「好敵手たぁ、言い難いやな。アレが大関に成ってから此方、儂ゃ負けちゃぁ居ねぇぞ?」
その言葉が本当ならば、覇闘力は現役最強の力士と言う事に成るだろう。
「それは……毒島関の弱点を覇闘力関がご存知で……、それを豚川も理解していると?」
その彼が豚面有利と判断したのであれば、この勝負……勝てるかも知れない。
「ああ……それはな、「おっと! お話の途中ですが、西の花道より毒島悪五郎関の入場です!」…」
言葉の根拠が覇闘力の口から言い放たれるよりも早く、その言葉を遮る様に実況が毒島の入場を告げる。
大歓声に迎えられて姿を表した毒島は、その堂々たる体躯を揺るがす事無く、ゆっくりとゆっくりと歩みを進めていく。
彼は身体の軸を振らさぬ様努めて静かな足取りで進んで居る様に見えた。
その姿からは強者の威厳に満ち溢れている様に感じられる……その表情を見なければ。
毒島の顔は丸でブルドックが遠間で唸りを上げている様なそんな風情である。
そしてその視線は定まる事無く土俵上を右往左往し、完全に浮足立っている事が誰の目からも明らかだった。
「……あの馬鹿たれ。彼奴ぁ今、全ての力士を代表して土俵へと上がるって事が解っちゃ居やしねぇな。アレがあの戯け者が儂に敵わぬ訳よ、技と体は有るから生半可な者相手なら勝てるが、此処一番ってな時にゃぁ心が伴わねぇ」
溜息混じりのその言葉に賭け札を買おうとする動きが更に加速する。
だが中にはこうまで露骨に豚面優勢を口にするのは、賭け率操作の為だと考える者も居るらしい。
「今の時点でもとんとんじゃないの……でも、これ以上の追加は流石に厳しいわねぇ」
それも俺の直ぐ隣に……。
「……と言うか母上、胴元が賭けるのは有りなんですか? それも身内が闘うのに……」
猪山藩と豚面の関係は表立って公表されている物では無いが、義二郎兄上と瞳義姉上の縁談の事を考えれば隠し立てするのも奇怪しな話なのだ。
ましてや母上が手にした賭け札が毒島ならば、下手をせずとも八百長を疑われる可能性が有るだろう。
「あら、今日の胴元は猪山じゃないわ。私達は飽く迄も誉田様に委託された雑貨藩に手を貸しているだけ……だもの。それに私が賭けているのは豚川だけよ、流石にこの状況で身内を応援しない訳には行かないもの」
折角の大穴だったのに……と、母上はさも残念そうに溜息を付くのだった。
「おっと……花道に誰かが現れましたね。誰も止める様子は有りませんが……関係者でしょうか?」
ゆっくりと時間を掛けて進み行く毒島の行く手を遮る様に一人の侍が姿を現す。
力士の邪魔をする様な不埒者が出ぬ様に、雑貨藩の者だけで無く我が猪山藩やその他関連諸藩の者達に依って、花道の周辺は万全の警備体制が敷かれている筈だ。
そこに入り込んで騒ぎに成らないと言う事は、実況の言う通り関係者なのだろう。
何処から見ても益荒男然とした巨躯の毒島に比べるまでも無く、恐らくは豚面と同程度の小さな男では有ったが、その身に纏う気迫は鬼気迫ると言う表現がぴったりと来るそんな立ち振舞だった。
男は一言、二言、小さく毒島に言葉を掛けると……
「この馬鹿野郎が! 歯ぁ食いしばれ!」
そう叫びを上げると気合と腰がよく入った拳が、毒島の大きく付き出した腹に突き刺さった。
「手前ぇは誰の為に土俵に上がるんだ!? 田舎の親父とお袋さんに少しでもいい暮らしをさせてぇってなぁ嘘か? 昇竜にゃぁ、負けても仕方が無ぇってな言い訳が立つかも知れねぇがな、素人相手に無様晒す様なら、これ以上は後援出来ねぇぜ?」
激励と呼ぶには余りにも手荒すぎる一撃だった、力の篭った一発は毒島の身体を浮かせくの字に折り曲げる。
並の者が食らったならば先ず間違い無く悶絶するどころか、内臓を傷付け命に関わる可能性すら有るその拳を受けて、尚毒島は蹲る事すら無く堪えて居た。
「あらやだ……雑賀の御殿様じゃないの。直接気合を入れに行くなんて、アレは反則よぉ!」
前世では世界的に有名だった絵の様な表情で叫び声を上げる母上は置いておいて……花道では一発入れた御殿様が更に毒島の両頬を張り、
「相手の事情なんざぁ知った事か! 華を持たせる? 勝たせてやる? 馬鹿な事考えるんじゃねぇぞ! 勝負に義理や情けを掛ける様な真似をすりゃ、その方が余程失礼ってなもんだ! 命懸けで這い上がって来た相手だ、全力で迎え撃つのが礼儀だろうよ!」
そう怒鳴りつけた。
「……毒島の奴ぁ、その面や名前に似合わず優しすぎるのが欠点でね。角番の力士やら、老いて引退間近の力士相手にゃぁ、本気の角力が出来ねぇってなもんだ。死に物狂いで来る相手に気後れしてるってな部分も有んのかも知れねぇがな……」
二人のやり取りに騒然とする会場に対して説明するかの様に、解説の声が響き渡る。
「ですが今ので気合が注入された事で、状況は変わるのでは?」
現場で怖気付いた新人を相手に気合注入は俺も前世では何度か経験が有る、その一発で全てが解決する訳では無いが、取り敢えずその場凌ぎ程度の効果は見込めるのだ。
だがそうして無理やり働かせた者に大役を任せる事は出来ない、往々にして大きなミスをやらかすので、必ずベテランがフォローできる様に配置を弄る必要が有る。
けれども一対一の角力の場、一度土俵に上がったならばそれ以上の手助けをする事は出来ない、果たしてこの手荒すぎる激励は吉と出るか凶と出るか……
「さぁ、今度こそ毒島が土俵を上がっていきます! いよいよ決勝戦の火蓋が切って落とされます!」
三日間と言う短い時間ながら数々の激闘を産んだ大会の、大取りを担う一番が始まろうとしていた。




