二百六十四 志七郎、名勝負を目にし氣を纏う事
小兵で有る豚面は、低いぶちかましから相手の懐へと入り込み、廻しの前部分――前みつと呼ばれる所を両手で取って、踏ん張りが効かぬ様に上方へと釣り上げつつ寄り切る、と言う取り口でこの準決勝まで勝ち上がってきた。
だが嶺上は豚面を侮る事も無く、良い所を取らせぬ為に豚面同様の低い低いぶちかましで迎え撃ったのだ。
双方全力全開で繰り出されたぶちかましが打つかり合ったその結果、体格で勝る嶺上が優位を取る事と成る。
当たり負けした豚面の身体は後方へと弾き飛ばされ、その姿勢も大きく仰け反る形となり、あとほんの少しだけ押されただけでも、土俵の外に尻もちを付く事に成るだろう。
誰もがそう思わざるを得ない、それほど完全な形での当たり負けだったのだ。
そしてそれは土俵上の嶺上も同じだったらしく、軽く止めを刺そうと右の腕を豚面の顔面目掛けて突き出していた。
だがそれが勝負の分かれ目と成る。
嶺上が横着せず、しっかりと止めを指す為、身体ごと前へと出れば結果はまた違って居ただろう。
しかし勝負は覆らない。
一瞬の判断で勝負が決まってしまうのが角力なのだ。
豚面は不用意に伸ばされたその突きを、身体を撚る事で躱しつつその腕を掴み取り、嶺上の腹の下へと腰を潜り込ませ……そして投げた。
これが柔道ならばその技は決して珍しい物では無い、寧ろ自らより大きな相手に仕掛ける技としては一般的な技だろう。
体格で劣る日本人がその技を武器に五輪で金メダルを目指す、と言う筋立ては、漫画小説問わず柔道を扱った作品が幾つも有ったと思う。
だが前世の相撲では八十二の決まり手の中に含まれては居る物の殆ど見る事は無い、そんな技である。
担ぎ上げられた嶺上の両足が綺麗な弧を描いて、土俵の下へと投げ落とされる。
そう豚面が繰り出したその技は、一本背負いで有った。
思わず『一本!』と声を上げたく成るような完璧な形での一本背負投に、観客達は一瞬沈黙し……それから爆発的な歓声が沸き起こる。
立合いで当たり負け得意の取り口を封じられ、絶体絶命かと思われた状況からの逆転劇だ、見る者達がその勝負に魅せられるのも仕様が無い事だろう。
「めぇん~ざぇも~ん!」
行司の持つ軍配が西側へと向けられ勝ち名乗りを上げる、この瞬間豚面の決勝進出が決まった……誰もがそう思った、だが……
「えー、実況席からお知らせ致します。今の一番に対して軍配の結果に物言いが付きました。豚川が見事な背負を繰り出しましたが、その際嶺上が土俵下へと落ちるよりも早く、豚川の足が出ていた様に見えたとの事です」
そんなアナウンスが流れ、歓声が一転して騒然となった。
「それでは今の一番を再現影像で見てみましょう、双方見事な立合いからのぶちかまし、額と額が振れる事無くぶつかり合い、双方共に額が割れた様で鮮血が舞っています」
土俵上に現れた青く半透明な幻影は、先程の二人の動きを忠実にだが誰の目にもはっきりと見える様にゆっくりと再現を始める。
アナウンサーの言葉通り先程は気が付く事が出来なかったが、弾かれ仰け反る豚面の額からははっきりと血が飛び散り、当たり勝ちした嶺上の顔にも一筋、血の雫が流れだす。
そして豚面が体勢を立て直すよりも早くもう二歩踏み込んだ嶺上が右腕を鋭く突き出すが、踏み込みから突きを繰り出すまでの間に一瞬では有るが嶺上の動きが止まる瞬間が有った。
額から流れ出した血が嶺上の右目に流れ込んだのだ。
双方共に氣に依る意識加速が行われているで有ろうその状況では、文字通り一瞬する時間すらも命取りで有る。
事実、豚面はその瞬間には相手の動きを見極め、躱し捕らえる為の動きを始めていた。
掴み跳ね上げた、その時点では豚面の足は俵の上には乗っかっていたが、未だ土俵の外へは出ていない。
嶺上の身体が宙を舞い、完全に投げ上げられたその状態でも、未だ俵の上に残ったままだ。
その巨体が土俵の端を擦る様に落ちていくこの瞬間、豚面のつま先が俵を越え土俵を割った、嶺上の身体が土俵下の地面に着いたのはその後だった。
「おーと、これは……豚川の足が先に出ている様に見えますね……。如何でしょう解説の覇闘力関?」
ちなみに今日の解説は、今大会は不参加の東の大関、毒島の好敵手だと言う、覇闘力昇竜関で有る。
「いや……影像を見ると……、嶺上の髷が土俵の端を掠めてるな……。これは軍配通りでしょう。それが無くとも、これだけ完全に投げられたんだ。本職の力士としての誇りがありゃぁ、勝ったなんて口が裂けても言えねぇやな」
彼のその言葉を受けてか、会場を無数の大きな溜息が包み込む。
その言葉通り嶺上の髷が一等先に土が着いた、と結果が下された様で改めて豚面が勝ち名乗りを受け、晴れて決勝進出が確定した。
二試合続けて行われた準決勝は双方共に、熱戦とか名勝負等と称するに相応しい闘いで有り、観客席の興奮は極限まで高まっている様に思える。
だが夕刻に執り行われる事になった決勝戦までの数時間は、その熱狂を覚ますには十分過ぎる時間だろう。
場繋ぎとして急遽執り行わる事が決定した『わんぱく角力』は、子供たちの勝負で有る以上、本戦ほどの高レベルな戦いには成らず、寧ろ子供らしいほのぼのとした物に成る事が予想されていた。
流石に子供の戦いに銭金を賭ける様な事は憚られる様で、わんぱく角力は賭博の対象には成っていない。
その為、我が藩の家臣達に手隙と成った者が居たが、彼らには立売箱を担がせて売り子に勤しんで貰う事に成った。
その結果俺の手は空き……
「志七郎、まぁ、そのなんだ……頑張れ」
「先手だ! 先手を取るのだ! 豚面の取り口を思い出すでござる!」
「猪山男子足る者負けは許さ……無いとは言いたいけれども、相手が悪過ぎるわねぇ」
「勝っても負けても此処なら怪我の心配は無ぇし、気楽に行くの」
「いやー、麻呂ももう一歳若ければ参加出来たでおじゃるが残念ながら十三歳では参加出来ぬでおじゃる。麻呂の分まで頑張ってくりゃれ」
「……幾ら焼いても、どんどん売れていくにゃ。材料は足りるけど、流石に疲れて来たにゃ……」
そんな声に見送られ、何故か廻し一丁で土俵の上に居た。
急遽行われ参加者を募ったわんぱく角力だったが、流れ氣砲やら氣と氣がぶつかり合う衝撃やらで、その場に居る事すらも命懸けと言えるこの場所に居る子供など然程多い訳も無く、大会主催者の一角として名を連ねる我が藩から参加者を出さざるを得なかったのだ。
上四人はまぁ真っ当な声援と言えるだろうし、年齢制限的にも大きくハズレるので仕様が無い……。
だが信三郎兄上……手前ぇは駄目だ。
口では残念とか言っておきながら、参加資格外で有る事を喜んでいるのが表情から丸わかりで有る。
……後で絶対痛い目を見せてやる、そんな事を考えながら一つ息を吐き、視線を目の前の相手へと向け直す。
恐らくは年齢制限一杯の十二歳、それも年末生まれなのだろう、体格は比べるまでも無く俺よりも数段大きく、豚面と嶺上の二人以上の体格差が有った。
相手は五尺三寸程は有るのに対し、俺は三尺五寸に届くか届かないかと言う所だ。
しかも彼は若いながらも見事なあんこ型、体重は倍では利かないだろう。
この取組を決めた責任者出てこい、と声高に言いたい気分で有る。
「ひがぁしぃ、隈田ぁ伊織ぃ。にぃしぃ、猪河ぁ志七郎ぅ!」
改めて呼出の声が響き渡り、
「見合って! 発氣用意!」
仕切り線を挟んで、身構え……
「残った!」
立ち合った。




