二百六十二 志七郎、珍しきを口にし 豚面、闘志を燃やす事
流石に二日続けて焼き肉と言う事も無く、かと言って料理に手を割く余裕は家中には無かった。
となればそれを解決したのは家外の者である。
当初母上は適当な料亭の料理人を呼ぶつもりだったのだが、大会運営の為に走り回る家臣達や、台風の目と成って賭けの倍率を荒らす存在となった豚面を慰労する為に取って置く様進言した者が居たのだ。
それぞれ一人ひとりのお膳に陶製の小さな鍋が蝋燭の火で炙られており、中からは小さく煮立つ音が聞こえてくる。
通常ならば鍋の他にもお造りや飯、椀物等が一緒に並ぶのだろうが、今日は鍋以外には一口サイズに切り揃えられた腸詰めや芽花椰菜、固く焼かれた麺麭と、普段口にする事は少ない食材が積み上げられていた。
中には人参や海老と言った見知った物も有るのだが、添えられた長い肉叉を含め見慣れぬ料理に他の者達は一様に戸惑いを隠せぬ様子である。
「折角お花様が用意くださったのです、頂きましょう。確か鍋の汁を付けて食べると言うお話でしたね」
母上がそう言いながら恐る恐る鍋の蓋を開けるのに習って、皆が一斉に蓋を取る。
中には純白のとろみ有る汁が、くつくつと湯気を立てていた。
前世にこの料理を口にした事の有る俺は、躊躇する事無く小玉赤茄子に肉叉を突き立て、鍋の中へと突っ込みよく溶けた乾酪を絡めて口へと運ぶ。
乾酪の濃厚な味わいが口一杯に広がり、湯気から感じられた乳臭さ以上に大蒜の風味がガツンと鼻に抜ける。
かと言って具材の持つ味わいが塗りつぶされる事も無く、しっかりと主演を引き立てる存在感の有る助演俳優と言った所だろうか。
そう今日の夕飯はお花さんが用意した乾酪鍋である。
基本的にこの江戸では日持ちのしない乳製品は然程流通していない。
乾酪や牛酪が無い訳では無いが、それらは洋食屋等の専門店にでも行かなければ、中々口にする機会は無い。
一応、火元国でも蘇や醍醐と呼ばれる乳加工品が有るらしいが、それらは生産地か若しくは京の帝や公家でも無ければ好んで食べる様な物とは見做されていないらしく、家臣達の大半は慣れぬ乳臭さにおっかなびっくりと言う様子であった。
中には鼻を摘みながらとか、目を閉じてとか、少々どころでは無く失礼な姿を晒す者も居たが、それらも一口目を過ぎてしまえば、乾酪に付けられたにんにくやワインが織り成す風味に、乳臭さに対する忌避感を忘れた様に次の素材へと肉叉を伸ばしていた。
「どうかしら? この国の方々は牛乳をあまり口にしないから、食べ慣れない感じはするでしょうけれども。あ、苦手な方は無理をしないでね、一応少しだけだけど麺も用意してあるから」
お花さんがそう言いながら、台所からおかわり用の食材を持って来る。
幸いな事に好き嫌い無く何でも食べるのが、強い男への近道だと幼い頃から躾けられている猪山の子弟には、食べられない程に乾酪を苦手とする物は居なかったらしく、彼女の気遣いは無駄に成りそうな感じだった。
「口にすれば湯気から感じる程の臭みも無く、これはこれで美味いですな」
「これが一郎が幼き頃に良く口にしていた乾酪鍋ですか……何やら力の付きそうな味でござる……」
と、返事の言葉も決して取り繕う様な物ではなく、皆素直に楽しんでいる様子が見て取れた。
お花さんの言に拠れば、世界樹に住む森人達にとって乾酪は無くては成らない食材で有り、特に世界樹の落ち葉を食べて育った牛の乳から作られた、ソレは臭みも癖も無く濃厚な旨味に優れるのだと言う。
今日使った物は世界樹に有る彼女の館に住まわせている霊獣を召喚し運ばせた物で、今日は此処には居ない一郎翁が幼い頃よく食べた、彼にとっては言わば母の味とでも言うべき料理なのだそうだ。
「皆の者、心して食えよ。これは白葡萄酒やら白胡椒やら、この国で買おうと思えば生半可な値付けでは済まぬ物が色々と使われている故な。ワシも久し振りに食ったが……」
悪戯っぽい表情を浮かべながらお祖父様はそう言いながら、大きく育った物を四つ切にした作茸を一つ口にし、黄金色に泡立つ林檎酒を口にした。
「美味い! 作茸が絶品じゃのう。林檎酒も久々に呑んだがこれ程爽やかな味わいの酒は他には有るまいな!」
その横では引き攣った笑みを浮かべながら黙々と食材を口に運ぶ仁一郎兄上の姿が有った。
「明日はとうとう最終日だが……勝算は有りそうでござるか?」
食後のお茶――此方も世界樹でよく飲まれると言う、薄荷に良く似た風味のハーブティを口にしながら、義二郎兄上が豚面に問いかける。
「はっきり言いまして……全くわかりゃしまへん。一回戦から此方、楽な相手は一人も居らへんかったし、此処まで勝ち抜いて来た者が弱い訳もありゃしまへん」
一回戦で戦ったクラウザー氏は組技の神様なんて呼ばれる程の実力者で有り、二回戦では平幕とは言え幕内の本職、三回戦で戦ったのは確か豚面よりも小柄ながら凄まじい膂力を見せつけた山人が相手だった。
四回戦は竜人の格闘家に体格の差から遠間から繰り出される突きの連打を受け、ノックアウト寸前まで追い込まれ、それでも愚直に前へと出続けた豚面が顔を大きく腫らしながらも最後の最後には組み付き寄り切り準々決勝への権利を勝ち取る事と成る。
「次は小結の嶺上快河……、今大会参加者の中でも毒島と並んでの強敵だね。まぁ此処まで来ただけでも儲け物、今日までの稼ぎで十分に一財産さね。後は悔いを残さない様に気楽にやんなよ」
元々角力通らしい瞳義姉上は、流石に相手が悪い勝てなくて元々なのだ、とそう言うが……。
「……いや勝負で有る以上、負けて悔い無し等と言う事は無いでござろう。最初から負けると思って挑む事程馬鹿らしい事は無い。やるからには勝つのでござる」
それを否定したのは義二郎兄上である、そしてその思いは豚面も同じだったようで、以前の自信が無く誰かの考えに縋る様な目とは違う、静かながら闘志を秘めた強い目で兄上を見返し……
「ワテの勝利を……旦さんと猪山の皆さんに捧げなあきまへんな……、きっとソレが最高の結納品でまんねん」
と、力強くそう口にした。
それは尚武の気風が強い我が藩の男達には最高の返答だった様で、
「よくぞ言った! それでこそ猪山……のでは無いが、男だ!」
「よし! お前の優勝に小遣いを全部賭けるぞ!」
「雑貨の青瓢箪供に目に物を見せてやれ!」
皆が大きな盛り上がりを見せる。
「神域での取組には誉田様のご加護が有る、怪我も死も恐れる事は無い。それ故に躊躇無く命懸けの気組みで挑める者も居れば、緊張感を失う者も居るが……角力は心技体全てが物を言う、此処まで来た本職が気の抜けた勝負をする事は無かろう」
大きな騒ぎを見せる皆とは対照的に一人静かに茶杯傾けていた仁一郎兄上が、目を閉じたままそう口にした。
「上背の無いお前では、勝ち上がっている者の誰が相手だろうと体では劣る、本職で有る以上、技もお前に勝る事は有ろうとも劣る事は無いだろう……。ならばお前が勝ち得るのは心の強さ以外には無い」
その言葉からは普段の寡黙さが嘘の様に、深い実感と生の感情が持つ熱さの様な物が感じられた。
「技が、体が足りなければ心で埋めろ! それが出来なんだが故に……俺は岳様に勝てなんだ。相手は父上の好敵手、負けてもしょうが無い、と心の何処かで思っていたのだろう。だが俺には再戦の機会は今後も有る……が」
盛り上がっていた皆も兄上の言葉をただ静かに聞き入っている、流石は次期藩主と言う事だろうか?
「お前が彼らと闘う機会は、これが最初で最後と心得よ。主筋では無い俺が、それも年長者相手に言う言葉では無いが、其方の勝利を我が藩へと捧げると言うならば、筋違いでは無いだろう」
そこまで言い切り、再び茶杯に口を付けると、豚面はそれまで以上の闘志を漲らせた面持ちでただ無言で一つ頷くのだった。
諸般の事情により、次回更新は月曜深夜予定と成ります。
お待たせして申し訳ありませんが、予めご了承下さいませ。




