二百六十 志七郎、兄弟姉妹の縁談事情を知る事
「一寸! 何時まで待たせるんだい? いい加減、私も腹減っちまったよ」
焼け焦げた肉や野菜を片付け、改めて食事を再開しようとした頃、そんな声を上げながら瞳義姉上が姿を現した。
彼女は普段の蹴り技を繰り出し易い様に丈を切り詰めた太腿も露わな着物では無く、艶やかに輝く金と黒の豹柄の地に大輪の白薔薇が絹糸で描かれた、見るからに御高い振り袖を着崩れさせる事無く身に纏って居る。
言葉通り表情こそ怒りを全面に押し出しているが、その立ち振舞は着物を崩したり汚したりしない様に十分な気配りがされている事が一目で解るものだった。
「ありゃりゃんりゃん! 大変失礼ぶっこきました!」
「申し訳ありゃしまへん!」
心底の怒りでは無い事は明らかで有り、その大部分が着慣れない装いに対する照れ隠しだと言うのは誰の目にも明らかだったが、それをわざわざ指摘する様な愚か者は居らず、彼女の家臣達は即座に謝罪の言葉を口にする。
「ふむ……野生の猛獣の如き普段の躍動感煽るる姿も美しいが、その様に豪奢に着飾った姿は旗本の姫に相応しい物にござるな。腹が減ったのでござろう? それがしの隣が空いておる、さ……座ると良い」
それにワンテンポ遅れ、歯が浮きそうなそんな言葉を義二郎兄上は真顔で言い放つ。
ちなみに兄上の横は空いて居るのでは無く、瞳義姉上が姿を現した時点で周りの者が気を使い、少しずつ膝送りし空けたので有る。
「一寸お待ちなさいな。その格好のまま座ったら着物に脂が飛ぶわ。折角買い戻した御母堂様の形見の品でしょう? 火の側では無く縁側に座って運ばせなさいな」
だが瞳義姉上がそちらへ足を向けるよりも早く、母上がそう声を上げた。
母上の見立て通り、瞳義姉上の母が豹堂家へと嫁入りする事が決まった時に反物から特注した品だそうで、その着物は一家離散の際に豹堂家が懇意にしていた商人が買い取り、それを質に流したりせず、長い事大切にしまっていてくれた品なのだと言う。
その存在は以前から知っており、またその商人からは赤字も赤字の大赤字と言った価格で、買い戻す話を持ち掛けられて居たのだそうだ。
しかし幾ら恩義故の事とは言え、本来の価値に見合わぬ様な額で買い戻す様な事をすれば、二度と武士を名乗る事は出来ぬだろう、と今の今まで取り置きのままだったらしい。
「……義二郎、何をしておる。お前も向こうへ行け」
母上の言葉通り中庭に面した縁側へと向かう瞳義姉上を見送り、再び焼けてきたホルモンに箸を伸ばす義二郎兄上に、仁一郎兄上がそっと囁くのが俺の位置からは聞き取る事が出来た。
「……臆面も無く先程の様な台詞を吐ける癖に、何故側に居る事が思い付けぬのか」
慌てて立ち上がり、追い掛けていくのを待って仁一郎兄上が溜息混じりにそう口にする。
「……むしろ仁兄上が、女性の気持ちを理解しておる様な事を言えるのが驚きでおじゃる」
……正直、同感だ。
仁一郎兄上は義二郎兄上に比べ交友関係が非常に狭く、口下手で人間関係を気にする様な付き合いを苦手とし、動物と触れ合う事を最優先にする……そんな人物だと言う印象が強い。
次期藩主として必要となる外交的な付き合いは兎も角、女性を気遣う様なタイプだとはとても思えなかった。
「……今の様な状況で千代殿を放って置けば、後が面倒な事に成るのは明白だろう。女子は往々にして根に持つものだからな」
久々に顔色を読まれた様で俺が口を開くよりも早く、先程よりも深い溜息と共にそう言われては、納得する事しか出来なかった。
「にしても、良く一目で形見の品だと解りましたね」
仁一郎兄上が放つどんよりとした雰囲気を変える為、俺は母上にそう話を振る。
「あら、あれだけあからさまな物を見て解らない訳が無いじゃない」
すると若干呆れが混ざった様な様子でそんな言葉が返ってきた。
前世とは違い吊し売りという物は無く、新品の着物は反物を買い求めて仕立てる
物なのだ。
当然ながら新たに仕立てるには相応の時間が掛かるので、大きな稼ぎが有ったその日にあれだけ高価な着物を手に入れる事は先ず出来はしない。
古着の流通が無い訳では無いし、損料屋と呼ばれるレンタルショップの様な物から借りる品と言う事も考えられるが、母上の見立てに拠ればあの着物は帝錦と呼ばれる最高級の逸品でそうそう出回る物では無いのだそうだ。
「……あの柄を見た時には、立嶋家からの品かと思ったのですが」
母上の見解に仁一郎兄上がそう口を挟む。
兄上に拠れば河中嶋藩の年配女性は豹柄を好んで着る為、一目見た時には千代女義姉上から瞳義姉上に対して『年増』と言う嫌味の為に贈られた物だと思ったのだそうだ。
「河中嶋の豹柄では錦糸が使われている事は先ず無いわ、彼処は上から下まで銭の使い方が渋いからね。ましてやそんなくだらない真似に大枚叩く様な事はしないわよ」
兄上の中で千代女義姉上は一体どんな悪女なのだろうか……?
「寧ろそう言う遠回しな嫌がらせの類は、京の公家連中の専売特許じゃろな」
更にお祖父様が、苦笑いと共にそんな台詞を吐く。
「何故そこで皆、麻呂を見るでおじゃるか」
お祖父様の言葉に反応し信三郎兄上に視線を向けたのは俺だけでは無かった。
「いや兄上の許嫁はそのまんま京の公家じゃないですか……」
そう俺が言えば皆が皆うんうんと首肯するが、
「いやいや、宇沙美は素直な良い子じゃぞ……未だ」
と、発端を作ったお祖父様が否定の声を上げる。
安倍宇沙美姫、と言うのが信三郎兄上の許嫁で、父上の姉の娘と言う事で俺達の従姉妹に当たるのだそうだ。
御年八歳の彼女は、お祖父様の言に拠れば歳相応に素直で優しい良い子なのだそうだが……。
「……あれが素直ですか?」
ぼそりと仁一郎兄上が呟く、兄上達が京に滞在している間に何度か顔を合わせ、その際に色々と思う所が有ったようだ。
「……な、なんかえらい言われようでおじゃるな。麻呂はそんな者と縁付くのでおじゃるか」
殆ど物心付いた頃から許嫁とされ、文通以外で相手の事を知らぬ信三郎兄上が、二人の言葉を聞き不安に唇を震わせながら、そう言った。
「安心しなさいな、百点満点の女なんてこの世には居やしないわよ。女なんて多かれ少なかれ裏表の有るものよ。むしろ良い面しか見せない女の方が余程信用出来やしないわよ」
全くもって安心出来はしない、そんな身も蓋も無い事を言ったのは礼子姉上だった。
彼女は既に十分食べたと言わんばかりに、食後の茶を啜りながら冷めた目で信三郎兄上を見やる。
「とは言っても、満点が居ねぇのは男も一緒なの。皆多少なりとも妥協を重ねて生きてるもんなのよ……」
しみじみと智香子姉上が、続けてそんな言葉を口にするが……
「そら言う通り、欠点の無い人間なんてのは居やしないけれども……、江戸一番の残念女が言う台詞じゃあ無いわねぇ……」
母上が深い深い溜息を付いてそんな事を言い放ち、その場に居る多くの者がうんうんと首肯する。
「貴方このままだと、本気で行き遅れるわよ……。睦にだって幾つも縁談話が来てるのに、貴方にはもう暫くそんな申し入れが無いんだから……」
今まで何度か見合いをし縁談を進めた事は有るのだが、その度に江戸の内外で爆発やらなんやらの騒ぎを起こし、結果破談を繰り返したのだそうだ。
その為、金の成る木とも言える錬玉術師では有るが、騒動の種を身内に抱え込む危険が勝ると、思われているのだと言う。
「……本当に何とかしないと、睦にも先を越されるわよ。志ちゃんの祝言に振り袖で参加する様な事は無いと良いのだけれど……」
溜息と共に絞り出す様な声で言う、その言葉は苦悩と苦渋を煮詰めた様な苦々しい物だった。




