二百五十七 志七郎、炎を燃やし運命を思う事
会場をどよめきと歓声が包み込んだのは、追加分の麦酒を搬入し終わり、休憩を取る義姉上に変わって俺が焼き場に入って少しした頃だった。
「なんと! なんと! 大番狂わせが起こりました! 掛け率九割五分対五分と圧倒的有利と思われた、北大陸の勇『組業師』かぁる・くらうざーが! なんの前評判も無い小さな浪人者に破れましたぁぁぁあああ!」
一拍遅れて響き渡るアナウンスと共に、観客達によって羽織が次々に土俵や花道へと投げ込まれる。
「優勝候補の一角と目されていたくらうざーが! なんと、なんと! 初戦敗退! 勝者は浪人 豚川! 豚川面左衛門の勝利です!」
そんなアナウンスの声に驚き、顔を上げ土俵を見やれば、その言葉の通り豚面が勝ち名乗りを受けていた。
折角の身内の試合だと言うのに、焼き鳥を焼くのに夢中で全く見ていなかった……。
前世にはアルバイトの類をした事が無いが、高校の学園祭で焼き鳥屋の模擬店を出した事が有った。
俺があの日命を落とすまで付き合いの有った友人達との数少ない楽しい思い出で有る。
あの時は後に飲食店を経営する事に成る友人が焼き場の責任者と成り、彼の指示を受けながら俺達が焼き鳥を焼いたのだ。
その時はガス式の焼台がリースされており、火の強さが常に一定だったので、今日の様に火の勢いを団扇で調整する様な手間は無く、片手間とまでは言わずとも今ほど集中しなければ焼き方にムラが出る様な事は無かった。
だが今使っている焼台に入っている炭火は、扇ぎ過ぎれば途端に熱く成りすぎ、足りなければ直ぐに弱くなってしまう。
それに時折肉から滴り落ちる脂が燃え上がるのも困り物だ。
強火で一気に表面を焼き上げた後、弱火でじっくり中まで火を通す、と言うのが上手い焼き方だと前世の友人には言われたのだが、それを炭火でやるのは今の俺では完全に出来ているとは言い難い。
そんな訳で、余所事を考えたり他所見をしている暇が無かったのである。
「ああっと! 此処で勝負の結果に納得が行かないのか、くらうざーが凄まじい形相で歩み寄ったぁ!?」
土俵に気を取られて、焦がしたり生焼けにしては拙いと、再び炭火に集中しようと視線を落とした瞬間、またも気を向けざるを得ない事を口にした。
その言葉の通り、義二郎兄上と同程度六尺程の黒髪の白人男性が、鬼のような形相で乱暴に行司を押しのけ、土俵を下りようとしていた豚面へと歩み寄って行った。
対する豚面は、勝利への喜びもこの状況への焦りの様な物も感じさせない、努めて無表情な顔で彼の視線を受け止める。
歓声と怒号、そして炭火の弾ける音ばかりが耳に入り、クラウザーが何を口にしたのかは解らない。
だが豚面に対して何かを言った事は間違い無かった。
豚面は火元語以外の言葉を学んだ事は無い筈で有る、だがそれでもその言葉を理解する事が出来ないと言う事は無い。
此処は世界樹の中『神域』で有る、此処ではありとあらゆる者の意思が世界樹によって瞬時に翻訳されて相手へと伝わる為、例え言葉を話す事が出来ない者同士だとしても完全な意思疎通が出来る場所なのだ。
それに対して豚面が一言、二言何かを返すと、クラウザーは打って変わって相好を崩し豚面の手をガッチリと握りしめた。
「ししちろー! 燃えてるにゃ!」
一際大きな歓声が響き渡る中、不意に睦姉上が悲鳴にも似た叫びを上げる。
「え? 燃えて……、ってうわぁ!」
ほんの少し土俵に気を取られていた間も、俺は無意識に団扇動かしていたらしく、炭火は真っ赤に燃え上がり、そこに滴り落ちた脂が燃え上がった火が、焼台の上に乗っていた焼き鳥に燃え移って居たのだ。
慌てて火箸を手に取り焼台の上の燃えている串を取り払う。
結果、延焼こそ避けられたものの、今焼いていた分は全滅していた。
「火の前に居る時に気ぃ抜いたら危ねーのにゃ! お姉ちゃんが変わるから、ししちろーは売り子に行くにゃ!」
何故か妙に嬉しそうにそう言う睦姉上に場所を譲り、立売箱を抱えて再び売り子仕事に戻るのだった。
「ボン! 焼き鳥と握り飯、四人前。支払いは付けといてやー」
売り声を上げながら席の間を歩いて居ると、聞き覚えのある声でそんな言葉を投げかけられた。
「はいよ」
返事を返して振り返ればそこに居たのは、長着を羽織るだけで帯すら絞めていない豚面が、同じような格好の白人男性と並んで立っていた。
「コレが火元国の伝統的な屋台料理でまんねん。さっき奢ってもろた腸詰め挟み麺包玉菜の漬物入りも美味かったけど、コレも上手いんやで」
豚面は商品を受け取ると、そう言いながらそのうちの半分を、一緒に居る男へと手渡した。
「ふむ……木の葉を包装紙代わりにしているのか……中々に興味深い」
そこに居たのはつい先程まで戦っていた、あの白人男性クラウザー氏その人だった。
角力の世界ではあんこ型の小兵と称されるだろう豚面に対して、長身のクラウザー氏は全身無駄なく鍛え上げられたそっぷ型と呼ばれる様な体型で、こうして並んでいると非常に対照的に見える。
江戸では殆ど見掛ける事の無い白人系のクラウザー氏と、典型的な火元人と言うように見える豚面、そんな二人が手にした料理を口にしながら談笑する姿は、丸で前世の日本に居る彼のような錯覚を俺に与える物に見えた。
「……成る程、ただ鶏を串焼きにしただけの物……という訳では無い様だな。タレの味もバーベキューソースとも違う……確かに美味い。だが、これはライスボールよりもヴァイスと合わせる方がより美味いのではないかね?」
焼き鳥と握り飯を頬張り、咀嚼する間に口を開く様な無作法な真似はせず、しっかりと飲み込んでから、人好きのする笑みを浮かべクラウザー氏がそう言った。
「麦酒は有りますが、そちら様の様な本場の方に自信を持ってお勧め出来る様な物では有りませんよ?」
視線が立売箱の中に有るビール瓶に注がれている事は、誰の目にも明らかだった。
北大陸はビールの本場で日常的に飲まれる飲料の大半はビールなのだ、そんな場所で作られる物と一部の者が趣味的に作っているだけの火元麦酒ではレベルが違うだろう。
謙遜ではなくそう考えて口にした言葉だった。
「ほなら、麦酒も二本ばかり頂戴いたしまひょ。後で北の大陸の麦酒も買うてこなあきまへんなぁ。向こうの味にも慣れなあかんやろし」
豚面がそう言ったので瓶を栓を抜いてそれぞれに手渡す。
軽く瓶の底をぶつけ合い、喉を鳴らして流し込む。
「ふぅ……極東のビールも中々悪くない。後は火元酒の良い所を試してみたいが……、それは彼らが北大陸へとやって来た時の土産に期待するとしようか」
手渡したのは三合と前世の所謂『中瓶』よりも少々大きな物なのだが、クラウザー氏はそれを一気に呑み干すと、物足りなさ気な口ぶりでそう言った。
「……このお人、虎先生のお知り合いなんでまんねん。ワテらの事、先生からの手紙で知っとったらしいんや。ホンマにそんなお人と初戦で当たるなんて、世間てのは狭いもんですわな」
……運命を司る神と言うのは、一々全ての人間の運命を個別に設定しては居ないらしいが、俺達の回りは流石に偶然と言い切るのは難しいレベルで、都合の良い事が起こりすぎているのではなかろうか?
朗らかな表情で笑い声を上げる二人を見ながら、そんな風に思うのだった。




