二百五十五 「無題」
大きく股を開き右足をゆっくりと持ち上げる、垂直と呼んで差し支えない高さまで持ち上がったと所でぴたりと動きを止め、数秒を置いて振り上げる時以上の時間をかけてゆっくりと、ゆっくりと振り下ろす。
地に足が着き深く深く腰を落とすと、再び足を持ち上げる。
それは四股と呼ばれる火元人ならば誰でも知っている所作だった。
だが彼が今行っているのは、決して儀礼の為の物ではない。
ゆっくりと時間をかけて行われるそれは、何の器具も使わず行える最高峰の鍛錬なのである。
師走も近い寒空の下だというのに、全身から滴り落ちる汗がその訓練の過酷さと熱の入れようを表していた。
「何時までやってんだい? 朝飯が片付かないじゃないかぃ」
彼は早朝、日が昇るより早く起きると、主筋の者が呼びに来るまでの間、只管ただ只管に踏み続けていたのである。
時間にしておおよそ二刻、黙々と修練を積むには少々長すぎる時間だろう。
「……旦さんとお嬢のはもう済みましてん? 申し訳ありゃせぇへんけど、ワテは後から頂きますわ。後の始末もワテがしておきますさかいに、お嬢は先に済ませておくれやす」
視線すら向ける事無く、四股を踏む足を休ませず、彼はそう言葉を返す。
それは彼が本来取る様な態度では無い、家を失い浪人に身を落としても尚忠義を失う事の無かった男なのだから。
「……随分と気負ってるみたいだけれど、別にお前が本当に大関に勝つ必要なんて無いんだよ? 無理な稽古で身体を壊して、いざ本番ってな事に成る方がよっぽど問題さね」
彼女の言葉通り、彼がこんな無理な修行をしているのは今日に始まった事では無い。
大関『毒島悪五郎』と彼を後援する雑貨藩士と揉めたあの夏の日から、彼は休みらしい休みを取る事無く鬼切りを繰り返し、時間を見つけては立嶋屋敷の力士達との稽古へと出掛け、ただ愚直に修練を続けて来たのだ。
「……勝たなあきまへんのや。旦さんを豹堂の婿に迎える以上、ワテは豹堂家中の者としてキッチリ結納分を稼がにゃあきまへんねん」
未だ権勢を誇っていた頃成らば兎も角、現在の豹堂家には財産と呼べる様な物は殆ど無い。
そんな事は百も承知の上で猪山はこの縁談を切り出し、受け入れたのだ。
今更結納品の多少をどうこう言う事は無いだろう。
力関係がはっきりとして居り、豹堂と言う名を売る様な縁談なのだ、中途半端に無理をする方が猪河家の名を汚す事にも成り兼ねない。
そんな状況を覆す可能性が有るのが、今回雑貨藩と掛け合った結果開催される事に成った、年末大奉納角力なのだ。
年六回開催される武神誉田様が主催する本場所には、氣孔使いで有る事、人類である事、専業力士として番付表に名が有る事……等々、幾つかの参加条件が有り、豚面はそれに該当しないが故に、本来ならば毒島関と彼が直接戦う事は無い。
だが今回の大会ではその参加条件が緩和されており、世界中の強者達へと大々的に参加募集をした結果、己の力に自信の有る者達が多数集まる事となった。
そんな世界最強を決める様な大規模な大会となった以上、猪山お得意の博打が催され無い訳も無く、豚面は此処数ヶ月の鬼切りで貯めた全財産を自分に張る事で、一発大きな稼ぎを得ようと考えたので有る。
「考えるのが苦手な豚面にしちゃぁ良く考えた方かも知れないけどねん、阿呆の考え休むに似たりたぁよく言った物なのねぇ」
姿を表わすなり溜息混じりにそんな事を言ったのは、彼らの頭脳担当で有る望奴だ。
「あっし等が言うこっちゃ無いけれど、豹堂の名にゃぁ一銭の価値も無ぇのが実情なのねん。それどころか敵の多かった豹堂が再興し、それが身内に成るってんだから、むしろマイナスの方が多いくらいなのよ」
豹堂家が担っていたのは幕臣諸家の不正監査を担う目付と言う役職だった、その役目柄他家に対して言われもない猜疑の目を向けざるを得ない事も多々有った。
結果、抜荷や謀反が発覚し大きな問題に成る前にその芽を摘む事に成功する事も有ったが、それ以上に痛くもない腹を探られた諸家から恨みを買う事の方がずっと多かったのだ。
「それを多少の銭を積んだくらいじゃぁ、帳消しになんざぁ出来やしないのね。むしろあっし等は目立たねぇ様に、静かにしてる方が猪山への恩返しの早道なのねん」
望奴の言う通り、大きな注目が集まるであろう大会で、自身を豹堂家中と称して目立つ様な事が有れば、往年の豹堂家に恨みを持っていた者達の中に燻っていた憎悪の念を再燃させかねない。
主家の……瞳夫妻を主君とする豹堂家の再興を願うのであれば、恥を忍んでその身を慎むのも選択の内だろう。
「……正味な話、結納ちゅーんは建前でんねん。ワテ、ホンマは武士に成るより、力士に成りたかったんや。ワテの頭じゃ家をどうこうなんて出来やせぇへんからな……」
豚面は……豚川面右衛門は、豚川家が存続していれば部屋住み三男の立場で有り、養子話でも無ければ武士で有る事を止め、力士として身を立てる事も決して不可能な話ではなかった、むしろ瞳を巡る騒動が無ければ、そうなって居ただろう。
離散した時点で武士で有る事を捨てさり、その道へと進む事も出来ただろう。
だが瞳を望奴一人に任せる事を良しとせず、自らの内に燻る角力の道への思いを押し殺し、今の今まで生きていたのである。
その彼が今、己の矜持を捨てる事無く、全身全霊を以て角力を取る事が出来るのだ。
胸中に並々ならぬ滾る物が溢れ出すのも仕方の無い事だろう、同じ男として共感せざるを得ない。
翻って自らを鑑みれば、仲間や友、家族の為に彼の様に自らの思いを、願いを胸中に仕舞い込んで生活する事など出来ようか。
家を継ぐ立場に無く、所詮は何事か有った時の予備に過ぎないと、己が如何にも浅慮な慮外者と嘲笑われる事を望んで、捨て鉢に振る舞って来たのでは無いだろうか。
あの時とて、確かに兄上を庇う心積もりで動いたのは間違いないが、心の何処かで自分が傷ついた結果、兄上が心を痛める事を望んでいた様に思えた。
きっと周囲からは、小藩とは言え大名の跡目を継ぐものとして抑圧された兄上に対して、自由気ままに生きている自分と見えただろう。
それでも最低限、猪山の名を汚す様な結果にだけは成らない様に留意してきた。
しかしこれからはソレだけでは駄目なのだ、自ら進んで名を高め、この采配この縁談が決して誤りでは無かった事を世に知らしめる責務がある。
「構う事は無い。折角の機会だ、それがしの代わりに全身全霊で世界の強者共を土俵に沈めて来い。新生豹堂は猪山と結び、世界最強として生まれ変わったのだと世に知らしめるのだ」
豚面の胸中に宿るその思いは、彼だけの物では無い。
それがしもまた寸鉄帯びる事無くたった一枚の褌だけで、己の強さだけを頼りにする角力に魅せられた事が有るのだから。
恐らくは同じような機会がまた巡ってくる可能性は少ない、角力は武士に非ざる者が成り上がる為の数少ない入り口で有る、それを武士としての身分を持つ者が専有する事は許されない。
右腕さえ無事ならばそれがし自ら土俵へと上がり、彼とぶつかり合う事も出来ただろう。
けれどもこの怪我が無ければ、大会そのものが引き起こされたかも怪しい所だ。
「如何なる敵が生まれようとも、それに打ち勝てぬ猪山では無いわ。望奴も余計な気を回すでない」
自分が参加できぬのもまた運命。
世界樹の神々ですら読み解く事の出来ぬそれを呪って嘆くより、より良い結果を求めて足掻く方が余程それがしらしいという物だろう。
未だ祝言どころか結納すら済ませていないが、三人はそれがしの言葉を主君の言と受け止めた様で、決意の篭った眼差しで見返すとただ無言で頷首くのだった。




