二百五十一 志七郎、北へ。その十一
俺が目を覚ましたのは中天近くまで日が昇った頃だった。
力尽きて倒れた兄上や、氣を使い果たし歳相応の身体能力しか残していなかった俺とお祖父様は、死傷者達と共に伊達藩士達によって後送され必要な措置を受けた後、部屋を借りて休んだのである。
その頃には既に空は白み出しており、普段ならばそろそろ朝の稽古を始める時分だった。
明け方と言って良い頃合いに寝床へと入った割には、比較的早く起きる事が出来たといえるだろう。
「おぅ、志七郎、起きたか。一晩中氣をぶち撒けたんだ、氣脈痛なんぞないか? 腹減ってるじゃろ、なんぞ食いにでも行くか。わしゃ城の飯より街の飯が好みじゃてな」
お祖父様に依れば、千田湊は漁港でも有るがそれ以上に貿易港として栄えた街で有り、その街で生活する荷役の人夫達が好む様な味の濃い料理を提供する見世が多いのだと言う。
「食事は良いですが……兄上はどうしましょう」
同じ部屋で枕を並べ眠っている兄上を見下ろし、そう問いかける。
少なくとも急性アルコール中毒で最悪の事態……と言うのは免れては居たらしいが、眉間に深い皺を寄せて苦しげに呻いているその様子は、起こしたとしても激しい二日酔いでまともに起き上がる事すら出来ないだろう事は容易に想像できた。
「ほぉって置きゃ良いさ。起こした所で飯なんざ食える状況じゃねぇだろ、寝かせとけ」
とは言われても、流石に完全に兄上を捨て置いてと言うのは気が咎めるのだが……。
「心配ねぇよ、お前が寝てる間だって世話役の女房がちょくちょく様子を見には来てたんだ。仁の世話はそいつに任せりゃ良い。おら、行くぞ」
止まる積りが無さそうなお祖父様に、そう乱暴に促され渋々外へと足を向けるのだった。
炭が爆ぜる乾いた音が響き、赤熱化したそこに滴り落ちた脂が音を立てて気化する。
タレが焦げる香ばしい香りが鼻孔を擽り、胃袋が収縮する音が行儀の悪い音を立てた。
山と盛られた白い飯を片手に、七輪へと箸を伸ばす。
噛みしめる度に溢れ出す熱い肉汁が口内へと広がり、それが消えるよりも早く飯を頬張る。
「おぅおぅ良い食いっぷりだねぇ。しっかし本当に、美味いもんだわなぁこの放おる物って奴は。真逆牛の臓物がこんな美味いたぁねぇ」
俺達が今いるのは千田湊名物で有る牛タンを食わせる見世で、その営業形式は前世で良く見掛けた『焼き肉屋』のそれで有った。
目的の見世が有るわけでは無く、そこらの出見世を冷やかしながら歩いて居ると、お祖父様がてぃんと来た! と言い出して突然此処へと入ったのだ。
当然の様に見世の名物だと言うタン塩を注文しようとしたお祖父様を押し止めて、味噌放おる物を俺が注文したのである。
そしてそれに合わせるのは、お値段的にリーズナブルな麦飯では無く、少々お高い白飯にしたのも俺だった。
タン塩は美味い、名物と銘打たれている以上それは間違いないだろう。
きっと江戸市中の見世のそれよりも美味い物が食える筈だ。
だが、それでも俺はホルモンが食べたかった。
流通や冷凍と言った技術が一般的ではない、この火元国では足の速い臓物が食えるのは、畜産が盛んで屠殺場が有る場所で無ければ食えないのだ。
無論江戸に屠殺場の類が無い訳では無いが、そこで解体されるのは牛鬼や石喰い牛と言った食肉として流通している妖怪達で、内臓には毒が有る者も居り基本的に食用として臓物が提供される事は無い。
江戸州内では、農耕用に飼育されている牛は少ないながらも居るらしいが、食用に飼育されている牛は居らず、此処で食べなければ次は何時食べられるか解らなかったのだ。
ぶつ切りにされ味噌ダレに付け込まれた牛の大腸、前世ではテッチャンとかシマチョウと言われていた物が、七輪の上に乗せられた網で次々と焼かれていく。
「こりゃ、お前ばかりバクバク食うで無い。ワシの分も残しておけ!」
ホルモンの良い焼き加減と言うのは、慣れていない者にはよく解らないらしく、お祖父様が手間取っている内に、俺は食べすぎて居たらしい。
「追加で注文すれば良いじゃないですか? 幸いホルモンは大分お安いみたいですし……」
「たわけ、今食いすぎては宴の飯が入らなく成るじゃろ。折角タダ飯の予定が有るのに、銭を払ってソレを食えなくしてどうするのじゃ」
その言い分は、正に『自分の小遣いは自分で稼ぐ』猪山の先代らしい物だった。
「さて、戻る様に言われた時刻には未だ少々有るが、何処か見たい所でも有るか?」
腹八分目と言うには少し足りない程度の量を胃に収め、見世を出た所でお祖父様は腹を擦りながらそう言った。
ちなみに食った量としては俺が三に対して彼が七位と、その年の頃を考えればお祖父様はかなりの健啖家だと言えるだろう。
「折角ですし、皆に何か土産の一つでも探して行きましょうか。貿易港だと言うなら江戸で手に入らない物の一つや二つは有るかもしれませんし」
俺の得物の材料と成る刃牙狼の牙は十分過ぎる数が手に入ったし、その後の戦いに関しても報奨金一つ位は出るだろう事を考えれば、手持ちの銭を使い切ってもさしたる問題は無い。
「となれば、湊市場辺りを冷やかすのがよかろうかの。北大陸から北回りで入る交易船は此処で荷降ろしをするのが定石じゃからな」
北大陸からの輸入品と言えば銃器や弾薬が主たる物だった筈だ、それらは直接江戸湊へと運ばれる事は無く、一度この千田湊で降ろされ幕府の御用船に積み替えられて江戸入りするのだそうだ。
禁制品、特に銃火器の抜け荷を防止する為の措置で、外国船を江戸に入れないと言うのが目的では無い。
だが積み荷の大半が此処で降ろされるのであれば、わざわざ少量の在庫を運ぶ為に江戸入りする必要も無く、結果として此処が北大陸との交易の拠点として機能しているのだと言う。
その様な場所だからこそ、千田院藩は大量の銃器を輸入し配備する事が出来ているのだろう。
ちなみに火元国から北大陸へと輸出されているのは絹や綿の織物類が主で、その他には米や麦と言った穀類、それらを材料とする酒類、あとは武具の材料と成るこの国特有の素材が少量と言った所だそうだ。
お祖父様にそんな事を教えてもらいながら、暫く歩くと江戸の自由市場以上の活気に包まれた雑踏が広がっていた。
「北大陸の山人が鍛えた、真の銀を編んだ鎖帷子だ! 今回は特別に一着五両のご奉仕だよ! 現品限り! 早い者勝ち、早くしないと無くなるよ!」
「鳳物の極上の茶碗アルー! それも今じゃぁ製法も失われた青磁の逸品ネ! 見る人が見りゃ城が買える様な逸品を、たったの一貫、たったの一貫文アルヨ!」
「龍国直輸入! 金剛石に紅玉、翠玉、どれも傷の無い大玉、今回を逃しゃ二度と手に入らない品ばかりだニャ!」
見世を広げ呼び込みの声を上げている者達は、その半数程が火元人らしい着物姿ではなく、外国情緒豊かな様々な装いに身を包んでいた。
どうやら北大陸だけでは無く、東大陸から来た交易商も少なくないらしい。
「ほぅ! 真の銀の帷子とは、誠ならば五両は確かにお値打ちじゃのう」
真の銀は火元国では取れない素材の一つで、鋼よりも固く強く錆びる事も無い、にも関わらず圧倒的に軽い為、それを加工した防具はこの国でも圧倒的な人気を誇る。
舶来品としてしか手に入らないそれは、その需要も相まってまともに手に入れようとすれば、かなりの額を積まねば買うことは難しい。
そもそも防具と言うのは、個人個人に合わせて採寸された上で作られる物で有り、前世の世界の洋服の様に吊し売りがされている様な物では無いのだ。
では何故この場であの様に既に出来上がった品が販売されているのか、それは鎖帷子が他の防具とは違い、比較的簡単に他者が纏う事が出来る様にサイズ直しが出来る物だからだろう。
恐らくは真の銀で有る事は間違いないが、それは新品では無く、何人もの戦士が身に纏った中古品なのでは無かろうか。
それらを考えても、お祖父様の言う通り『買い』と言えるだろう。
だが、問題は……
「流石に五両は逆さに振っても出せないです……」
子供の小遣いとしては余りにも大きすぎる金額だと言う事だ。




