二百五十 志七郎、北へ。その十
下手に手を出して巻き込まれでもしたならば命は無い、誰しもがそう判断せざるを得ず、剣牙狼配下の妖怪達も同様の様で、双方ともに介入するきっかけすら掴めず一人と一匹の戦いを遠巻きに見る事しか出来なかった。
剣牙狼は兄上の拳を受け地響きを立てて転がり、兄上は鋭い牙を引っ掛けられて全身に細かな切り傷を負う。
だが兄上の方は、傷を受ける度に周囲の筋肉が盛り上がる事で出血を防いでおり、一進一退と言うにはやや兄上が有利に見える。
しかし、
「不味いの……思った以上に頑強なじゃな……このままでは勝てぬやも知れぬ」
とお祖父様が不吉な言葉を口にした。
「ですが、今の所は兄上が有利に事を進めていますよ? このまま行けば多少時間は掛かっても勝てないと言う事は無いのでは?」
それに対して俺がそう疑問符を口にすると、
「あの状態はそう長くは続ける事は出来ぬ。幾ら錬火業を修めておるとは言え、酒精を完全に転化出来る訳では無い。此度は速効性を求めたが故に火酒なんぞ呑ませたが、あんな阿呆の様な強い酒を呑んで暴れて、長く保つ訳があるまい!」
そんな言葉が返ってきた。
兄上が口にしたのは度数95%と言う、火酒の名の通り火を付ければ燃える様な、酒と言うよりも消毒用アルコールと言った方が良い様なレベルの物だ。
そんな物を四合一気に呑んだりすれば、あんな大暴れをするまでも無く急性アルコール中毒を起こしてぶっ倒れても奇怪しく無い……いや、普通の人間ならばそうなって然るべき状態である。
前世の俺は決して弱い方では無かったが、それでもテキーラやウオツカなんかを杯を重ねれば、小さなショットグラスだとしても、膝が笑って立って歩く事も困難に成った物だ。
同じくアルコール度数95%以上だと言うスピリタスと言う酒を、見栄を張って一気に呑み下し、そしてぶっ倒れた友人も居た。
その彼は世間一般的には酒豪とか蟒蛇なんて呼ばれる様な男だったが、その彼すらイチコロでKOする様な物なのだから、お祖父様の言う事も無理無い事かも知れない。
「と言うか、下手をすれば兄上の命が危ないのでは? 急性アルコール中毒は場合に依っては命に関わりますよ?」
「急性アルなんとやら……と言うのは知らぬが、智香子から受け取った薬は有る。ぶっ倒れる前にコレを呑ませりゃ死にゃせんじゃろ」
俺の言葉にお祖父様は視線を合わせる事無くそう答え、
「いや……そういう問題では……」
「兎も角じゃ……仁一郎の尽力であの犬っころの妖氣は十分に削れた筈じゃ。ダメ押しにワシも一撃ぶち込む故、黒井殿と蒲田殿が止めを刺してくれ。志七郎はこの薬を仁一郎に呑ませよ。次の一合撃で仕掛けるぞ!」
口を挟む隙を与える事無く、口早にそう言葉を続ける。
その姿はミスを誤魔化そうとする、年配の部下を彷彿とさせるものだった。
もろ肌を脱ぎ、年齢に見合わぬ鍛え上げられた肉体を晒したお祖父様は、氣孔使い特有の長い呼気を吐き出した。
肺に残った最期の一滴までも絞り出す様にして吐き出し、一気に吸い込むと軽く爆発する様な音と共に全身の筋肉が膨れ上がる。
その姿は前世に見た漫画の登場人物が、服を弾け飛ばしながらパンプアップする姿に酷似していた。
「わーお、流石は音に聞こえし『猪山の悪意』……なかなか素敵な小父様じゃない……あと三十年若かったらもっと素敵だったんでしょうねぇ」
「戯けた事言っとらんで、仕掛けるぞ! 拙者は首を刈り取る、貴様は頭を叩き割れ!」
お祖父様の姿を見て嬌声を上げる蒲田殿に対して、叱り付ける様に怒鳴りながら黒井殿が地を蹴り駆け出す。
続けて蒲田殿がその場を離れるのを確認すると、
「志七郎、見よコレが氣脈の秘奥の一つじゃ。奥義は基本の中にこそ有り!」
お祖父様は気合の篭った叫び声と共に腰溜めに構えた両の掌を突き出した。
二つの掌の間で圧縮されたのだろう、お祖父様が放ったソレは決して大きな物では無い。
だが極度に圧縮された氣の塊は、肉眼で捉える事が出来る程の輝きを放ち、突き出された掌から尾を引いて飛んでいく。
多少なりとも氣を感じ取る事が出来る者ならば、ほんの小さなその輝きの中に膨大な力が込められている事は、容易に理解できるだろう。
そんな明らかな脅威が迫り剣牙狼は身を躱そうとするが、当然それに気付いた兄上は口から何かを吐き掛ける。
それは幾本もの茨だった。
兄上の口から伸びた茨は剣牙狼に絡みつきその動きを束縛し、その直後お祖父様の放った氣の塊が激しい爆音を轟かせて着弾した。
「その首もらったぁ!」
「打ち砕けぇ!」
地を這う様にして素早く駆け抜けながら黒井殿の刀がその首を一閃し、高々と舞い上がった蒲田殿の鉾がその眉間を打ち据える。
それら二人の攻撃にも莫大な氣が篭っていたらしく、続け様に耳を貫く轟音が響き渡り、爆風が辺りを包む。
舞い上がった砂塵から目を護る為、腕で顔を覆ったその短い時間の間に決着は付いていた。
深々と突き刺さった二本の刃が、双方ともに命を刈り取るには十分な状態である事は一目見るだけで理解できる。
「大妖、剣牙狼! 千田院藩、黒井豆之助とぉ!」
「同じく、蒲田紅白が討ち取ったり!」
得物を引き抜きながらそう宣言したのは、その他家臣達に聞かせる為だったに相違無いだろう。
勝利の立役者で有る兄上も、その勝ち名乗りに参加する権利は十分に有るはずだが、その声が上がることは無かった。
慌てて見回して見るが、その巨体が視界に入る事は無い。
「兄上ぇぇぇえええ!!」
腹から振り絞る様に叫びを上げ呼び掛けるが、それに応えは無かった。
最悪の事態が脳裏を過ぎったその直後、饐えた様な酸っぱい臭いが鼻を付く。
あまり嗅ぎ慣れた物では無いが、その臭いが何なのかは容易に想像出来る物だ。
「うぷっ……うぉぇぇぇぇ」
臭いの元を辿れば、その先には蹲り嘔吐く呑兵衛の姿があった。
「兄上、酔い覚ましの薬と水です。なんとか飲み込んで下さい」
どうやら意識は有るらしい兄上の様子を確認し、お祖父様に渡された小瓶と戦支度の一部として普段から持ち歩いている瓢箪を差し出す。
が、どうやら泥酔状態で有る事は間違いない様で、それらを受け取ろうと伸ばす手は震え、受け取る前に再び蹲ってしまう。
完全なへべれけ状態で熟柿の様な臭いを撒き散らしている兄上の様子を見て、俺は思わず溜息を一つ付き……薬瓶の栓を抜いた。
途端に吐き散らかされた酷い反吐の臭いが消えた気がした……それらを打ち消す程の濃厚な薬臭さと青臭さが鼻から脳天へと突き抜けたからだ。
思わず鼻を摘み顔を背ける、瓢箪を取り落としてしまったのは瑣末事だろう、栓は抜いて居ないので中身が溢れることも無い。
「……こ、コレ何が入ってるんでしょう」
俺にとっては凄まじく不快なこの臭いだが、どうやら兄上にとっては違うらしく、ほんの少しだけでは有るが酒に濁った瞳に光が戻る。
「……鬱金、田七人参、玉菜その他諸々の生薬を配合した、味も臭いも酷いが良い薬だ」
心なしか震えの収まりつつ有る手を伸ばし薬瓶を掴み取るとそれを一気に呑み干し、続けて瓢箪を拾い上げ栓を抜くのももどかしそうに一気に中の水を煽る。
「ふぅ……後は任せた……。主にお祖父様の事を……」
零れ落ちた水を袖で拭い去ると、そう言い残して静かに崩れ落ちた。
……ダウンする所まで、計算尽くだった訳じゃないよな、たぶん……きっと……めいびー……




