二百四十八 志七郎、北へ。その八
配下をこれだけ殺められながらも、未だ余裕が有ると言わんばかりに森の奥からゆっくりと姿を表したソレは、余りにも巨大だった。
牙狼とて普通の犬に比べれば十分大きいと言えるサイズで、刃牙狼とも成れば並の大型犬を軽く超えては居たが、それでも同類と言われれば納得出来なくは無い範疇に収まって居た様に思える。
だがソレは体格だけを見れば牛や馬にも劣らぬ巨体で有り、その体重はどう少なく見積もっても二百五十貫を超えているだろう。
とは言っても無駄に肥え太った物では無く、分厚い毛皮の上からでも全身が固く張りつめた筋肉に覆われている事が理解できた。
口元から長く鋭く伸びた四本の牙は脇差しとは比べるのも馬鹿らしい程で、刀や剣と称するに十分な物だ。
「……不幸中の幸いね、有れならまだ剣牙狼の範疇よ。得体の知れない大妖じゃぁ無いわ」
それが武者震いに因る物かそれとも恐れに因る物か、そう言った蒲田殿の声は微かに震えを含んだ物だった。
無理も無いだろう、のそりと気怠ささえ感じられる足取りとは裏腹に、見るだけで解る圧倒的な暴力を秘めたその姿は、見る者に恐れを抱かせるには十分過ぎる程で有る。
それでも尚、そんな軽口を叩く事が出来るのは、彼が実力者と呼ぶに十分な修羅場を潜ってきた証左と言えるだろう。
事実、それまで絶え間なく響いていた銃声が止み、射手達のある者は腰を抜かした様にへたり込み、ある者は現実逃避したのか遠い目でブツブツと何かを呟いていたのだから。
無論俺も例外では無い、努めて平静を装っては居る物の手足の震えは隠す事が出来ず、アレに切り込む位成らば自ら命を絶つ方が余程マシに思えた。
「……鬼斬童子殿、氣をしっかりと持つのだ! 彼奴の氣に飲まれては何を為す前に命を落とすぞ!」
と、俺の肩を軽く叩きながら黒井殿がそう言った、その言葉に従い普段よりも意識して纏う氣を強めると、それだけで嘘の様に心の中から恐れが消えていく。
ある程度以上の格を持つ鬼や妖怪は当然強い妖氣を纏っている、それは氣の弱い者ならば睨むだけで心の臓を止める事すら有るのだと言う。
静かに歩を進めその姿を完全に月光の下へと晒した剣牙狼は、不意に足を止めその大きな口を開いた。
おそらくは吠えたのだろう。
何故疑問形なのか、それはその咆哮を音として認識する事が出来なかったからだ。
突如襲い掛かった不可視の衝撃に、咄嗟に両の腕で顔を庇う事しか出来ず、十分な氣を纏い並の大人以上の身体能力を発揮出来る状態にも関わらず、二歩三歩とたたらを踏む事と成った。
未だ十分な距離が有るにせよ、相手が此方を仕留める気だったならば、その隙は致命的な物だった筈だ。
しかし剣牙狼は動かなかった、強者の余裕を見せつけるかの様に、一声吠えた後には此方を見渡し笑った様に見えた。
ソレだけでたったソレだけで戦列は崩壊した、武勇を誇る事無くある程度以上の氣を纏う事すら出来なかった銃士達は、たった一声で受けた文字通りの衝撃に士気を砕かれたのだ。
「たわけ! 武士の矜持が有るならば逃げるでない! 逃げた者は例え生き残っても減封だぁ!」
我先にと得物を投げ捨て逃げを打つ配下達を伊達様がそう叱咤するが、その程度で心砕かれた者達が士気を取り戻す事は無い。
結局、その場に留まる事が出来たのは、前衛組を除けば両の手で数えられる程の数だった。
この程度で恐れ逃げる程度の雑魚に用は無いとでも言う事だろうか、剣牙狼は逃げ去る者達が粗方姿を消すのを待って、再びゆっくりと歩を進め始めた……様に思えた。
首筋に走る寒気に対し咄嗟に刀を立てると、刃金を打ち合わせる甲高い音が響き、身体が宙を舞う。
剣牙狼から視線を逸しては居なかった、だと言うのにその巨体に似合わぬ圧倒的な速さで、意識加速をしていなかったとは言えその踏み込む様子すら知覚するよりも速く、俺達へと迫ると、鋭い爪の並んだ前足で俺達を一纏めに薙ぎ払ったのだ。
体格の小さな俺は為す術も無く弾き飛ばされたが、黒井殿は明らかに自ら跳ぶ事でその攻撃を受け流し、蒲田殿はその一撃が届く前に身を躱しお返しとばかりに鉾を巨大な肉球へと叩きつけていた。
その一合に狙いを澄ました様に、横を付く形で仁一郎兄上が騎乗突撃を仕掛けるが、槍が届くよりも速く剣牙狼は高々と跳び上がり、鋭い上牙を振り下ろす。
落下速度が異様に速いのは、恐らくは上に向かって氣を放ちその衝撃を利用して加速している為だろう。
馬が走る先、その時には兄上の頭が有ったはずの場所へと振り下ろされた牙は、何もしなければ彼諸共騎馬すらも叩き切って居た筈だった、だがそうは成らなかった。
即座に首を巡らせ、進行方向を変える事でその一撃を躱したのだ。
流石に無理な機動を強いた事も有って、兄上自身が反撃するには至らなかった。
けれどもこの戦いに参加しているのは兄上だけでは無い、黒井殿の太刀が、蒲田殿の鉾が間髪入れず剣牙狼へと襲い掛かる。
よく氣の練り込まれた二人の一撃は狙い過たず首筋と喉笛を切り裂く筈だった。
「くっ! 硬すぎる!」
「ちょ! 刃が立たないって、どんだけよ!」
だが、だがしかしで有る、並の妖怪ならば十分過ぎる程の威力を秘めていたで有ろう二人の攻撃は、毛皮を貫く事は無く表層の毛を少し切り裂くに留まる程度にしか、効果を表さなかった。
俺が飛ばされ着地するまでのほんの数瞬の攻防だけでも、此方が圧倒的に不利な戦いを強いられている事を理解するには十分だった。
向こうの一撃をまともに貰えば、俺達はソレだけで命を散らすのに対して、此方の攻撃は余程の事が無ければ致命傷を与える事は無い。
前世では余りやる事は無かったが、友人が好んでやっていたシューティングゲームの、それもクリアさせるつもりの無い様なクソゲーレベルの難易度では無かろうか?
だがゲームならば実際に命を落とす事は無いし、繰り返す事である程度『覚える』事もできるだろうが、コレは実戦で有りコンティニューは無い。
「……冗談じゃねぇぞ畜生!」
思わずそんな呟きが漏れるのも、しょうが無いと思いたい。
最悪の事態を想定した手は打ってあるが、ソレが間に合うかどうかも怪しい所に成ってきたのだから。
それからどれほどの時間が経っただろう、少なくとも数分は経っていると思うが、意識加速成しでは、文字通りあっという間に命を散らすこの状況、では真っ当な時間感覚を維持する事すら難しい。
それでもまだ誰一人として倒れる事無く命を繋いで居るのは殆ど奇跡に近いだろう。
皆の手に有る得物が半端な物で有った成らば命諸共へし折られ、その担い手が下手でも言わずもがなで有る。
それぞれがそれぞれ、互いの隙を埋める様に動く事が出来ているからこそ、脱落者が出ていないが、それも然程長い時間は続かないだろう。
皆の内で最も体力で劣る俺の氣が枯渇し始め、また酷使し過ぎた目や頭が悲鳴を上げ始めているからだ。
ぎりぎりのラインで成り立っている現状は、俺が抜け落ちるだけでも決壊する事は目に見えている。
そんな俺達の状況を見透かしてか、また俺達の攻撃では深い傷を受ける事は無い、と判断してか剣牙狼は俺に視線を定めると、殊更ゆっくりその右前足を上げ……振り下ろそうとしたその時だ。
「仁一郎、志七郎、未だ生きておるか! ったく、爺を走らせやがって、その犬っころ絞めたら説教じゃ。覚悟しておけ!」
剣牙狼の妖氣と勝るとも劣らぬ強靭な氣を放ち、たった一人の援軍がその場へと現れたのだった。




