二十三 志七郎、西洋の書物に触れ、悠久なる時を知る事
昼食を終え、午後になると特に定められた仕事は無いようで、母上達に呼ばれない限りは基本的に自由な時間ということらしい。
もっとも自由と言っても即応出来る範囲に居なければならないので、結局は台所に常駐することになるようだ。
そこでそれぞれが、やりたい事をというかできる事をやっている。
おトラは絹と思われる布を手に刺繍をしている様で、光沢のある綺麗な濃紺単色染めの布に、色とりどりの糸を使い大輪の花を描いている。
おミケが大量の藁束を手にそれを撚り合わせ編み上げ、作っているのは草鞋か草履だろうか? 言葉は知っているのだが今ひとつその区別がよくわからない。
派手と地味、両極端ではあるが物作りをしている二人とは違い、おタマは三味線のような楽器をたどたどしい手で爪弾いている。
その腕前は決して上手とは言えず、明らかに練習中であることが窺い知れる。
しかし、三味線の皮って確か……、この世界では別の素材なのかそれとも既に猫又になっている彼女にとっては関係ないのか……どちらにせよ触らない方が良い事な気がする。
そして睦姉上はなにやら艶やかな見たことのない文字が踊る表紙の本を手に、作業台に並んだ食材を一つ一つ確かめては、頷いたり首を傾げたりしている。
「姉上、何を読んでいるのですか?」
他の三人のやっていることも気にならないではないが、一番俺の気を引いたのはやはり姉上の読んでいる書物だ。
昨日、釣りの帰りに信三郎兄上には彼の所有する書物を読む許可は得たが、未だに一冊も読みきっていない。
時間があれば、この世界のもっと多くのことを知るためにも色々な書物を読んでみたい。
漢字かなカナで書かれたものは色々と見かけたし、外来語と思しき当て字の類も看板等でそれなりに見かけはしたが、外国語そのものを目にするのは生まれ変わって初めてだ。
たぶん智香子姉上の部屋ならば、この本の様な外国語で書かれた物も有るのだろうが、先日掃除を手伝った限りでは見かけることが出来なかった。
「ニャ? ああ、これは西洋の料理本だニャ。ちーねーちゃんのおししょーに貰ったのニャ」
そう言って姉上は中が見えるように、作業台の上に本を広げてくれた。
そこには筆記体のアルファベッドの様な文字と、沢山のインクを使って書かれた挿絵が描かれている。
よく見れば、文字は手書きのようだが、挿絵は版画か何かのようで所々色の重なりがおかしい部分があったりする。
「これ、読めるんですか?」
一応、前世であれば英語とドイツ語は大学時代に学び、それらの一般的な本ならば辞書片手に時間をかければ読めないことも無いが、目の前の本に記されているのはそのどちらでもなさそうだ。
「んー、全部は読めてニャいよ。でも、この本は料理の手順と材料しか書いてニャいし、大体はわかるかニャ? わかんニャい所はあとからちーねーちゃんに聞きに行くニャ」
いやいやその理屈はおかしい! たとえ自分の専門分野の捜査資料で、尚且つ学んだことの有る両言語でも辞書も無しに理解できる自信は全くない。
専門の料理人ならば学んでいない外国語の料理本を見て、類推することは出来るかも知れないがそれにしたって限界があるだろう。
御年八歳の幼女なら、かなカナが読めて更に多少の漢字が読書出来れば優秀の部類だと思うが、それに加え外国語も理解できるとなると、かなりの高スペックと言えるだろう。
そう思いながら姉上が指し示す頁を覗き込むと、そこに描かれてる挿絵は明らかにラーメンだ。
……これ西洋料理なのか?
「ん―、出汁の取り方が味の決め手かニャ? 豚の骨の代わりに牛鬼の骨だとどう味が変わるかニャァ」
豚の骨ってことは豚骨ラーメンか。
「鶏の骨でも良い出汁が出そうですね」
こってりとした豚骨よりは、あっさりとした鶏がらの方が好みだったが、牛骨のラーメンというのは前世でも食べたことがない。
「ニャニャ! 鶏の骨! そ~れも有りかもニャ! ししちろー実は料理の才能有るのかもしれないニャ!」
……いや、自分で考えたわけじゃなく前世の知識なのだが、まぁいう必要は無いか。
「おーし! 今度材料買ってきて作ってみるニャ! ししちろーにも味見させてあげるから楽しみにしてるのニャ!」
これは、料理の分野であれば知識チート出来るか!?
後から知ったのだが先日見かけた拉麺屋は鶏がらでスープを取っているとの事だった。
「えいほ! えいほ! えいほ!」
そろそろ日が傾いてきたかと思った頃、そんな声が外から聞こえ台所直中の勝手口に駕籠屋がやって来た。
父上が乗るような扉や装飾がついた大名駕籠ではなく、竹と藁で作られたその籠には我が家の最年長である、ネコミミ老婆が乗せられていた。
ぷるぷると足取りの覚束ない彼女を介助する為か、駕籠屋の声が聞こえた辺りで女中三人はその手を止め外へと出迎えに出る。
「「「おミヤ様、お帰りなさいませ」」」
杖を突き反対の手をおトラに取られ、一歩一歩ゆっくりと歩いて縁台へと腰を下ろす。
「ふぃ~、この歳になると宵越しのお産は堪えるのぅ……」
おミケが差し出した茶杯を手に心底疲れたという風にそう一息ついた。
「お産? という事はおミヤさん? は産婆なんですか?」
どこからどう見ても老齢の彼女が子供を生むわけが無い以上、出産に関わる老婆となれば産婆であろうというのは想像に難くないが、裏付けの無いそれを確認する為そう言葉を発す。
「そーニャ! ばっちゃはしょーぐん様も取り上げた凄腕の産婆なんだニャ! 今日も百万石の大大名のういざん? を取り上げに行ったんだにゃ!」
それに答えたのは三女中でもおミヤ本人でもなく何故か自慢気に胸をはる姉上だ、その口振りから察するに、産婆が何をするのかお産がどういう物なのかも今ひとつ理解はしていないようだ。
それでもその様子から、姉上がおミヤと言う老婆によく懐いている様子が見受けられる。
「ひゃっひゃっひゃっ! お前様もワシがこの手で取り上げたんじゃ。そもそもこの猪河家歴代の御子は皆ワシが取り上げたんじゃがな! あと、ワシャ確かに猪山藩の長老じゃがあくまでも庶民の女中枠、呼び捨てにしてくだされ」
姉上の言を受け取りおミヤがそう楽しそうに笑い言葉をつなぐ。
……年頃の少女にしか見えない三人が還暦過ぎだというなら、おミヤと言う老婆は一体何歳なのだろう?
歴代の子は皆取り上げたというが、猪河家が一体何代続いてきた家なのかはまだ知らないが、二代や三代で大名を名乗りこれだけ大きな屋敷を建てることは出来ないだろう。
「おミヤは、一体何歳なんですか?」
正直聞くのは怖いが、聞かないのもまた不気味だ……。
「猪河初代八戒様の奥方様、その飼い猫じゃったのがワシじゃ。今からじゃと……七百年位前かのう……」
「な、七百年ですか……」
「そじゃ、まだ幕府がなく都の帝が親政を為さっていた頃のことじゃ……。大江山という場所に兇悪な鬼が住み着いてのぅ。其奴を退治する為に当時の帝が大々的に懸賞金を掛けたんじゃ……」
あ、マズイ……コレは長くなる、そう思った時にはどうやら遅かったらしい。
恐らくは何度も繰り返された話なのだろう、先程までおミヤを気遣い対応していた三女中も姉上もが、俺と彼女を放って夕飯の支度へと移っていく。
当然の様にあとから来た夕食当番と思われる家臣達もこちらに触れようとしない。
結局、彼女の昔話から解放されたのは夕飯が出来、配膳まで全て終わった後だった。




