二百四十四 志七郎、北へ。その四
「得物が短筒のみでは心許なかろう」
森へと踏み込む準備を終えると、兄上はそう言って自分の腰に佩いていた脇差しを鞘ごと抜いて手渡して呉れた。
鎧を纏う事無く、普段通りに見える袴と長着に鉢金を巻いただけの兄上だったが、その布地はぴんふやりーちが鬼切りの際に着る物と同じく、下手な鎧よりも優れた防御力を誇る物だ。
その上から更に鎧う事でより防御力を高める事も出来るのだが、馬に負担を掛けて継戦能力を落とす事を嫌い、その様な出立ちを選択しているのだと言う。
「有難うございます。正直な所、刀無しでは間を詰められた時が不安だったんですよね。適当な質流れ品でも見繕う事も考えたんですが、数打ちのそれも中古じゃぁ逆に危なそうですしね」
無論、牙狼の様な雑魚に分類されるような妖怪相手ならば、それでも事足りるだろうが刃牙狼は格だけで言えば先日狼牙刀を砕かれた大鬼亀と同等と言われている。
そんな相手の攻撃を中途半端な刀で受け止めたりすれば、刀諸共切り裂かれてもおかしい話では無い、出立前にそんな話を聞いて居たが故に銃だけを懐に忍ばせて来たのだ。
「食人鬼の牙から打った一振りだ。一匹分では太刀を打つには足りず、槍はもっと上等な物が手元に有ったが故に脇差しにしたが、この様な形で役に立つとは……正に備えあれば憂い無しと言った所か」
食人鬼はその名の通り人類を主食とする大型の鬼で、たった一匹で小藩ならば滅ぼす事も出来る程に凶悪な鬼で、火元国で見られる中では比較的に上位に分類される鬼らしい。
流石にそんな凶悪な鬼が頻繁に人里を襲うと言う事は無いが、稀に発見される『鬼の砦』と呼ばれる場所の首領として出現する事が多いのだそうだ。
仁一郎兄上は砦へと攻め入った訳では無く、元服の儀式の為に国許へと帰った際、偶々偶然道中に纏めて湧いたのを、大名行列の皆と協力して退治したらしい。
当時十四歳の仁一郎兄上は家臣達と比べても決して優れているという訳では無く、一匹を討取ったのも皆の協力に依る物だと言う。
なおその当時既に手にしていたらしい、上等な槍とやらの素材は兄上本人ではなく使役する猛禽類が仕留めた物だそうだ。
家臣の獲物や成果は主君に帰属する物で有り、それを取り上げるのも改めて本人に下賜するのも、主君たる者の自由で有る。
我が藩では『自分の小遣いは自分で稼ぐ』が転じて、自分の素材は自分で仕留めるのが当たり前とされているが、他藩では家臣が仕留めた獲物の何割かを上納させるのが当然と成っている場所も有るらしい。
けれども相手が人間成らば取り上げるだけでは不満も溜まるだろうし、他家よりも扱いが悪過ぎれば良くて出奔、悪くすれば下克上とてあり得る話だ。
それに実力にそぐわない装備ばかりを身に着けていれば、見掛け倒しの阿呆坊と嘲笑われるのがオチである。
だが兄上の様に自らが使役する鷹や猟犬が仕留めた物を用いる分には問題にされる事は無い、馬に跨るのも鳥獣を使役するのも武士の嗜みで有り、それらは家臣であると同時に刀や槍同様の武具と見做されているからだ。
とは言え普通は兄上の様に本人よりも使役獣が本体と言われる程の戦力に成る事は無い、兄上が獣神様の加護を受けているからこそなのだから。
ちなみにお花さんに聞いた話だと、食人鬼は諸外国ではオーガーと呼ばれ、巨人に分類される魔物として扱われ、単独ならば兎も角群れを仕留めたとあれば名うての冒険者として持て囃されるクラスの相手なのだそうだ。
そんな凶悪な鬼の牙から作られたと言う鬼断牙と銘打たれた脇差しは、今まで使っていた狼牙刀と然程変らぬサイズだというのに随分と重く感じられた。
「食人鬼の牙から作られた得物は、切れ味こそ特筆する様な物では無いが、折れず欠けず曲がらずと攻めよりも受けに力を発揮する、刃牙狼を相手にするには最善であろう。さて、準備が終わったならば参るぞ。時間を掛けてこれ以上被害が出るもの拙かろうて」
「はい」
「「「わん!」」」
「古の契約に基きて、我猪河志七郎が命ず。自由なる翠の力……我らが下へと集い集いて天へと翔けよ」
俺が召喚した四煌戌を先頭に歩かせ、合わせて上空への風を吹かせる事で自分達が常に風下に成るように『微風』の魔法を使う。
風属性の下級魔法のコレはその名の通り微量の風を吹かせる魔法だが、指定した位置に向かって吹かせる事も、今回のように自分達を常に風下にする為に使う事も出来る。
その効果範囲は使役下にある精霊の力に比例し、今の翡翠ではせいぜい一町《約100m》四方が影響下に入る程度だが、嗅覚を頼りにする獣を相手取るのであれば、それだけでも相手に気取られる可能性は減るだろう。
だが三匹の中で最も匂いに敏感な翡翠は魔法の維持に掛りっきりに成っているので、確実に先手を取る事が出来ると油断する訳には行かない。
この辺は芝刈り等で近隣の者達の手が入っているらしく、下草も視界を隠すほどでは無いが、此のまま進んで森深くへと分け入れば草叢や樹木の影から襲われるかも知れない。
刀に手を掛け周囲の気配を探りながら、地面を嗅ぎ回りつつゆっくりと進む四煌戌の後を歩いて行く。
仁一郎兄上は後ろを警戒しながら少し後ろを、更にゆっくりと付いて来る、雑魚は俺に任せてボスで有る刃牙狼に騎乗突撃を仕掛ける事が出来る様、助走距離を取るためだ。
「わふ」
森に入って然程も進まない内に、紅牙が小さく一声鳴いて俺を見上げて足を止めた、どうやら何かの痕跡を発見したらしい。
そこをよく見てみる、すると何か重い物を引きずった様な跡が有り、それが続く先に微かでは有るが生臭い様な、錆の様な匂いがする気がした、人間の俺が嗅ぎ取れるのだから四煌戌が気付かない筈が無い。
それが普段の鬼切り地で嗅ぎ慣れた血の匂いで有る事は直ぐに解った。
考えてみれば、何の被害も出ていなければ刃牙狼が森の奥に居ると解る訳が無い。
「人を引きずった跡では無さそうです」
森に遺棄された死体の捜索は何度か経験が有るが、その際に見た跡に比べるとかなり大きな物を引きずった様に見える。
「うむ……此の匂いは牛の血だな」
俺の言葉に兄上は少し鼻をひくつかせただけで、そう言い放った。
「……血の匂いだけで区別が付くのですか!?」
思わず大声を上げそうに成るのを抑えつつ、そう問い返す、と
「血の匂いだけでは無く、牛特有の乳臭さも嗅ぎ取れるだろう? 人の血はもう少しこう……なんというか、吐き気を催す感じがしないか?」
獣神の加護を受けている兄上はその鼻も人並み以上らしい。
「……四煌戌達なら解るんでしょうけれども、俺にはその差は理解出来ません」
ともあれ多少なりとも被害が出ている成らば、少しでも早く仕留めた方が良いだろう。
気を取り直して、更に歩を進める事暫し……。
森の奥、まだまだ先の方からでは有るが、犬か狼の遠吠えらしき声が響き渡る。
同時に御鏡がけたたましく吠え立て始め、紅牙が素早く辺りを見回す。
戦場で彼らが声を上げて吠えるのは、彼らの索敵範囲内に居るが正確な場所を掴めず、牽制しなければ先手を打たれる、と言う場合で有る。
風までコントロールして十全に準備を整えた筈なのに、どうなってるんだ!?
刀を抜き、何処から飛び掛かられても良い様に身構えたその時だった。
「志七郎! 上だ!」
兄上の叫びを聞き見上げると、鋭い四本の牙を輝かせた刃牙狼が三匹、俺を目掛けて降って来たのだった。




