二百四十三 志七郎、北へ。その三
翌朝、日が昇るより早く千田湊の市街地を離れると、その周辺は見渡す限り収穫を終えたばかりの田園風景が広がっていた。
今回の獲物である刃牙狼はその名の通り、小僧連の皆と一緒に狩った事のある牙狼の上位種では有るが、江戸州に出たと言う記録は無い。
その為、江戸州鬼録には刃牙狼の項目は無く、牙狼の項目の文末に『上位種として刃牙狼、剣牙狼等が居る』と一言書かれているだけだった。
江戸州の牙狼は『牙狼ヶ丘』と言う、薄に覆われた小高い丘に生息するのだが、少なくとも見える範囲にそんな地形は無く、兄上が馬を進める方向には遥か彼方に紅葉に色付きつつ有る森が広がっているだけだ。
ちなみに牙狼は上顎から鋭く伸びた二本の牙が特徴で、イメージ的にはサーベルタイガーのソレが近いだろうか。
通常の犬や狼の様に群れを形成するもののリーダーと成る個体は無く、江戸州では決して強い妖怪とは見做されていない。
「兄上、刃牙狼とはどの様な妖怪なのですか? 俺が読んだ本には乗っていなかったのですが……」
昨日同様鳩ブランコに揺られながら、だく足で進む兄上にそう問いかける。
討伐戦前に馬を疲弊させる訳には行かないので、今日は昨日とは違い移動速度は程々で、前世の感覚で言うなら、交番勤務時代に警邏で使って居た自転車と同等程度だろうか?
此方の高度も余り高くは無く、地面から一間程しか飛んでいない。
鳥は気流や気圧等の関係で自分達に取って飛びやすい高さや速さという物があるのだが、兄上の育てた鳩達はそんなものは知らんと言わんばかりに、馬と並んだ状態を維持している。
「……江戸州の牙狼と一緒に考えるなよ。戦場とは人が戦い易い様整えられた場、基本的に地の利は人にある。だが今回の様な『逸れ妖鬼』と呼ばれる類は、己に利理のある場所に現れるのだ」
そんな言葉から始まった兄上の話に依ると、本来ならば牙狼は木深い山中に生息する妖怪で、木々を利用した縦横無尽の機動性とそれにより繰り出される牙の一撃こそが持ち味なのだと言う。
平地ではせいぜい飛び掛かりながら、牙で引っ掛ける程度の事しか出来ず、牙狼ヶ丘ではその実力の半分にも届かない戦闘力しか発揮出来ていないのだ。
そしてそれは牙狼だけでは無く、江戸州の戦場に現れる鬼や妖怪その大半に当てはまる事である。
戦場という場所は鬼や妖怪を効率良く狩る為に、本来相手が住むのとは全く違う環境の場所へと現れる様、意図的に作り上げられた場所なのだそうだ。
例外が有るとすれば『小鬼の森』なのだが、あの場所に出現する小鬼や犬鬼は何処に現れても大差ない程度の能力しか持ち合わせて居ない為、それ以上に弱体化させては初陣の試練にすらならない、と言う事らしい。
地の利が相手に有る以上、俺が相手にした事の有る牙狼よりも危険度が高いのは間違いないだろう。
そして刃牙狼は牙狼同様に上顎から生えた二本に加え、下顎から真横に伸びた二本の計四本の牙を持ち、下顎の二本は並の鎧ならばあっさりと切り裂く刃なのだそうだ。
体格も通常の牙狼の体長は大きくても五尺なのに対して、刃牙狼は六尺オーバーが普通で、体重も二十七貫以上と明らかに差が有る。
それほどの巨体を持ちながらも、高い身体能力を持つが故に決して鈍重では無く、並の鬼切りではその姿を目にすることすら無く命を落とすと言われているらしい。
つまり単独でも俺が倒した事の有る鬼や妖怪達よりも圧倒的に強いと言う事だ。
「それだけでも厄介では有るが、それ以上に気を配らねばならんのは、刃牙狼と言う指導者が存在する事だ。上位個体が存在する牙狼の群れの危険性は数段跳ね上がるのだ」
そう口にした兄上の表情は義二郎兄上の様に強敵を前に喜ぶ様な物では無く、むしろ厄介事を前に困り果てて居るように見えた。
だがそれも無理のない事だろう、統率の取れていないチンピラならば対した脅威も無が、組織立って抵抗する者達を逮捕するのは、余程下準備を整えて行かなければ此方に被害が出かねない。
たとえそれが大した武装を持たない弱小組織だとしても……だ。
しかし逆に強いカリスマを持つ一人のリーダーに統率されたグループを壊滅させるのは、複数の頭を持つ組織を潰すのに比べればその難易度は低い。
「どれほどの群れを率いているか、にも寄りますが小規模ならば正攻法で、それで対処仕切れないような大きな群れならば斬首戦術が有効そうですね」
斬首戦術と言う言葉が何時どの様なタイミングで使われ始めたかは知らないが、前世に読んだネット小説でよく見た、単独や小勢で巨大なモンスターの群れを相手にする際に頭を直接討取る戦術だ。
何処で読んだかは覚えていないが『敵中に切り込む場合は先ず、雑魚に構わず頭を潰す事こそが上策』と言う言葉も有った。
それらを鑑み、そんな提案を口にする。
「……先手を取る事が出来れば、それが最も効率が良かろうな。だがそれを為すには索敵面で此方が勝る必要が有る。鳩兵衛達による空からの索敵も、木の詰まった森の奥ではどれほど効果があろうかの」
上空からヘリで犯人を追跡した際には、森や地下に潜られ振り切られるケースは決して珍しい事では無い。
高度や速度を自由にコントロール出来る兄上の鳩は、上空高く飛ぶことしか出来ないヘリよりは、ドローンに近いかもしれないが……。
とは言え、幾ら集団で有ればそこそこ大きな妖怪を狩り仕留める事の出来る、半ば妖怪に成りかけている様な鳩達だが、森の中と言う敵が最大限の力を発揮する場所では被害ゼロという訳には行かないだろう。
俺には区別が付かないし話をする事も出来ないが、兄上に取っては間違いなく大切な家族で有り家臣なのだ。
「となるとやはり……」
「そろそろ鳩兵衛達には索敵を頼む事に成る、志七郎此処から其方は徒歩で頼む」
俺が次の考えを口にしようとした時、遮る様に兄上がそんな声を上げる。
顔を上げて前を見ると、いつの間にやら目的の森まで然程遠く無い場所へと付いて居た。
鳩ブランコから下りると、兄上は馬に括り付けられた荷物から鳩の餌をばら撒く。
すると、飛んでいる時には固く結ばれ無駄口一つ叩かなかった鳩達がけたたましく騒ぎながら群がっていった。
その姿を横目に見ながら、同じく馬の鞍に括り付けられていた鎧櫃を開ける、中に入っているのは今まで使っていた『鉄蛇鱗大鎧』だ。
「これを着るのも最期になりそうですね……」
多少の擦り傷は有るが大きな破損の無い兜を軽く撫でながら、なんとなくそんな呟きが漏れる。
今回の刃牙狼討伐が終われば、その素材を用いて刀を作り、合わせて鬼亀の甲羅で鎧を作る予定だ。
鎧は基本的にオーダーメイドで有り、吊るし売りなんてものは無い。
中古品の流通が無い訳では無いが、その場合でも多少のサイズ直し以上の調整は不可能で、それ以上となると分解して素材を取り、改めて作り直すと言う事に成る。
成長著しいこの幼い身体に合わせて作られた鎧では、サイズが合わなく成るのは当然の事で有り一年保っただけでも御の字という物だろう。
「感慨深いのは解るが、余り時間を掛ける訳には行かぬ。闇の中では此方が圧倒的に不利だからな。鎧を付けたならすぐに呼んでくれ」
「はい、すぐに準備します」
言われた通り急いで装備を整え、呼ぶ事にしよう。




