二百四十一 志七郎、北へ。その一
あれから三日が経ち、その短い期間で仁一郎兄上は情報を集め獲物を定め、その妖怪を討伐する為に江戸州を離れると、幕府からの承認をもぎ取ってきた。
大名家の子弟それも嫡男と成れば公的な物と認められる様な行事か、武士の矜持に関わる様な問題が無ければ江戸州から出来る許可はそう簡単に下りる物では無い。
無論今回も馬鹿正直に「料理人に与える褒美の材料を狩りに行く」と言うのでは、許可は下りなかった筈だ。
通常ならば銭を積むか、そうじゃなくても家臣に行かせれば済む話だからである。
そこで仁一郎兄上は、俺が新たな得物を作るのに必要な素材を取りに行く為の討伐で、本来ならば家臣を共に付ける所だが、小藩で有る猪山藩には余剰と言える人員は居ない。
故に普段ならば義二郎兄上の出番だが、片腕を失った今の状態では心許無い為、自分が共をするのだと幕府の老中達に説明したのだそうだ。
結果、義二郎兄上と信三郎兄上の二人が江戸市街から出ない事を条件に、俺と仁一郎兄上の出立は認められる事になったのだと言うが、ソレにしたって話が早すぎる。
その辺を突っ込んで聞きたいとは思ったのだが、他の二人の兄上達に揃って「世の中知らぬ方が良い事も有る」等と青ざめた顔で言われては、流石に躊躇せざるを得なかった……。
閑話休題、許可が下りたので有れば早速出発だと、俺は兄上に連れられて行く事に成ったのである。
「兄上! 茶店が有りますが、そろそろ一休みしませんかー!?」
と、此処に居る経緯を思い出しつつ、一件の茶店が視界に入ったので、土煙を上げて馬を駆る兄上を見降ろし声を張り上げた。
そう見降ろして……だ、とは言え別に俺が急速に大きく成り兄上の背を追い越した訳では無い、今俺は兄上の乗る馬の上空を飛んで居るのである。
今回の獲物は数年に一度目撃される程度と言う比較的レアな妖怪なのだが、取れる素材を刃物に用いれば鋭さを増し、刃毀れをせずと良い事尽くめで高い需要が有るので、少しでも早く行かねば他の鬼切り者に先を越されかねないのだ。
前世ならば二輪も四輪も免許は持っていたし、それなりに運転経験も有ったが、残念ながらこの世界には自動車等という物は無く、その経験は活かす事は出来ない。
代わりと言えばや竜等の動物に成るのだが、残念ながら前世では体験乗馬の様な形で馬には何度か乗った事は有るものの、それとて手綱を取ってもらってのだく足で、自分で走らせた事など一度も無かった。
そのうち乗馬も習う必要が有るとは思っては居たのだが、流石に昨日今日習った所で兄上の全力に付いて行ける筈も無く、相乗りでは速度を落とさざるを得ない。
そこで兄上が出した解決策はと言えば、二十羽程の鳩に紐の付いた木片を掴ませ、その紐の先に取り付けた板に俺が座ると言う、前世に国民的妖怪アニメで見た事の有る(向こうは鳩ではなく鴉だったと思うが)方法で空を飛ぶと言う物だった。
「……そうだな! 一服するか!」
そんな返事が返って来たのを聞き俺はほっと溜息を付いた、秋の空を飛ぶのは正直寒いのだ。
寒さだけならば耐えられない程では無いが、寒くなれば発生する生理現象が有る、流石に空からぶちまけるのは色々な意味で避けたい。
さほど時間を置かず茶店へと付いた所で、俺は急いで厠へと駆け込んだ。
「上は寒かったか……、茶を飲んで温まると良い。これから進めば更に寒く成るだろうからな……」
用を足して戻ると、兄上が鮮やかな緑色の菓子を頬張りながら茶を啜って居り、俺の分も注文してくれていたらしく、それを勧めてくれた。
進めば寒くなると言う言葉が示す通り、江戸から玄武街道を北上した先、火竜列島を竜に見立てた時に首の辺りに有る『千田院藩』を目指しているのだ。
千田院はその名の通りの広大な田畑を持つ大藩で、更には火元国でも一二を争う水揚げ量を誇る豊かな港を有する極めて裕福な土地柄で有る。
そんな千田院藩を治める伊達家は副業を営まずとも十分なだけの収入が有り、その子弟は武士として恥ずかしくない程度に武芸を修めると、後は趣味に没頭するらしく書画や詩文、服飾デザイン等の芸術分野で名を残した者が何人も居るのだそうだ。
此方の世界でも見目の派手な男を『伊達男』と形容するのだが、それは伊達家の男達に由来する物らしい……。
「うん、ずんだ餅は久し振りですけども……美味しいですね」
差し出された緑の菓子、それは前世に何度も口にした事の有る懐かしい味だった。
前世の母が宮城県出身だったので、家ではよく出されるおやつだったが、他所では余り食べる事が無いのだと知った時には少なくない衝撃を受けた物だ。
「……そうか、志七郎はこれを食った記憶が有るのだな。義二郎から話には聞いていたが……悪くは無いな」
兄上は江戸から北へと上がるのは初めてなのだと言う。
とは言え、大名家の嫡男で有る以上彼が江戸から出ること事体、数える程なのは言うまでも無い事だろう。
むしろ義二郎兄上が勝手気ままに出歩いている事の方が色々と問題なのだが、その辺はまぁ『あの一郎の弟子だし』で流される程度の事らしい……。
「……千田院辺りでは牛の舌を焼いて食うらしいが、それも食った事があるか?」
「牛タンですか。ええ、食べた事は有りますし、焼き肉の中では好きな部位の一つですね」
前世だと牛タンだけで無く、焼き肉が世間一般で食べられる様に成ったのは戦後の事だったらしいが、此方では江戸市中でも焼き肉を商う見世を見かけた事は有る。
だが江戸市中で武家の者が外食するのは褒められた事では無く、生まれ変わってからは口にして居ない。
そしてそれは武士の矜持よりも……
「焼き肉を食うならやっぱり麦酒が欲しい所ですねぇ……。酒は余り好んでは居ませんでしたが、焼き肉の時だけは米よりも麦酒でしたね」
この幼い身体で酒が呑みたいと言う衝動に耐えられなくなる事を恐れたからである。
「……そうか、焼き肉には麦酒が合うのか」
俺の言葉を聞き兄上は、渇望と絶望の入り混じった表情で喉を鳴らしならがらそう呟いた。
三度の飯より酒が大好きな兄上だが、先日の妖刀騒ぎ以来『馬の小便』と形容されるようなクソ不味いらしい酒以外を口にする事を禁止されている。
そんな状況の兄上に、深く考えての事では無いが酒の話を振ったのは酷な事だったかもしれない。
「出先での外食は恥には成らないとは言いますが……今夜は牛タン止めておきましょう。俺も兄上も呑みたくなっては辛いですから……」
「……うむ。俺だけならばお前が黙っていれば露見する事も無かろうが、未だ幼いお前が呑んでは障りがあろうからな……」
子供の飲酒は法で禁止されている訳では無いが、幼い内から呑んで居ると中毒や依存症に陥りやすいと言う事は、経験則として知られている。
その為甘酒は兎も角、それ以外の酒類を子供相手に出す見世は少なくとも江戸市中には無い。
田舎では気にしない所も有るらしいが、大概の場所で子供が酒に手を出そうとすれば『餓鬼に呑ませる酒が有ったら儂が呑む!』と大人達に叱られるのがオチである。
「とは言え、米の飯に合う物は基本的に酒にも合うんですよねぇ……」
和食のおかずは飯を美味く食う為の味付けが大前提なのだ、大半の料理は米から作られた酒に合わないはずが無い。
「言うな! 酒が欲しくなる!」
わなわなと肩を震わせながらそう吐き捨てた兄上のそれは、アルコールの離脱症状に依るものでは無いと信じたい……




