二百四十 志七郎、苦労を偲び苦悩を見る事
「苦労を自慢するようじゃぁ、職人として失格ではござんすが、お侍の奥方様にそうまで言われちゃぁ、仕様が有りやせん」
息子達の教育の為だから……と、母上に請われ、男はそう前置きした上で訥々とした語り口で今回の料理に纏わる話をし始めた。
その話では信三郎兄上の言う通り今年は秋刀魚が不漁で、鮮魚市場では例年ならば最上物を買える程の値で並程度の物しか買えない様な状況で、しかもただ高いと言うだけでなく、それ以上の品が市場に無いのだと言うのだから状況は深刻と言えるだろう。
無論、極々少量の上物や最上物が水揚げされていない訳では無いが、そういう物は一部の大商いをする様な見世が市場を通さずに押さえてしまう為、彼の様な小さな見世ではそう簡単に手に入る物では無い。
それでも普段の商いならば、身の丈に合った品を仕入れれば良いだけの話なのだが、今回は母上の出した条件に見合うだけの物を用意しなければ成らなかった。
故に彼は漁師の下を訪ね歩き、修行時代に苦楽を共にした同門の料理人達の伝手を伝い、たった一度だけ十分な数の最上物を回してもらう為に方々に頭を下げて歩いたのだと言う。
それと並行し江戸周辺の田畑の様子を見て回り、何時秋刀魚が十分な量手に入ったとしても、それに釣り合うだけの最高の野菜を採れたて新鮮な状態で入手出来る様、毎日様子を確認していたらしい。
秋刀魚、野菜に比べれば手間が掛からなかったのは山鯨だそうだが、それだって他の食材が揃ったタイミングで釣り合うだけの品質の肉を使える様、毎日十分な量を仕入れ続けて居たのだと言う。
当然そんな風に駆けずり回りながら、平常通りの営業を続ける事等出来る訳も無く、昼の営業はせずに夜の営業だけ、それも本来ならば毎日日替わりで提供しているのを山鯨料理一本にせざるを得ない状況になっていたのだそうだ。
色々と工夫を凝らして色々な料理を作っては居た物の、常連の中には殆ど毎日の食事をあの見世で取る様な者も居る、流石に約二ヶ月毎日同じ肉では飽きが来るのも無理は無い。
水鏡が毎日見世に顔を出し、彼らに面白可笑しく今回の一件を語らなければ、そうした常連達が離れていたかも知れない。
そんなリスクを犯しながらも、最高の素材が全て揃うのをただ静かに待ち、満を持して出したのが今回の料理なのだそうだ。
「……そんな感じで、褒美を弾んで頂けりゃ、此処暫く山鯨しか食わせる事の出来なかった、常連の皆にも美味いものを拵えてやりたい所でさぁ」
元来、口で語るよりも仕事で語ると言うタイプの男らしく、決して饒舌とは言えないながらも、彼はそう語り終えると、ほっとした様な表情を浮かべつつ再び平伏した。
考えてみれば、冷蔵や冷凍、大規模流通なんて技術が一般化していないこの大江戸で、前世と同じ感覚で値付けをしても上手く行く筈が無い。
素材入手に関する手間暇を理解すれば、義二郎兄上が口にした二両と言う数字ですら吝嗇の誹りを免れぬ小さな数字とすら言えるだろう。
この辺は『自分の小遣い位は自分で稼ぐ』と言う猪河家の家法が裏目に出ているのでは無いかと思う、自ら稼ぐ苦労を理解しているからこそ財布の紐が硬いのだ。
しかし人を使い、その成果を認め、褒め、労う立場の者が報奨を吝嗇る様では、下の者達は付いて来ない。
例え畑違いの仕事だとしてもその苦労を慮り、正当な評価をする事こそが人の上に立つ者には絶対的に必要な資質と言えるだろう。
正直な所、俺自身がそれを完全に出来ているとは全く以て思わないが……。
どうやら兄上達も彼の話を聞いて思う所が有ったらしく、義二郎兄上は苦虫を噛み潰した様な顔で空のお膳を見つめ、仁一郎兄上も思い詰めた様な表情で拳を強く握りしめている。
「さて、この話を聞いて改めて値を付け直すならば、幾らを付けるのかしらねぇ……」
そんな二人の様子を見て、母上はしてやったりと言わんばかりの笑みを浮かべてそう言った。
「十両……褒美を含めて十両でござる」
暫しの沈黙の末、先に答えを出したのは義二郎兄上だった。
十両――即ち百万円と考えれば、二十五人分の一食には少々高すぎる値付けだろう。
だが二ヶ月もの準備期間を費やした、世界最高の一食と考えれば妥当な線かも知れない……
そう俺が一人納得しようとした瞬間だった、それを聞いた仁一郎兄上が意を決して口を開いた。
「……苦労の程は良く解った。手間暇を惜しまず、何一つ手抜かりをせずに拵えたこの料理には、睦が言った通り値を付ける事も出来ない価値が有るだろう。それは当然褒美を出すに値する事だ。だが拙者はこの料理に一両二分の以上の値付けする事はしない」
兄上の言葉に皆驚きの表情を見せ、それから料理人の反応を見ようと視線を彼に向けるが、平伏したままのその姿勢ではどの様な表情を浮かべているかも解らない。
「無論、報奨を吝嗇る為に言っている訳では無い、誠の馳走に銭で報いる事こそが無粋と思うが故……だ。銭を積んでも食えぬ料理ならば、銭を積んでも手に入らぬ物こそ褒美に相応しかろう」
料理その物の代価としての一両二分、それとは別に町人の立場では手に入れる事の出来ない物を褒美として与える、それが仁一郎兄上の主張だった。
此方の言い分も理解出来る内容で、その品物次第では義二郎兄上の主張した金銭以上に喜ばれるだろうと思える。
「客に美味いものを出したいと言うので有れば、銭を積んだ所で手に入らぬ希少な獲物を拙者自ら狩りに行って良いし、我が家で懇意にしている鍛冶師の元へ上等な刀を誂える素材を持ち込み包丁を作らせるのも良かろう」
先日俺が口にした大鬼亀のモツの様な一般には出回らない希少な食材、また同様に希少な素材を用いた料理道具、それらは兄上が言った通り如何に銭を積もうとも手に入れる事は難しい。
前者は流通や保存に難がある為に、後者は武具への加工が優先される為に、武士や鬼切り者以外が手に入れる事がほぼ無いからだ。
『鬼の褌屋』の様な口入れ屋を通して依頼する事で手に入れる事が全く不可能と言う訳では無いだろうが、依頼期間中に希少な鬼や妖怪が発見されるとは限らないので、余程運が良くなければ口入れ屋の時点で断られるのが普通である。
だが仁一郎兄上は鳩便のお陰で方々に伝手を持って居り、下手な隠密等よりも早く正確な情報を手にする事が出来るだろう。
そして狙うべき獲物が見つかれば、多少遠くとも馬を駆り打ち倒すのだ。
大名の嫡男が江戸州を出るには幕府の許可が必要に成るが、武士の矜持を守る為ならば許可は下りるだろう、と言うのが兄上の主張だった。
「まぁ、悪くない判断ね。二人とも最初からその答えが出れば、家長を任せるのに安心できるんだけれどねぇ……」
二人の主張を聞き、それが及第点だと判断したらしい母上が、不安半分安心半分と言った複雑そうな溜息と共にそう言葉を発する。
「でもどちらの言い分も一長一短ね。仁一郎の主張を取れば褒美を出すのは後日となるし、義二郎の主張を取れば馳走を銭で買う無粋者……どちらの場合でも外聞の良い物じゃぁ無いわね」
ではどうするのが最善手だと言うのか、考えた末に出した答えにケチを付けられた兄上達が恨めしそうな、悔しそうな表情を浮かべて母上を見返すと、
「簡単な事じゃない、二人の意見に一長一短有る成らば、二人の意見を合わせれば良いのよ。今日の時点で十分な報奨金を出して、後日褒美の品を届ければ良いのよ。褒美の品を出す分減額して今日の所は五両……と言った所かしら?」
最初から、この落とし所を見越して居たのだろう、母上は何の事は無いと言わんばかりに茶を啜りながらそう言った




