二百三十三 「無d……録画禁止」
意を決し冷たい水を頭から被る。
湯気が漂い多少なりとも温められているとは言え、日が落ちれば最早寒いと言っても過言では無い季節。
必要な事とは言えども井戸から汲んだばかりの水は長く伸びた髪に染み渡り、肌に落ちればその冷たさは肌を刺す様にすら感じられる。
「折角お風呂沸かして貰ったのに~、なんでお水なの~?」
一足先にかけ湯をして、まるで人を茹でる為の大釜の湯に浸かったお花さんが、気持ちよさそうに蕩けた表情でそんな事を口にした。
私が湯では無く水を被る理由それはあの大鬼亀の首を落とした時、盛大に吹き出した返り血をものの見事に被ったからだ。
「血は湯で洗うと固まってしまい綺麗に落ち無い、それ故に血の汚れは水で洗う、と教わりましたから」
それは返り血であれ己の血であれ、普段から血に塗れる事こそが仕事で有り誇りで有る武家の者ならば男女問わず、武家の子で無くとも女子ならば月の障が有る故に、当然覚えていて然るべき常識だとお母様から教わった事だ。
「へぇ~そうなんだぁ~」
私はまだ幼いが故に月の物は無いが、彼女ほどの年頃成らば当然知っているべき事では無かろうか?
少々訝しく思いながらも、冷たい水を浴びた身体は凍えるとまでは言わずとも、歯の根が合わなく成り始めていたので、先ずはさっさと血を洗い流す事に専念する。
二度、三度と水を被り、髪を手櫛で梳き完全にベタ付きが感じられなくなったのを確認していると、
「ここ、ちょっと血が残ってるよ~。あ、流して上げるから動かないで~」
お花さんは大きな湯音を立てながら立ち上る。
「あ、有難うございます」
彼女が掛けてくれたのは冷たい真水では無く、かと言って熱い湯でも無かった。
湯船の湯と井戸の水を混ぜ、湯とも水ともつかぬ温度のソレを手早く用意してくれたのだ。
「血を水で洗うのは知らなかったけれど、あっちはお母ちゃんから女の子が身体を冷やしちゃぁ駄目だって教わったの~」
頭の横、ちょうど左耳の上辺りの自分では見る事の出来ない場所に汚れが残っていた様で、お花さんはそう言いながら、丁寧に手櫛で濯いでくれた。
続けてもう一杯、先程よりは温かいそれは未だお湯とは言い難い物だったが、冷えた身体で受け止めるには丁度良い加減だ。
「はい、綺麗になったよ。後は冷えた身体をちゃんと温めようね~」
徐々に水の割合を減らし、彼女がそう言ったのは湯船から掬い取った湯をそのまま掛けてくれた時の事だった。
「お花さんは何故、女性の身で鬼切りを続けているのですか?」
年相応に小柄な私と大柄とは言えないまでも肉感的な彼女、湯に浮かんだ大きなソレ……向かい合わせになってもまだ多少の余裕は有る、そんな大釜に二人揃って浸かりながらそう疑問の言葉を口にした。
お父様やお兄様の話では、女鬼切りと言うのは父や夫が病等で碌に働く事も出来ない様な状況に成った時緊急避難的に行う者が大半で、花火師と言う立派な職人を父に持つ彼女がこんな危険な仕事をする必要は無いように思える。
中には女らしい仕事よりも鬼切りが性に合うと言う男勝りの鬼切娘何ていうのも居るらしいが彼女はそういう性質には見えない。
同性の私が言うのも何だが、あの破廉恥な装いと相まって吉原や岡場所の遊女と言われた方がよほどしっくりと来る……とは流石に口には出せないが。
「ん~、うちのお母ちゃん元々は御武家様の子なんよ……」
ゆっくりと穏やかな口調でそう語りだした彼女の話に拠れば、彼女の母はとある流派を継承して来た一族の出で、本来ならば同程度の家柄を持つ武家に嫁ぐ予定だった。
だが彼女の母は幼くして天稟を発揮し、嫁入りの頃にはその流派において師範を務めるに足る技量を身に着けてしまう。
普通の武芸成らば武家の娘の嗜み、と嫁入り道具の一つにも数えられるだろうが、その流派の技は女が扱うには問題が有る物だったのだ。
「裸身氣昂法、それがお母ちゃんからあっちに受け継がれた技なの~」
氣を高める方法は大きく分けて二種類有る、己の内に有る氣の元を燃やし高める方法と、空気中に漂う氣の元を取り込む方法だ。
多くの氣孔使いはその両方を併用するのだが、その裸身氣昂法は肌から直接氣の元を取り込むのだと言う。
肌を空気に晒す面積が広ければ広いほどに強い力を発揮すると言う性質上、脱げば脱ぐほどに強く成る訳で、極めた殿方は褌一丁で戦うのが常道なのだそうだ。
その担い手が女性で有ろうともその性質は当然変わる事は無く、彼女の母はその柔肌を人目に晒す事を厭う事無く修練や実戦に励んだらしい。
結果『当家の嫁には相応しく無い不修多羅な娘』と先方には言われ、また彼女に対する謂れの無い……とは言い切れない噂が当時の武家社会に蔓延したらしい。
そんな話を聞いて、お母様が集めた武者絵の中にそんな逸話を持つ者が居たのを思い出した。
「えーと、もしかして貴方の御母君は『脱ぎ夜叉姫』ですか? 確か出入りの職人に嫁入りしたとか……」
技量は並成れど、脱げば脱ぐほどに強く鋭い氣を放つと言う謳い文句だった彼女は、行き遅れる事無く、全盛期と言っても良い頃合いに嫁入り引退したと、お母様から聞いた記憶が有る。
「ほぇ~、流石は御奉行様の娘さん、よく知ってるねぇ~」
子供の様な笑みを浮かべそう肯定を口にするが、それは彼女の技に関する説明には成るが、彼女が鬼切りを続ける理由では無い、その事を改めて問いかける。
「ん~……修行?」
と彼女は珍しく眉間に皺を寄せ悩む様な表情を浮かべると、自分でも疑問が有るかの様な口ぶりでそう答えた。
十分に温まった私達は、衣服を整えると宴が行われている広場ヘと早々に向かう事にした。
結い上げる事も無く洗い髪を晒したままで、殿方が集まる場に出るのは少々端ないとは、思わなくも無かったけれど、夕餉前に出陣しそれから多少の水しか口にして居ないのだ、お腹の虫が何時騒ぎ出しても可怪しく無い。
尤も援軍を率いて来たのがお父様で無ければ流石にこんな格好で出ていく事はしない。
色香に迷った殿方は前後の見境が無くなる物だと、言われているからだ。
しっかりと着ているけれどそもそも布地が少なく、肌も顕なお花さんの肉感的な肢体に血迷った輩が、彼女だけでは飽き足らず私にも食指を動かす事も有り得るだろう。
未だ月の物すら迎えていないとは言え、私の様な年頃の娘を好む輩も居ると聞く。
未婚の女が手篭めにされても、法度の上では相手の男に大した罰が与えられる事は無い。
武家の子女ならば武家の面子に掛けて家中の者が報復するだろうが、庶民の娘は暴漢に襲われても『野良犬に噛まれたと思って忘れろ』と言われるのが普通なのだ。
お兄様には男児と見紛う様な可愛げの無い妹と言われたが、鎧兜姿ならば兎も角こうして女らしい装いをしている時には、同年代のぴんふが私を意識している様子を見た事も有るし、決して見目が悪いと言う事も無いのでは無かろうか?
だが自他共厳しい父上が居る場で、その娘に無体を働く馬鹿は流石に居ないだろう。
私と一緒に居ればお花さんだけが標的にされると言う事も、まぁ大丈夫だと思う。
そんな内心の思いを他所に私達が広場へと辿り着くと、殿方たちの視線が一斉に此方を向いた。
酒色に濁ったソレが身体中を貫き、お父様がそれを諌める声を上げる……そう思っていたのだが……。
私に向けられた視線は一つも無く、その場の全て……父上のソレすらもが私の横に釘付けになっていた。
……うん、余計な自惚れは心を殺すのね。




